第4幕
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福沢と乱歩が東京へと向かった直後、探偵社内は通常業務に追われる日々に舞い戻った。電話はひっきりなしに鳴り、誰かしらが慌ただしく社を出入りしている。敦と国木田は午前中に戦闘訓練を予定していたが、あまりの忙しさに昼休みを活用して行うことにしたらしい。
そんな中で、クリスは喫茶うずまきへと来ていた。サボりではない。呼び出されたのだ。
「まさか乱歩さんまで行ってしまうとはねえ」
珈琲カップをテーブルに置き、太宰は大きくため息をついた。
「最近はものすごく忙しくて、自殺を研究する時間すらない。こんなの労働法違反だよ。自殺について思考する時間すら与えないなんてさ」
「……それは一般的に良いことなのでは?」
「思考は個人の自由だよ? それを妨げるのは良いこととは思えないね」
太宰は平然と言う。その言葉自体はおそらく間違っていないし、真っ当な意見ではあると思う。のだが、どうにも賛成しかねているのは、相手が太宰だからだろうか。
クリスは自らの前に置かれたカップへと目を落とした。喫茶うずまきの、見慣れたティーカップだ。白く、表面は滑らかで、照明を柔らかく反射し白く輝いている。その中に入っている透き通った液体は、既に湯気を失っていた。
琥珀色に映る天井を見つめる。
「……本題は」
「君に確認したいことがある」
先程までとは別人のような真剣味のある声で太宰は告げた。背もたれから上体を起こし、クリスの顔を覗き込んでくる。その眼差しを見返した。
闇色。深刻さをも思わせる、何かを憂い何かを危惧する探偵の顔。
「私と君がポートマフィアのビルから抜け出したあの時のこと、覚えてる?」
勿論覚えている。敦が船上で芥川と対峙している最中、太宰は古巣にわざと捕まり、敦に懸賞金をかけた相手を探り出した。クリスも太宰と同じ目的でポートマフィアビルへ潜入、ビル内で太宰と鉢合わせし、互いに腹を探り合いつつも手を組みビルから脱出している。
「あの時、私は言っただろう? 君の事を少し調べさせてもらったと。そして、何も出てこなかったと」
――まるで私自身のようだったよ。人為的に、全てが消されていたのだから。まるで元々存在していなかったかのように。
「……そうでしたね。それが何か?」
「もう一度調べてみたのだよ」
顎に手を当て、太宰はそれを思い起こすかのように目を細める。
「君について、君の生きた痕跡がどれほど残っているかを。今からクリスちゃんを追うとして、どこまで辿り着けるものなのか試行してみたんだ。けれどもね、妙だったのだよ」
妙、と口の中で繰り返す。太宰は頷き、クリスを、その脳髄の奥を抉り掘り起こすかのように見据えてくる。
「何もなかった。クリスちゃんが存在した痕跡も、クリスちゃんがそれを消した痕跡も、何も」
「それは……」
「あり得ない、君もそう思うだろう」
クリスの言葉を先取りし、太宰は続ける。
「いくら腕が立つとはいえ、一度記憶され記録されたのならどんなに入念に消したとしても痕跡は残る。そういうものだ。痕跡や証拠を消す、または人々にそれらを隠す類いの異能を使えば話は別だけれど」
「わたしの知る限り、そういった知り合いはいませんし頼ったこともありません。機械から故意にデータを盗み取ったり消したりしても、データコピーの履歴やデータ消去後の空白は残るものだと知ってはいますが……それ以上をしようとしたことはありません」
痕跡そのものを自力で消すことは困難だ。しかしそれ自体は大した問題ではない。重要なのはそこから今の自分を辿らせないことであって、自分の存在そのものを抹消することではないからである。故に、クリスは自分が存在していた痕跡そのものすらも消すようなことは試みていない。そんなことに時間と労力を使うより、祖国の手が届かない場所へと逃げ落ちる方が簡単だ。
「そうだろうね」
太宰が同意に頷く。
「何も完璧に消す必要はないんだ。……それに、全てが消えていたわけじゃない。君が起こしたと思われる事件数件は記録に残っていたよ。けれどやはり奇妙な点が見受けられた」
