第4幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
狭い路地、雑然とした灰色の空間の中で二人は睨み合う。クリスに手首を掴まれた男はというと、驚愕に動揺しつつも真っ直ぐに見据えてきた。その様子を見、なるほど、とクリスは焦りを飲み込む。
わかっていたのか、クリスが追ってくることを、クリスの存在を。
――あの魔人は。
だとしたらこの邂逅は罠か。
「……その呼び名をなぜ知っている」
ぐ、と強く相手の手首を掴む。罠に飛び込んでしまった事実は覆せない。ならば、それを踏まえて情報を掻き集めるしかない。
長髪の男は緊張を隠すように唇を引き結んだ。そして、押し殺した声で回答を口に出す。
「……同僚から話は聞いている」
「ドストか」
「……ドスト?」
ふと男は目を瞬かせた。ああ、と何かに気付いて納得した後、不快感を覚えたかのように眉間にしわを寄せる。
「……今わかったことがある。私はお前のような奴が苦手だ」
「初対面でそこまで言われるとは」
「経験的な話だ。あの得体の知れない男を奇妙な略称で呼ぶ人間にろくな奴はいない」
誰かを思い出したのか、男は眉を潜めて露骨に嫌悪を露わにする。不躾だ。が、今はそこに言及する時ではない。
「その点に関しては後で論議する。それよりも君のことだ。――わたしのことをどこまで知っている?」
「……奴が知る全てを」
思ったよりも率直に、直接的に、男はクリスの問いに答えた。それは他人を騙したことのない無垢さを思わせる素直さだった。
「お前がこの世界にあるはずのないもので、本来ならばあってもなくても変わりない小さな変化の一つに過ぎないものであると。だからこそ使いようによってはこの世界を破壊することができる存在なのだと」
そして、と彼は不意に顔を歪ませた。
「……お前は私と同じであり異なる存在なのだと」
――瞠目、思考が白く固まる錯覚。
「……同じ?」
息を呑んだ先で、男は何かに耐えるような眼差しをクリスへ向けてくる。絶望、諦念、疑心。
なぜこうなってしまったのかという、答えのない問いかけ。
それは数年の時を経て自然と得ることのできる代物だった。生き甲斐だとか自分らしさだとか、そういった言葉で表現できる心の在り様の総称――長く重く抱え続けるほど己の心を壊していく毒気。クリスがとうの昔に思考を諦めたもの。それを、成人だと思われるこの男は未だに抱え込んでいる。
この男は。
一体。
「……君は、何だ?」
思わず問いかけていた。問いかけなければ思考が整理しきれなかった。
「名前、という意味の問いかけなら、シグマという記号を教えてやることしかできない」
私を示すありきたりな記号だ、と男は自虐を込めて律儀な回答を呟く。
「どんな存在か、という意味の問いかけなら……世界の誰かが望み、世界の誰もが望まなかったもの。存在する理由もわからないまま、漂い、悪意の中を放浪するしかなかった道具。そんなところだ。――それでも」
泣きそうな顔はすぐさま強い決意に隠される。
「私が私である理由を、今手に入れる。今はないそれが、お前の問いへの答えになる」
「……よくわからない。わかる気がするけど、理解には至ってない」
呆然と男を見上げる。その眼差しを、温度のない戸惑いを秘めたそれを、見つめる。
そこにあるはずのものを探し、しかしやはりないことを知る。
彼は、どうして。
「……人には積み重なってきた年月がある。それが、その人の思考や仕草、言葉の選び方、いろんな要素を形成して唯一個体になるんだ。そう教えてくれた人がいた。人を見れば人生が見える、人生を想像して人を演じれば、それは年月を経た一人の生きた人間になる……舞台に立つ前に、その登場人物の人生を生きろと」
まだギルドにいた頃、舞台での演じ方を教えてくれた女性の言葉だ。
