第2幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
***
ふ、と目を覚ましたのは、気を失ってからどのくらい経った頃だろう。
「お目覚めかな? 姫君」
ぼんやりする視界に、気絶に至る原因となった痛みを再現してくる痛覚。スタンガンの電撃を受けた影響がまだ残っている。目を凝らしてみれば、どうやらホテルのベッドに寝転がされているらしかった。両手首はベッドの上部に固定され、足は紐か何かでベッドに繋がれている。口はガムテープで塞がれており声は出せない。
次の出番に備えて雰囲気を変えようと髪の装飾を取ったところで、不意に停電したことを思い出す。リアとして呼ばれている以上玄人じみた対応はできないので抵抗しなかったが、さてこの後はどうしようか。
「それが君の素顔かい? 可愛らしい女の子じゃないか。これがあのリアだなんてね」
若めの男がベッドに腰掛けてこちらを見下ろしている。きっちりとしつつも華やかさのある白いスーツが、あのパーティの参加者であることを告げていた。クリスの体を舐め回すように見る目つきで、男の目的は簡単に知れる。
威嚇するように男を睨みつける。男は驚いたようにクリスを見、そして笑った。クリスの顔の横に手をつく。ギシリとベッドが鳴る。
「意外と強情なんだね、姫君は。怖がるかと思ったのに。でもそれも悪くない。僕はどんな君も好きだから」
男の目は歓喜で熱を帯びている。
知っている。これは好意だ。それも禍々しい方の。
どこの国にいてもこういった輩はいた。演じている役柄が儚く美しい女性ばかりというせいもあって、クリスはこの手の歪んだ感情は見知っている。
今回については意図的な部分も否めないが、と会場にいた探偵社員の顔を思い出す。二人ともクリスの登場にかなり驚いていた。この本業と外れた依頼を引き受けた理由は、彼らがとある任務を引き受けたと知ったからだ。傍受という常日頃の行いの甲斐あっての収穫を利用しないわけがない。偶然を装って事件解決に密かに助力すれば、彼らは潜在的にクリスに心を許すようになる。つまり、何かを目論んでいる輩に、事件を起こさせる衝動と決意を与えれば良い。
だからこの男にターゲットを定め、持ち前の演技力でこちらへ気が向くように仕向けた。つまりこの状況も、その作戦の一部であるわけなのだが。
――まさか堂々と誘拐されるとは思わなかった。
がしかし、クリスの心境は落ち着いている。拘束されている状態も、欲を向けられている状態も、珍しくはない。残念ながらこちらは玄人である。
「君が僕を見つめてくれたこと、わかったよ。嬉しかった。だからお礼を言いたくて、ここまで来てもらったんだ。君もそれを望んでいたんでしょう?」
クリスの策略通り、男は思い込みに心酔している。それがクリスの演技による感情であるなどと、この男は思いもしていない。いつもなら怯えて隙を見せた瞬間、異能や殺戮スキルで窮地を脱するのだが。
けれど、とクリスは思う。
今回は駄目だ。国木田達にこの男を捕らえさせなければいけない。それに、密室で殺人などをしてこの身を疑われるのは困る。
クリスには叶えなければならない夢がある。この街でようやく手に入れられそうな兆しのある、何を犠牲にし何を利用してでも叶えたいと願っている唯一の希望が。
あの人の、自分の、願いを叶える希望が。
だから、この男を殺すわけにはいかない。
ふ、とドレスがめくられる。素足に知らない手が這うおぞましさに、クリスは顔を歪めた。その反応に何を勘違いしてか男は笑みを浮かべる。
「可愛い」
足の指を、甲を、すねを、ふくらはぎを、指が伝う。蹴飛ばそうとすればその動きは把握され、強引に抑え込まれた。拘束のどれかが取れることを願いつつ暴れるも効果はない。
ならば、とクリスは目一杯暴れた。抑え込む力が増し、男の爪が足に食い込む。手首と足首に痛みが走る。