太宰はクリスを見つめながら、この目に映っているだろう動揺を認識しながら、それでも躊躇いなくそれを告げた。
「どの記録も、ここ二、三年のうちに作成されていたのだよ」
「二、三年……?」
「奇妙だろう? 君が起こしたと思われる事件のうち最も古いのは、十数年前の英国郊外だ。それについて記録されたのもほんの三年前……調査記録というものは、事件の後すぐさま作るものだ。君という生ける機密情報を三年前以前から追っている彼らなら尚更ね。けれど、三年前以前に作成されたクリスちゃんに関する記録は全く存在しなかった」
太宰の目はクリスから逸れないままだ。それから逃げるように、考え込む素振りで視線を落とした。熱さを失った紅茶が波一つ立てないまま白磁の器に収まっている。
作成日時が新しすぎる記録、消えた痕跡。まるでクリスの存在そのものを全くの無に還すかのような、静寂たる違和感。
「……つまり、三年前にわたしに関する記録の一切が一度完璧に消されていた、ということですか」
「三年前かどうかはまだわからないけれどもね、おおよそ三年前だ。現時点で考えられることは、その時に何らかの方法でクリスちゃんに関する情報の一切が消され、それを受けて国が再度記録を作成した……そういう経緯だろう」
太宰が残り少なくなった珈琲を飲み干す。カチャリ、と陶器同士が擦れ合う軽い音が、音楽の流れる店内に鳴り響く。
三年前となるとギルドに入った頃か、それより少し前か、そのくらいだ。ギルドに入る前に所属していた諜報組織ではクリスの過去は誰にも知られていなかったし、ギルドの誰かが手を回したと考えられるにしてもあの組織にクリスより腕の立つ人間がいたとは記憶していない。
誰が、何のために、どうやって。
「クリスちゃんなら何か心当たりがあるかと思ったのだけれど、その様子だと何も知らないようだね」
太宰の言外の問いかけに、クリスは諦めて首を横に振った。思い当たることはない。それに、情報が広く知られたとなれば対策が必要だが、情報が消されたというのはむしろ好都合だ。わざわざ深く調べる必要はないように思う。
「もし何か思い出したらお伝えします」
「そうしてくれると助かるよ」
太宰はにこりと笑った。
「それで? クリスちゃん、国木田君との日々はどう?」
「なッ……」
突然の明るい声にクリスは絶句したまま目を見開いた。深刻な話題が終わったとばかりに、太宰はこれでもかというほどにニコニコしている。
「なぁに? 顔を赤くしちゃって。何かあったんだねえ?」
「何もないです、少なくとも太宰さんにお話するようなことは何も」
大きく首を振る。努めて冷静に言えば、太宰は何かを察したかのようにニヤリと笑った。
「クリスちゃんも反応が素直になって遊びやすくなったなあ。一緒に過ごすと似てくるものなんだねえ、うふうふ」
何の話だ。
「さて、そろそろ行くかな」
立ち上がり、太宰は口笛を吹きながらどこかへ行こうとする。その背はどう見ても仕事に戻る真面目な社員のものではない。
「太宰さん、どちらへ?」
「競馬場。ここにいたら仕事で息が詰まって死んでしまいそうだもの。気晴らしに外に出てくるよ」
「仕事時間なのに……」
「あ、そういう小言を言うところまで似るのはやめてくれたまえよ? 説教係は国木田君一人だけで十分だから」
言い、太宰は片手をひらりと振って喫茶から出て行った。カラン、と出入り口のベルが鳴る。置いていかれたかのような静寂の中で、クリスは一人呆然としていた。
「……似る、って……誰に」
聞くまでもない。
頰を両手で包み込む。微かに熱を帯びていた。最近、感情をうまく隠すことができなくて困っている。以前はもっと簡単に偽物の笑顔を浮かべ嘘をすらすらと言えたのだが、最近はというとどんな表情で誤魔化そうかと思考する前に表情が顔に出てしまう。
まるで、あの人のように。
強く、脆く、しなやかで、どこまでも真っ直ぐなあの人のように。
「……だとしたら」
少し、嬉しいかもしれない。