第4幕
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***
賢治のおかげで立て直した探偵社員五人は改めて逃走を開始した。それは犯罪者の逃亡ではない。
探偵社員が探偵社を立て直すための、生き残りをかけた戦いだ。
敦の元へと向かった鏡花を除く社員らは、包囲網から素早く離れるため一般人から車を強奪、幹線道路を走っていた。通常ならばそれで逃げおおせるはずだった。
軍警最強の特殊部隊《猟犬》が追って来さえしなければ。
「……まさか」
ブロロ、とプロペラが回り続ける駆動音の中、国木田はそばに佇む黒服の男を見上げた。
「マフィアに助けられるとはな」
猟犬部隊の二名に追い詰められた国木田達を助け出したのは、常日頃敵対していたポートマフィアだった。ヘリコプターで上空から接近、中也が弾丸を重力操作するという荒業で《猟犬》部隊を押しとどめている隙に、社員達はヘリコプターから投げられた縄へ捕まり猟犬から逃れることに成功したのだ。
「見返りもなく敵を助けたわけねえだろ」
つまらなそうに社員達を見下ろしていた中也がつまらなそうに続ける。
「取引だよ」
「……取引?」
「ああ。お宅の社長とうちのボスがな」
黒い丈長のコートを肩に羽織ったポートマフィア幹部は、腕を組んだままそれを告げる。
「俺達が手前らを助け出す、その代わり手前らは社員を一人うちに寄越す。つまり”社員一人のマフィア移籍”だ」
その場にいた誰もが息を呑んだ。
マフィアへの移籍。それは、正義の側であるべき探偵社員が悪の側であるポートマフィアへ入るということだ。正義の側が決してしてはならないことだ。それを、あの福沢が許可した。
もはや自分達は、潔癖な正義の人間ではいられないのか。
誰もがそれに思い至っている。しかし、誰もそれを口に出せない。口に出せるはずもない。
これが、最善だったのだ。そうしなければ全員が捕まり、与謝野は殺されていた。こうしなければいけなかったのだ。
胸元を、そこにあったはずの手帳を、先程《猟犬》の人間に斬られたその表紙を、思う。
理想は理想でしかない。
今は、理想を追うべきではないのかもしれない。
己の理想が潰える時を、恐れながら待ち続けるよりは。
「んだよ辛気臭えな。給料も悪くねえし、別に人を殺すだけが仕事ってわけでもねえから部署によっては今の手前らと変わらねえ仕事ができる。悪くねえ職場だぜ?」
冗談なのか本気なのかわからない顔つきで言った後、中也は「それよりも」とその眼差しを強く鋭くした。
「軍警も厄介だがもう一人厄介なのがいるじゃねえか。そっちはどうする」
「……もう一人?」
度重なる衝撃に追い付いていない思考のまま、国木田は中也を見遣った。まともに顔を合わせたことのなかった敵幹部の、その真剣な青の目に射竦められる。
青の。
「手前らと仲良くしてるネズミ野郎だ」
中也はため息と共に言った。
「俺があいつなら、今すぐ手前らの息の根を止めに来るけどな」
「……何のことだ」
「あいつは国を恐れてる。国に自分の情報が流れることすらもだ。そして今、手前らは国に追われてる。手前らのうち一人が捕まるだけでもあいつにとっては大損害だ。……あいつは手前らとは違うぜ、手帳眼鏡」
青の双眸が国木田を敵意で射抜く。
「――あいつは手前らが犯罪者だとわかった瞬間から、手前らが国に追われてるとわかった瞬間から、口封じに手前らを殺しに来る」
予言めいた言葉だった。なぜ彼女のことを知っているのか、などと聞くこともできない。
なぜなら、それは。
「……そんな」
谷崎が驚きを呟く。
「何でアンタがそう言い切るんだい?」
与謝野が中也を睨み上げた。
「アンタはクリスじゃない。あの子の気持ちはあの子にしかわからないだろう?」
「わかる」
国木田の目の前で、中也はふと目を細めた。何かを思い出すように、何かを重ねるように。
「……わかっちまった」
青を歪ませて苦々しく呟いた。
「あいつは探偵社員じゃねえし商売敵でもねえ、縄張りも違う。けど、あいつは俺達と真正面から敵対してきた。理由は一つ、”排除”だ。殺さねえと殺される。……敵でもねえのに何度も殺し合ってきたんだ、あの覚悟がどれほどのもんかもわかってる。あいつが俺達にしてきたように、手前ら探偵社にこれから何をしに来るかもな」
国木田さん、と呼んでくるあの声が脳裏に響いている。青が微笑んでいる。湖畔の美しさを宿した笑顔がそこにある。それが冷え切った笑みに変わる様も、その手に握られた拳銃がこちらに躊躇いなく向けられる様も、見えている。
知っている、わかっている。中也の忠告が正しく、現実的であることなど、とうに理解している。彼女はそういう存在だ。疎まれ疎み、追われては逃げ延び、ただ己の生のみのために全てを捨て全てを裏切る、それを約束された命だ。国に追われる側となった国木田達を、彼女が庇うわけもない。守るわけもなく、手助けしてくれるわけもなく。
確実に、殺しに来る。
知っている。わかっている。
それでも。
「それはない」
国木田の声に、中也がちらりとこちらを見遣る。驚愕を含んだ氷のような眼差しに負けないよう、真っ直ぐに睨み返す。
「彼女は俺達を殺さない」
「……今までとは都合が違うんだぜ、手帳眼鏡」
「それでもだ。それでも彼女は、俺達を殺しには来ない。俺達も捕まりはしない」
