第4幕
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***
国木田が帰宅したのは結局日付が変わってからだった。社内泊でも良かったのだが、いくら家の中とはいえ、女性を夜に一人放置しておくわけにはいかない。それに「遅くなる」、つまり「必ず帰る」と伝えてある以上それを反故にするのは国木田の精神が許さなかった。口に出した約束は守るものだ。それが予定、理想、国木田のあるべき姿である。
見慣れきった自宅の前に辿り着き、国木田は郵便受けの奥に手を入れ鍵を取り出す。クリスが先に帰る時は、帰宅後、そこに貼り付けておくようにあらかじめ言ってあった。彼女は「鍵を閉めずに待っていましょうか?」と言ってくれたが、女性が一人夜を過ごす家に施錠がされないのは無用心すぎる。彼女が戦闘要員であるだとかは別問題だ。
カチャ、と鍵を開け、静かに戸を開ける。廊下に電気はついておらず、クリスがいる部屋は襖が閉まっていて彼女の状況は窺い知れない。とにかく国木田の寝室兼居間で拳銃の抜き撃ち練習をしながら待っているようなことはないようなので安心した。
居間の電気をつける。特に変わった様子はない。まだ一人で台所に立つなと言ってあるので、ラップのかけられた手料理が置いてあるような理想的な家庭環境は期待していないし、実際にそんな光景が目の前に広がっているわけもない。わかっていたので夕飯は外で済ませてあった。
手早くシャワーを済ませ、寝間着に着替える。布団を敷き、手帳を開いて中身を眺める。いつものことを、いつものように行う。一種の精神統一でもあった。疲れ切った頭が冴える。思考が理想的な速度を保ち続ける。緊張と弛緩がバランスよく全身をほぐし、体の疲労を和らげる。
一通り手帳をチェックし終わったのは午前二時だった。だいぶ遅くなってしまったが、この程度大したことではない。寝る前に水分を摂ろうと台所に向かうことにした。
襖をそっと開け、ギシ、と床を踏む。暗い廊下にひやりとした夜の空気が立ち込めている。
「……ん?」
ふと、違和感に気付いた。足を止め、暗闇の中で目を閉じる。耳をすませ、肌に集中力を向ける。
――風。
冷たい夜風がどこからか吹き込んでいる。そのような隙間はこの家にはない。国木田が確認し、見つけ次第対処しているからだ。賃貸であろうが何だろうが、理想的な住まいへの追及は手を抜かない。
まさか、と思った。だが、それが一番の可能性だった。
帰宅時からずっと閉まりきっている襖の前に立つ。その枠を拳の裏でノックするように軽く数度叩く。
――慌てて窓を閉める音が聞こえてきた。
「……全く」
ため息をつく。予想通りではあるが、呆れは隠せない。
「クリス」
「ね、寝てます。ちゃんと寝てます!」
「窓を開けて、か」
「……夜風の中で寝るとちょうど良くて」
「言い訳が苦しいぞ」
「言い訳じゃないです! 言い訳じゃなくて……えっと……」
襖の向こうから聞こえてきていたくぐもった声が、段々と小さくなっていく。
「……寝言です」
「言い訳にしても酷いぞ、それは」
ぐ、と部屋の中の少女はとうとう何も言えなくなったらしかった。しばらくして、ス、と襖が開く。僅かに開いたそこから覗き見るように、見慣れた私服姿のクリスが顔を出した。悪戯がバレた子供のように、顔色を窺う素振りでこちらを見上げてくる。
「……お、お帰りなさい」
「遅くなってすまないな」
「い、いえ、その、全然」
「毎日寝る前に『布団で寝る』と復唱させねばならんとはな。今度からはそう唱えさせてから仕事に戻るとしよう。ちなみにこれは嫌味だ」
「ご、ごめんなさい、えっとその……あの、ですね……」
クリスは困ったように視線を泳がせた。
「……頑張ってはみているんですけど、やっぱりその、無理というか……」
「まず寝間着を身につけろ。洋服に隠しナイフは横になる服装ではない」
「う」
短く呻き、クリスは手元からナイフを取り出しつつ逃げるように宙を見遣った。しどろもどろになる彼女が見られるのは珍しいが、その珍しさで全てを許す甘い優しさを国木田は持ち合わせていない。
