第4幕
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[Act 4, Scene 8]
夢を見ていた。優しい夢だ。視界いっぱいに、地平線の向こうまで花が咲き乱れていた。紫色の小さな花をたくさんつけた、背の高い花だ。まるで星を象ったかのように花弁を放射状に広げたその花が、天空を模すように地表を隙間なく埋め尽くしている。四方を見回しても同じ光景、自分が今どちらを向いているかわからなくなりそうだった。
その中で、クリス、と名前を呼んでくれる誰かがいる。そちらを振り向いて、その人が少し遠くで自分と同じように花の海に埋もれているのを見つける。束ねられた髪、きちりとした服装、質素な眼鏡、その奥に潜む強い眼差し。クリス、とその人は再び名前を呼んでくる。こちらに来るではなく、その場でそっと手が差し伸べられる。
そちらに行けば良いのだろうか、と思った。呼ばれている、手を差し出されている。わたしに、わたしという紛い物に。ならばわたしは、その優しさに応えるべきなのだろう。
一歩、そちらへと踏み出す。カサリと葉が擦れ合い、押しのけられた茎が湾曲する。また一歩、さらに一歩。そうしてようやく手を伸ばす。
指先が、相手の指先に触れそうになる。
瞬間——強く風が吹き込んできた。ザアッと花が大きく揺れる。紫色の花びらが舞う。花びらと一緒に、蛍の光に似た小さな粒子がタンポポの綿毛のようにふわりと宙に舞う。
花びらと蛍の光が、視界を揺らす。
それは一瞬だった。一瞬だけ、強い風が吹いてきただけだった。
なのに。
宙に伸ばした手は、何も掴んではいなかった。そこにあったはずのものすら、どこにもなかった。風に、花に、光に、攫われて消えてしまった。
――何かが。
何だっただろう。呆然と、手を宙に伸ばしたまま、何に触れることもない指先をそこに留めたまま、紫色の花畑の中で立ち尽くす。
大切な誰かだった気がする。忘れてはいけない何かだった気がする。一度手放してしまえば、二度と手に入らないような、奇跡のような何か。
それは一体、何だった?
「大丈夫だよ」
すぐ後ろから聞こえてきた声に振り返る。少しばかり背の高い、青年と呼ぶには若い男性がそこにいた。にこやかな笑み、白い白衣。白銀の髪に似合わない、土色の目。
「これは君の舞台だ。君が主人公なんだ。だから、その先は君が決められる」
何を。
「全てを。始まりも、成り行きも、結末も。全てを君の思うがままに」
だからね、とその人は笑った。
「恐れなくて良い。外された世界の関節を、君が正す。そこまでは僕の物語だ。そこに行き着くまでの舞台は整えた、あとは君が踊り歌い演じてその場面に辿り着くだけ。君が君として、この世界を生き抜くだけ」
わたしが、わたしとして。
「脚本は既に定まっている。何があっても変わらない。結末は、変わらないんだ」
見慣れた笑顔が、紫色の花の中に佇んでいる。それを見つめ、やがて湧き上がってきた懐かしさに泣きそうになる。
「結末はね。――さあ、行っておいで」
また、風が吹く。紫と光の粒子が、また目の前のものを消し去ろうとする。
「機械仕掛けの女神よ。君が終わらせるこの物語が、幸福なものでありますように」
その姿が、声が、消えていく。
手を伸ばしても仕方がないことはわかっていた。だから、幼子のようにしゃがみ込んで頭を抱え、目を強く閉じた。
目を開けた先に、誰の姿もないことなど——そしてそこにいた誰かのことを忘れてしまうことなど、既にわかっている。