第4幕
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***
目を開ける。夢からの目覚めは緩やかでするりとしていた。眠気も残っていない。麻酔が切れた時の、直線的な意識の浮上。
上体を起こす。胴全体が引き裂かれたかのように痛い。まだ手術痕が治りきっていないのだろう。手術を施されてからそれほど時が経っていないようだ。そんなことを冷静に判断しながら、周囲を見回す。
そこは、病室、という名が相応しいような部屋だった。無臭の空気、そして白を基調とした質素な内装。傍らには点滴台が寡黙な執事のように黙々と突っ立っている。広めのベッドの左右には手すりがつけられていて、近くの壁には連絡用の紐がぶら下がっていた。これを引けば、壁の奥に取り付けられた装置がどこかへブザーを鳴らすのだろう。
「四十時間だ」
ふと声が上がる。ベッドの脇、それもかなり離れた位置で、背もたれ付きの椅子に座る男がいた。悠然と新聞を眺めている。
「探偵社が指名手配されてから三日目、時間にして四十時間後、それが今だ」
「……フィー」
「探偵社員はまだ全員が捕まったわけではないようだな」
立ち上がり、フィッツジェラルドは手の中の新聞紙を折り曲げた。先程まで座っていた椅子の上に、それを放り投げる。
「内臓の一部を移植した。ほとんど使い物にならなくなっていたからな。慣れれば普通の人間と同様に生活できる」
「……臓器なんて、そんな簡単に手に入らないんじゃ」
「金を出せば手に入らんものはない。それがこの世の中だ」
ベッドのそばまで来、フィッツジェラルドは大したことのないように言い切った。クリスは言葉を探して黙り込む。通常ならばそんなことに資金を注ぎ込んだことに感謝の一言でも言うのだろう。しかし相手はフィッツジェラルドであり、自分はクリスである。彼が人情で手を貸してくれたわけがなかった。
「……部下にはとことん甘いな、相変わらず君は」
「俺の部下は全員優秀だ、簡単に死なれてしまっては困る」
「それで、わたしが勝手に出て行かないように見張っていたというわけか」
ちらと病室の壁を見遣る。そのどこにも窓というものはなかった。地下室なのだろうか、それとも病室という名の監禁室なのだろうか。未だぼんやりとする頭でそんなことを考える。
「当然だ」
フィッツジェラルドの張りのある声は狭く物の少ない病室によく響く。
「どうせ君の脱走癖は治っていまい」
「脱走癖、って……」
「君は常に、一定の場所に留まることを恐れていたからな。それが室内であろうと組織であろうと。——まだ傷が痛むはずだ、無闇に動き回るなよ。じゃじゃ馬が勝手に動き回って開いた傷を世話するほど俺は暇ではない」
「さっきから脱走癖だとかじゃじゃ馬だとか……君に恨まれるようなことをしてきた記憶はあるけど、さすがに酷いな」
「記憶があるのなら結構だ、存分に反省しろ」
「断る」
「だろうな」
クリスの返答にフィッツジェラルドは驚きも呆れもしなかった。そのまま背を向け、部屋を出て行こうとする。
「フィー」
思わず呼び止めたのは、その対応が思ったよりもあっさりとしていたからだ。この男は、部下でしかない一人の人間の病室に意味もなく留まるような人間ではない。だから、何か言われるか指示されるか、何かしらがあると思っていた。それなのに。
「……何で、ここにいた?」
まるで、クリスが目覚めるのをひたすらに待っていただけのような。
「さっきも言っただろう」
元上司は——そして現上司は、顔だけをこちらに向けて口の端を釣り上げた。
「見張っていただけだ。忠告もした。君が以前とは違い聞き分けが良くなっていることを願っている」
悪の親玉のような表情は、彼が正面を向き直ると共に見えなくなる。以前は身が竦むほどに恐ろしかった類の表情だった。けれど、今は。
パタリ、と病室の戸が閉じられ、フィッツジェラルドの背中が木製のそれに隔てられ見えなくなる。それでも、クリスはそこから目を離せなかった。何度も瞬きと浅い呼吸を繰り返す。