「まずは着替えろ。服は渡したな」
「けどあれ、何かあっても外に出ていけないし……」
「寝間着は外に出ていくためのものではないからな」
「何かあったら、その……」
「何も起こらん。その前提で布団に慣れろという話は散々しているが?」
「……難しいです」
クリスの声は小さい。いつもは張りのある軽やかな声だが、今聞こえてくるのは夜闇と相違ないほどに静かでささやかだ。
「怖くて」
ぎゅ、とその手は自身の胸元を掴む。
「身動きの取れない状態で意識を手放すというのが、ものすごく怖くて……」
それは言い訳ではなかった。嘘でもなく、演技でもない。見ればわかる。彼女は――恐怖に震えている時の誤魔化し方が下手だ。
知っている。ずっと前から、知っている。
「クリス」
ため息を我慢し、代わりに名を呼ぶ。襖に手をかけ、そっと押し開けた。敷居の向こう側で彼女は気まずげに佇んでいる。少しの躊躇いの後、クリスは顔を上げて不安そうな面持ちでこちらを見る。
目が合う。
揺れる青。月夜の下、騒めく木々を映した湖面。
「……どこまでならできる」
「……横になるところまでは、なんとか。全然休まりませんけど……」
青が翳る。その暗い青に、国木田は説くように告げる。
「”何かあったら”、そう考えるのは悪いことではない。常に最悪を考慮し行動することが最善である場合は数多いからな。だが、睡眠時は別だ。気を張り詰めるべき時とそうでない時を使い分けられるようにならなければ最良の体調にはならん。最良の体調でなくば最良の行動もできん。それはわかっているな」
「……はい」
布団で寝る。それがこれほど困難なことだとは思わなかった。が、クリスという少女はそういう子なのだ。
だからこそ、布団で寝るという些細なことに対して真剣に考え真剣にやり取りしている。
彼女と同居が決まった直後、国木田はクリスへと話をした。夜の決まりもその一つだ。それ以外にも、この同居における目標について話している。
それは、「”普通”の真似事をすること」。
彼女は首を横に振った。無駄だからと拒絶した。しかし国木田が許さなかった。
彼女を、必ず”普通”に準ずる人の子にしてみせると、決めていた。
「わかった」
国木田は頭を掻いた。クリスが布団を難関としている理由はただ一つ、「不安」だ。襲われるかもしれない、殺されるかもしれない、そういった恐怖の可能性を捨て切れず、故に安楽に身を委ねることができない。ならばそれを取り除き、布団イコール不安という図式を崩すところから始めなければならないのは明白だ。何も布団が危険なのではない。実際、布団の中で危険が身に迫ったとしても対処方法はごまんとある。
「俺が部屋を見張る。それで良いだろう」
「い、いやいやいやそれはさすがに!」
わたわたとクリスは両手のひらを振り回す。そして何かを思いついたように突然パァッと顔を輝かせた。
「そうだ」
駆け込むように部屋の中へ戻り、自身のポーチへと手を伸ばす。取り出したのは小瓶だった。アルミの蓋を回して開け、クリスはその中に入っていた白い錠剤をいくつか手のひらに落とす。
――嫌な予感がした。
「待て、待て待て待て!」
こうなれば仕方がない。敷居を跨いで部屋の中に入り、国木田はクリスの元へと大股で近付いた。素早くその手から小瓶を取り上げるも、取り出された錠剤はというと素早い動きでクリスの手のひらからその口内へと放り込まれている。
「薬に頼るな!」
「これなら嫌でも眠れます! 国木田さんのお手は煩わせませんから!」
睡眠薬を飲み込んだクリスは得意げにこちらへ親指を立ててきた。そうじゃない。小瓶を手にしていない方の国木田の手は思わず彼女の頭をはたいていた。
「あ痛ッ」
大して痛くなさそうな声を上げてクリスは頭を抱える。気のせいではない気がするが、最近よくこのような漫才じみたやり取りが増えていた。不本意だ。クリスの方はというと、たまに本気の行動だったりするので手に負えない。
「薬の使い方を間違えるな阿呆! それはそういう使い方をするものではない!」
