第4幕
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再度目覚めた時には隣には誰もいなかった。身支度を整えて居間に向かえば、手帳を開いて万年筆を手にしている国木田がこちらを見遣ってくる。見慣れた光景が今日もそこにあった。
「おはよう」
「……おはようございます。朝ご飯作りましょうか」
「ああ。何が良い」
「卵割りたいです」
「……この場合は品名を答えろ。卵焼きか、目玉焼きか」
「じゃあ卵焼き」
「わかった」
いつも通りの言葉のやり取り。そこに熱も動揺もない。けれどあれが夢ではないことを、クリスは知っている。そして国木田も。
あの思いも優しさも、誤魔化すようなものではないことを――知っている。
他愛ない会話をしつつ朝ご飯を作って食べて、毎朝の日課を今日もこなす。そうしていつものように街を歩き、いつものように探偵社へと出勤した。
「おはようございます」
はっきりとした発音で言い、国木田が探偵社へと立ち入る。その後ろから続いたクリスは、そこにいた人物に目を丸くした。
「わあ……!」
感嘆の声を上げれば、探偵社社長は僅かに視線を逸らして咳払いをした。
「おはよう。……朝から見苦しいものを見せ、申し訳ない」
そこにいたのは、スーツを着こなした福沢だった。いつも和装な福沢の、珍しい洋装姿である。けれど直線的で平面的なスーツを難なく着こなしてみせる体格の良さと鍛えられた体幹には感嘆せずにはいられない。乱歩はつまらなそうにスナックを食べ続けているものの、他の社員達は誰もが目を輝かせて「似合ってますよ」と笑顔を浮かべている。
「何かの祝宴ですか?」
「梓弓章授与の式に出席する」
「ああ、そういえば」
そんな話があった気がする。今日は日曜日だが、探偵社はもちろん市民の安全を司る政府にとっても休日というわけではないらしい。
「おはよう。……おや」
出社してきた与謝野が、真っ先に福沢を見てニヤリと笑った。
「似合ってるねえ、社長」
「……どうにも落ち着かぬ」
「たまには良いじゃないか。社長は滅多に行かない東京なんだし、終わったら観光でもしてきなよ」
「……着替えを持って行くか」
「それは構いやしないけど、荷物が増えるよ?」
与謝野のもっともな問いに福沢は黙り込んだ。しばらく黙り込んだ末、何かを諦めたように一つため息をつく。
「……良い。このままで過ごす」
「歯切れが悪いねえ。名誉な話だってのにさ」
与謝野はからりと笑った。
梓弓章。欧州当局すら捕縛できなかった犯罪者プシュキンとドストエフスキーを追い詰め捕らえたことをきっかけに、武装探偵社は国から表彰されることとなった。国の安全に寄与した者に与えられる祓魔梓弓章は安全貢献の最高勲章とも言われ、それを民間企業である探偵社が授与されることは日本全土に衝撃と感心を与えている。もはや武装探偵社の名はヨコハマの一角ではなく全国に、それも一般家庭へすらも広く知られることとなったのだ。
探偵社はこれを明るいニュースとして捉えていた。自分達の頑張りが公に認められた貴重な機会だからだ。そのせいで仕事が増えただとか街中で声をかけられるようになっただとかは、彼らにとって大した障害ではない。
ただ一人を除いて。
「ねえ社長」
不機嫌そうな響きのある声がふと上がった。その場にいた全員の視線が彼へと集まる。空になったスナック袋を机の上に乗せ、さらに自らの足をも机の上に乗せて椅子に踏ん反り返った乱歩は、まるで今から猫探しを手伝えと言われたかのような嫌そうな顔で福沢を見遣った。
「お土産は?」
「……ひよこはどうだ」
「嫌だ。あれパサパサする」
「白い恋人」
「ホワイトチョコのどこが甘いのさあ!」
「萩の月」
「外側が甘くない! ていうかひよこも白い恋人も萩の月も全然東京土産じゃない!」
「……東京ばな奈」
「さっきから駅中で売ってるようなやつばっかりじゃん。つまんない!」
駄々を捏ねる子供のように乱歩は手足をばたつかせた。今日もいつも通り、と言いたいところだがどことなく普段より機嫌が悪いように思われる。何か不快なことでもあったのだろうか。
「……乱歩」
とうとう何も思いつかなくなったのか、福沢は乱歩の名を呼んだ。しばらくその幼子のような成人男性を見、その静かな声で続ける。
「……共に行くか」
「嫌だ。歩くのめんどくさいし人多いし」
「好きな菓子を買ってやる」
ぴたり、と乱歩が全身の動きを止めた。
「……本当?」
「如何する」
乱歩は福沢を凝視したまま動かない。福沢もまた、乱歩を凝視したまま動かなかった。両者の睨み合い――というよりはにらめっことも呼べそうな和やかな沈黙は、やがて乱歩の底抜けの声に破かれる。
「……そ、こまでして付いてきて欲しいならしょーがないなあ! この乱歩さんがお供してあげようじゃないか! ほら早く行くよ社長! 支度して支度して!」
ぴょんと席から飛び降り、乱歩は先程までの気だるさなど微塵も見せない様子で探偵社を飛び出していく。変わり身が早すぎる。それが乱歩らしいと言えば、らしいのだが。
社員達は皆一様に顔を見合わせあった。そして、誰からともなく笑い始める。
穏やかな笑い声がヨコハマの一角に響き渡った。