言い切る。言葉を腹から押し出す。それは常に国木田がしていることだった。相手へ意思を伝えるためにしてきたことだった。
彼女にも、何度も訴えてきた。
俺達はあなたを陥れない。
俺達はあなたを見捨てない。
だから、だから。
どうか。
「……なるほどな」
顔を逸らしつつ中也は呆れたように帽子に手を当てた。顔を隠すように、それを額へとずり下げる。
「手前があいつの”最後の約束”の相手か」
「……何?」
「俺も余計なことをしちまったもんだな。ああくそ、胸糞悪りい」
くそ、と数度呟きながら中也は国木田達へ背を向けた。何が起こったのかわからないまま、国木田は仲間達と顔を見合わせる。
――その時だった。
ガンッ、と硬いものに硬いものがぶつかる音がヘリコプターをふらりと揺らす。視界の隅に現れた鋭い切っ先のそれを、国木田達は呆然と見つめる。
「え……?」
自らの胸元から突き出たそれへ、賢治は目を見開いた。こぽ、とその口端から血があふれる。
刀。それも、細く長い。
見覚えがあった。ないはずがなかった。先程追跡を振り切ったはずの《猟犬》部隊の人間、その腰に提げられていた細身の剣。伸縮するそれが、上空高くを飛ぶヘリコプターへと賢治を巻き込んで突き刺さっている。
「賢治!」
叫び声に呼応するように刀の切っ先がクイッと曲がる。それは賢治の胸元に鉤爪のように引っかかった。
バッと外を見る。賢治の体に突き刺したそれを鉄線銃のように縮ませ、柄を握った男が一人、ヘリコプターへと昇ってくる。
接近。地上から空中へ、上昇。
「おいおいまじかよ……!」
さしもの中也も驚愕を隠せない。男は刀を支えにヘリコプターの側面へ足をつけた。片手で僅かな出っ張りを掴み、刀を引き抜く。腕一本で全体重を支えつつ、再び至近距離から斬撃を繰り出そうと体を捻る。
「まずい」
相手の目的を察した中也が呻いた。
「あの怪物野郎、ヘリの回転翼をぶった斬る気だ!」
「何だと……!」
「このヘリ以外は出してねえ、これが墜落したらさすがに何もできねえぞ……!」
どうする、とその横顔は外を睨みつけたまま対策を脳内で探っている。しかしポートマフィア幹部とはいえ人並み外れた身体能力と異能を持つ人間相手に、この一瞬で策など思いつくわけもない。
墜ちるのか。
国木田の理想と共に、この機体そのものが。
仲間もろとも。
探偵社という会社もろとも。
何としてでも、何としてでも墜落だけは回避しなければ。どうする、と外で振りかざされる刀の煌めきを睨みつける。
どうする、どうする。
『信じて、良いんですよね』
あの言葉に報いるためには、あの言葉を彼女に裏切らせないために、俺は。
俺は。
俺は。
――突如思い付いたその案は、国木田の中にしっかりと根を張った。
動揺に荒れていた呼吸が瞬時に静まる。思考が整然と脳内に整列する。水を打ったような静けさが、国木田の耳から周囲の騒々しさを追い出す。
ただ残ったのは。
『国木田さん』
そう呼んでくれる少女の柔らかな微笑みと寂しげな声だけだ。
「……谷崎」
そばにいた同僚を呼ぶ。呼びながら、ヘリの乗り込み口の開閉ボタンを押す。
ヘリの側面が開くと同時に、ブオッと風が機内へ吹き込んでくる。
「……国木田さん?」
何が起こるのかわからない様子で谷崎は呆然と国木田を見た。与謝野も賢治も、中也さえも、この背に視線を向けてくる。
気付きたくない国木田の思考を読み損ねたまま、誰もが国木田の背を見つめてくる。
その視線を感じながら、国木田はヘリコプターの縁に足をかけた。
「必ず真犯人を暴け」
探偵社が探偵社として蘇るために。
また、あの日々に戻るために。
彼女に誰も殺させないために。
「頼んだぞ」
暴風の中言い残し、国木田はヘリコプターの縁を蹴った。すぐそこにいた猟犬の男を踏みつけ、そのまま全体重をかける。腕一本で耐え切れず、男は国木田もろともヘリコプターから落下した。
谷崎の悲鳴じみた呼び声とプロペラ音が瞬時に遠ざかっていく。
「な……!」
国木田に蹴落とされた男は正義の眼差しを動揺に揺らし、しかしすぐに敵意を再びその眼に宿した。
「愚かな。この程度で俺は死なぬ。何度でも剣を伸ばしヘリを追う」
愚か。
愚か、か。
確かにそうかもしれない。国木田は、敵もろとも地へ落ちるという今この判断は、愚かかもしれない。
けれどそれ以上に。
「愚かなのは貴様だ」
――このまま落下すると思っている貴様が、愚かだ。
落ちなどするものか。
宙を滑落しながら国木田は胸元に控えていた手帳の紙切れを引っ張り出す。そこには既に文字が書かれていた。破れた紙の、下半分。そこに書かれたとある物体を示す名称。あとは、それを念じるだけだ。
俺の理想を象る物よ、俺の願う通りに、と。
「我が名は国木田独歩!」
手の中で紙切れが形を変える。球状の、黒い物へと形を変化させていく。
何の変哲もない紙切れを己の望む物に。
無から、理想に相応しい有物を。
それが、俺の、この男の力だ。
「我が理想は墜ちぬ! この命を燃料として、永遠に飛び続ける!」
手帳の切れ端が手榴弾へと変じ終わった瞬間、国木田は足元の男をひっ摑んだ。その胸元へ、胴を抱え込むようにそれを押し込みピンを引き抜く。
一瞬の、静寂。
そして。
――爆風が、爆音が、高熱が、閃光が、敵の懐の中で己もろとも爆ぜた。