「むう」
「不満そうな顔をするな!」
クリスは子供のように唇を尖らせる。その目は心なしか覇気を失いつつあった。即効性の睡眠薬なのだろう、返答もキレを失っていた。そんなものを気軽に飲み込むなど、体に悪すぎる。
「……大丈夫、です、だから、国木田さんは、もう、部屋に戻って……」
とろりとした動きでふわりと上体を揺らしていた彼女は、やがて伏せるように体を前のめりにした。頭から畳に倒れてしまいそうだ。
慌てて手を伸ばして支える。国木田の胸にもたれかかるように、クリスは抵抗する様子もなく倒れ込んできた。
ふわ、と女性特有の匂いが立ち上る。ぐ、と息を詰める。
「……おい、クリス」
名を呼ぶ。軽く体を揺する。クリスは小さく唸るように反応した。睡眠薬が効きすぎている。これでは泥酔しているようなものではないか。何をされても抵抗できないだろうに。
――以前の彼女なら、国木田の前でさえもこれほどの無防備さを晒け出さなかっただろうに。
なのに彼女は、躊躇いなく国木田の前で睡眠薬を口にした。
それが意味するのは。
「……全く」
何度目かのため息をつく。そして、その体を抱え上げて布団の上へと横たえた。う、とクリスは不快そうに眉根を寄せて体を起こす素振りを見せる。無意識下でそれを行っているのだ、彼女の中で安楽は恐怖と大差ない。
起き上がろうとするクリスを布団へ押さえ込みつつ、その肩へ掛け布団を掛ける。
――瞬間、手の下の小さな体が硬直した。
「……や」
拒絶を口走り、クリスは身を縮める。今日ようやく包帯が取れた指先がシーツを破かんとばかりに強く掴む。何かから逃げるように、体を小さくし、シーツにしがみつき、震える。
「クリス?」
「や、だ」
小さな悲鳴が聞こえてくる。
「やめ、ちが……」
悪夢に魘されるように、クリスは小さく喚く。
「……ごめん、なさ……」
その言葉が向けられているのは、国木田ではない。
――身動きの取れない状態で意識を手放すというのが、ものすごく怖くて……。
そうか、と国木田はそれを理解した。同時に彼女は気付いていないということを知った。
彼女が本当に恐れているのは、急襲でも拘束でもない。
過去だ。
死にたくないと願っていた友人をその手で殺めた、己が己であるが故に背負った罪だ。
彼女は今、友人の血肉とそのぬくもりに蝕まれている。眠りにより覚醒しかけている過去への罪悪感が、彼女を幻惑し、怯えさせている。遠い過去から伸ばされた白銀の糸が首に絡みついてくるのを、抗うこともろくにできないまま受け入れ、苦しんでいる。
「……大丈夫だ」
国木田は布団の上から数度、宥めるようにぽんぽんと軽く叩いた。
「息を整えろ。ゆっくりと、大きく、息を吐き出せ。吸う時もゆっくりとだ」
聞こえているかはわからない。それでも、声をかける。脱獄を望む虜囚が鉄格子を掴んでいるかのようにシーツを強く握り込んだその手へ、国木田は己の手を重ねて優しく包み込んでやる。
「大丈夫だ、彼はあなたを恨まない。恨んでなどいない」
国木田はウィリアムという人物に会ったことはない。が、顔を見たことはある。連続猟奇殺人事件の際、彼は「特異点」という言葉を用いて幻想の中で国木田に話しかけてきた。
――彼女をよろしくね。
恨んでいるのなら、あのような言葉が、あのような笑顔が、発せられるわけがない。あれがただの幻ではないことは手記を読んだことで確信している。
あのウィリアムという男は、全てを知り全てを理解した上で全てを計画している。偶然も予定外も、彼には存在しない。ならばあの言葉は国木田への時を超えた伝言だ。
「大丈夫だ」
布団の上から亜麻色の髪へと手を移動させ、梳くように撫でる。震える肩が泣きそうな吐息を漏らしていた。それを慰めるように彼女の手をそっと覆う。
「大丈夫だ」
何度も繰り返す。言い聞かせるように、宥めるように、願うように。
いつか、彼女が安らかな眠りに身を委ねられるように。
その時が来たら、彼女は。
――普通の少女として、国木田の思いを受け止めてくれるのだろうか。