――周囲の人を良く見ていれば、段々とわかってくるわ。子供が無邪気だと評されるのは、子供は生存の経験が大人より少ないから。経験が多ければ多いほど、人の思考や感覚は多様で複雑になる。恋なんてそうでしょう? 初めは一途に胸をときめかせるけれど、段々と駆け引きや妥協を覚えていく。そうして人は、木が成長と共に枝を細く分岐させていくように、多彩で豊かになっていくの。
だから人のあらゆる思考や仕草には人生の”量”が含まれている。だから、その人物に似合った量の人生を含ませた動作をすれば演技を超えた演技が可能になる。
それが演じるということなのだと。
逆に言えば、相手の仕草や思考を観察することでその人生の”量”、どんな思考をし何ができて何ができない人かを読み取ることができる。クリスはそうやって初対面の相手を分析してきた。
「……敦さんの孤児院育ちも、鏡花さんの暗殺の実力も、一目見ればわかった。太宰さんだって国木田さんだって……今ならきっと、ウィリアムも……けど君は、君からは、何も読み取れない。ここ最近得た怯えと、つい最近決めた覚悟しかわからない」
「……何を」
「料理をしたことのない人が台所に立った時のような……行動を裏打ちする経験が、君は生存そのものに対して少ない、少なすぎる」
呆然と、クリスは目の前の男を見つめながら口を動かす。嚙み合わない計算をし続けているかのような、視界の利かない霧の中を歩いているかのような、終わりの見えない思考が止まらない。
「姿を見られてはいけないかのように路地を走っていた人間が、あのドストと仲間である人間が、わたしの追跡に全く気付かずわたしに全てを打ち明けるほど幼稚なわけがないんだ。捨て駒? それにしては丁重に扱いすぎだ。わたしのことを教える必要がない……過去の記憶が失われている? ……いや、記憶の有無は関係ない。例えるなら……生まれたばかりの子供が大人と同じほどの五感と思考を得てしまったかのような……?」
男は息を呑んだ。それが答えだとクリスにはわかった。
水滴一つを落とした後のような静寂。
灰色の狭い空間の中、二人は向き合って互いを見つめる。互いが互いの存在を見、その異質さへの動揺を互いへと向けている。
お前は何なのか。君は何なのか。漠然としたその問いの答えを、互いに知る。
「……ありえない」
動揺が思考を乱す。けれど辿り着いた一つの答えは消えることなくクリスの中に明瞭な輪郭を伴って留まり続けている。
「そんなの、不可能だ。でも……つまり、それなら、君は……君も」
――君も、この世界の異物なのか。
***
クリスがとある男の真実に愕然としていた頃、乱歩は廃ビルの中で異能特務課長官の種田から話を聞いていた。
同刻、敦は他の探偵社員よりも早く五つ目の天人五衰事件発生現場へと急行、地下から建物内への侵入を試みるも殺人結社《天人五衰》の一員ゴーゴリと対峙、身動きを封じられていた。
同刻、『不楽本座』を止めるべく探偵社員一同は軍警よりも早く建物内への侵入に成功、人質と犯人が集う室内へ突入せんとしていた。
そしてまさにその時、とある紙片へのとある一抹の物語の記載が終わろうとしている。
***
「君は……君も」
呆然とその続きを呟こうとした、その瞬間。
――光の粒子が視界にあふれた。
蛍に似たその小さな灯火の群れに、クリスは言葉を呑んで目を見開く。
「……え」
見間違えようもない。これは。
「……なんで」
異能の光が身を包んでいる。思わず自らを見つめた。光が灯る先で、己の手が指先から手首、腕へと、そして足先からふくらはぎ、太ももへと、僅かな輪郭のブレが発生している。まるで古いテレビを見ているかのように、自らの体が末端から、ジジ、と霞み歪んで消えていき、そして光の粒子が触れることで再び肌色が現れていく。
これは。
これは、何だ。
「どうして」
目の前に突然現れた光の粒子に絶句する。紛れもない、これは再定義の異能【マクベス】だ。つまり今、クリスは、クリスの身体は――”再定義されている”。