そしてしばらくして、ようやくクリスは部屋の片隅へと顔を向けた。フィッツジェラルドが先程まで座っていた椅子、その上には新聞が残り、そしてその横には簡素な机がある。机の上には見慣れたものが乗っていた。
洗濯されたクリスの服一式だ。ポーチにナイフ、拳銃も揃っている。
「……なんか、人が変わった気がする」
特に根拠があるわけではないが、どことなく——柔らかくなったような、あの厳しさが和らいだような、そんな気がする。でなければ目覚めたクリスを部屋に一人にはしないだろうし、服や武器の一式をどうぞとばかりに揃えておいたりはしないだろう。以前ならば手足に鎖でもつけられていた気がする。実際されたことはある。すぐさま異能で切ったが。ちなみにその後は鎮静剤を飲まされ続けたりホーソーンを見張りに置かれたり、とにかく傷がそれなりに塞がって動けるようになるまでベッドの上に括り付けられた。それでも早期に寝たきり生活から脱しようとかなり無茶をした。いつだったか、両足の骨を折られそうになった時はさすがに脱走を諦めたけれど。
だというのに、今回のこの対応。
「……何か企んでるのかな」
そうとしか思えなかった。あの男が親切心と同情心を持ち合わせているとは思えない。しかし理由は何であれ、手札が揃えられているのなら行動しない理由はない。
腕に刺さっていた点滴針を引き抜く。ぺたりと素足で床に降り、机の方へと向かった。病衣を脱ぎ捨て、机の上の物に手を伸ばした。さらりとした手触りを感じながらブラウスを着、ボタンを上から順に止めていく。太腿に隠しナイフを装備、その上から膝丈のパンツを穿いて腰でベルトを締める。ふくらはぎを覆うブーツをしっかりと履いてから、ベルトの背中側や袖、足元にナイフを備え、ナイフを隠すようにウエストポーチを後ろ腰につけた。ホルスターをベルトと太腿に固定、そして拳銃を取り出して軽く全体を確認する。
決まり切った動作。慣れたひととき。
——戦闘前の手癖。
最後に上着を羽織り、武器の一切をその下に隠す。そうしてようやく、クリスは椅子の上に置かれた英字新聞へと手を伸ばした。ざっとその一面を眺め見る。指名手配をされているのは、どうやら探偵社の社員だけのようだ。事務員などは重要参考人程度の扱いか。とはいえ、これほどの殺人事件を起こしたのならば事件の片棒担ぎの責で罪に問われるのは確実だろう。
三日目だとフィッツジェラルドは言っていた。事件発生は一昨日の午後六時、であれば昨日の時点で探偵社屋の捜索は終わっているはず。違法行為の痕跡を探し出し、そして過去の事件を洗い直すためだ。加えて、早くて明日には探偵社に開業許可を出した異能特務課へ捜査の手が伸びる。特務課に伝えられているクリスの情報は太宰の手によって歪曲されている、加えて手記に関しては国にわざわざ報告するとも思えない。へカテの言葉によると、局長補佐という人は手記の危険性をわかっているようだった。でなければ安吾が知らないところでヘカテを使って監視してくるような手間をしてこなかったはず。そちらについては当分気にしなくても問題ないだろう。
ふと、血まみれで外壁に埋もれる後輩の姿を思い出す。彼は、あの後どうなっただろうか。
「……今はそれを考える時じゃない」
頭を強く振る。
とにかく今日すべきは、まず第一に状況把握。捜査がどれほど進んでいるかの確認だ。そして、その捜査情報を使用して探偵社員の居場所を突き止める。
探偵社員の。
——皆の笑顔を、思い出す。
騙すように近付き、裏切り、刃を向けた。それでも彼らはクリスを受け入れ、引き込み、気にかけてくれた。信じがたい奇跡、しかし現実だったのだ。あれが、あの日々が嘘だとは思えない。
けれど殺人事件は起こった。映像もある。ならば疑いようがない。例えそれが誰かの策略だったとしても、クリスと親しかった人達が殺人犯として追われていることは確かだ。
クリスにとっては、事件の真実は関係がない。
ぐ、と上着の裾を握り締める。目を閉じて一息つき、そして数度呼吸。口を引き結んで目を開ける。
「……行こう」
迷いはない。あるのは、少しばかりの寂しさだけだ。