念じてもいない、願ってもいない、なのに、突然、異能が発動した。
なぜ。
問いかけを口にすることはできなかった。
――脈打つような巨大な鈍痛。
「……ッぐ」
体の内側から込み上げ全身を走ったその痛みに、クリスは膝から崩れ落ちた。胸元を掴み、それでも足りず、爪を立てる。
「い、あ……」
怖気に似た這いずるような痛みが体を内側から裂いてくる。ぶちり、と体内で何かが千切れていく。
「ああああッ!」
叫ぶ。うずくまる。咳が込み上げてくる。咳き込む。吐き出すようなそれと共に赤い液体がパタリと地面にこぼれ落ちる。血臭が鼻先を突き上げてくる。
「い、うぁ、ッう……」
思考を妨げる痛覚の悲鳴が全身を覆い尽くす。
反動だ。【マクベス】を使ったことによる、反動。
いつもより大きいそれがクリスを内側から引き裂いている。これほどのものはそうそうない。ギルドにいた頃、街一つを野原へ変えたあの時のものに匹敵する。
気が遠のきかける。身動き一つできない。地面に這いつくばって意識を保つので精一杯だ。
「これが……」
シグマと名乗った男は突然足元に崩れ落ちたクリスを呆然と見下ろしていた。そしてすぐさま、その困惑の気配を明瞭な決意のそれに変える。
「……事は成された。もしお前が私達《天人五衰》の目的に同意するのなら、私に会いに来い」
「……な、にを」
「伝言だ。ドストエフスキーからのな。……いつでも待っている、と」
――その気になったのなら、いつでもお待ちしていますよ。
喫茶店で見た紫眼がクリスを見下ろし微笑んでいる。
くるりと踵を返し、シグマが立ち去ろうとする。その足元へ手を伸ばす。
「ま、て」
指先が彼の足首を掠める。
「待って」
痛みという大音量の騒音に乱れる五感が、思考が、立ち去る長身の外套を認識する。
駄目だ、行かせては駄目だ。
捕らえて詳細を聞き出さなければ。事件のことを、探偵社に襲いかかるであろうこれからのことを。
なのにどうして、この体は動かない。
「……ッぐ」
息を詰める。喉元に血の臭いが留まり固まり吐き気を誘発する。それらを無視し、クリスは感覚のない手を腰に伸ばし、力の入らない指でなんとかウエストポーチを引き開けた。中を探り、使い慣れた型の注射器を取り出す。片手でキャップを外し、胴体に押しつけるようにピストンを押し込め中の薬液を少量押し出した。そしてそれを、服の下の皮膚へと突き刺す。即座に痛みが和らぎ思考が明瞭さを取り戻す。
「……ッ、は」
注射器を持った手を地面につき、上体を起こそうとする。痛みは減ったが体が怠い。シグマの姿はとうに見えず、この体で今から追っても返り討ちにされかねない。けれど、この場に留まるわけにもいかなかった。
足音、騒々しい指示出しの声。
近くに軍警がいる。乱歩がいるであろう廃ビル周辺か。この状態で軍警に会えば、何があったのかと聞かれるに違いない。そしてクリスはその問いに答えることはできず、救急搬送されることも拒まなければならない。相手に違和感を覚えさせることなく説明と治療を拒否するのは、さすがのクリスでも難題だ。
となれば、今すべきは。
「……【テンペスト】」
呟きに答えて風が身を取り巻く。どうにかイメージした通り、風はクリスの体を上空へと押し上げた。飛翔、建物の屋上や電柱を跳ね、幾分か離れた場所へと舞い降りる。
地面についた足が体重を支え切れず、クリスは路地の日陰の中へ崩れ落ちた。
体を抱く。多量摂取した麻痺毒の副作用で寒気と震えが止まらない。はっきりとしない思考の中、ポーチから連絡端末を取り出す。
探偵社員は皆事件の解決に走り回っている。今この状況でこのぼろぼろな人間の世話ができる相手は、一人しか思いつかない。彼に頼るのは最終手段だと思っていたのだが、弱った思考では他の対応策が思いつかなかった。
「……やあ、フィー」
電話口の向こうへ、血を吐き出さないよう小さな声を絞り出す。
「少し、しくじったんだ。取引しよう。迎えに来てもらえないかな」