それで良い、抵抗の痕跡がこの体に残れば、こちらも手が打てる。異能を使うのはその後、最後の手段だ。異能を使わずとも顔面に頭突きを食らわせたり、抵抗を装ってみぞおちに蹴りを入れるといった手段は残っている。どうしようもなくなった時、その時初めて異能という選択肢が生まれるのだ。
――人間ごとき、簡単に粉末状に変えられる。
「くっ……」
男は苛立ったようにクリスに跨った。そして顔を覗き込んでくる。反吐がでるほど醜悪な顔つきだ。
「急かさないでよ。わかった、早急に済ましてあげる」
いつの間に手にしていたのか、ドレスの裾がカッターで裂かれる。露わになった大腿を撫で上げ、男は笑った。そのまま、胸の辺りにカッターを突き立てる。
「こういうの、すごく興奮する」
無闇に暴れてみれば、思い通り鎖骨付近にカッターの刃が当たった。男は歓喜を表情に宿したまま服を裂き、むしり取る。そして露わになった喉元へその刃を突きつけた。
「綺麗だよ姫君。想像通りだ」
皮膚に刃先が食い込む。急所に触れられている悪寒に身が震える。
「ああ、赤も似合う。綺麗だ」
男の舌が傷を舐める。気持ち悪い。
必死に異能の発動を押さえ込む。
視界の隅で、部屋に備え付けられた紙が急かすように風にひらめいている。早く、早く、と言いたげなそれは、クリスの隠れた意志だ。今すぐ決意すれば、この部屋に銀の刃が舞い、男は赤い欠片へと変じる。
しかしそれでは駄目なのだ。クリスは被害者でなくてはいけないのだから。
縋るように会場にいた見知った人を思い出す。国木田にはクリスが印象に残るように演出した。彼ならば日頃の付き合いもあって、クリスの危機を発想するはずだ。
きっと来てくれる。
来てくれると信じるしかない。
けれど、もし。
彼らが来てくれなかったら、どうなるんだろう。犯されるより先に赤が散るのは確実だ。
また、赤が。
目の前で。
――あの人のように。
「ああ、そんなに震えてしまって」
男が頬を撫でてくる。
「綺麗だ、今すぐ僕のものにしてあげる。綺麗なまま僕に乱された君は、さぞかし美しいんだろうね」
服の下に手が入る。胸に男の手が乗る。風が唸る。銀色が目の端に走る。限界だ。
誰か、早く来て。
誰か。
だれか。
はやく、たすけて。
――コンコン。
静かなノック音が扉から聞こえてきた。男の手が止まる。突然の来客に、興が削がれたように顔をしかめた。
瞬間。
扉を蹴破る音と共に人影が駆け込んできた。ノックをした意味のわからないほどの、早い突入。人影は迷わずクリスから男を引き剥がし大胆に投げ上げる。
その手際は華麗なものだった。
「クリス!」
男を投げ捨てるや否やこちらの顔を覗き込んでくる。そしてクリスの全身を見、彼は息を呑んだ。しかし目を逸らしつつ手帳に何かを書き込む。
「【独歩吟客】!」
彼の手に握られたのは折り畳み式のナイフだった。確かその異能力は見た物を再現する。折り畳み式のナイフなどというものを最近見たのだろうか。
ナイフで足の拘束を断つ。続いて両手の拘束を断ち、国木田はクリスの口元からガムテープを剥ぎ取った。
「く、にきだ、さん」
「大丈夫か!」
「来てくださると思ってました」
先程までの恐怖は消え始めていた。体を起こしつつそう答えれば、国木田は窮したように黙り込む。何か気に障ることを言ってしまっただろうか、と混乱の引いてきた頭で思いつつ、喉元を手で強く拭った。
市警が床に転がった男を囲んでいた。先の暗殺未遂偽装事件で呼ばれたのだろう。国木田は相変わらず手際が良い。市警の様子を眺めるクリスの肩に、ふと何かがかけられた。
スーツの上着だ。
それが、今のクリスの体を隠すためのものであることはすぐにわかった。あたたかい、布。知らない体温に体が硬直し、息が止まり、けれど拒めなかった。はね除けることはできなかった。
驚愕が、思考を奪っていた。
見上げた先で国木田がこちらを見下ろしている。その表情は。
「あなたは何故そうなのだ」
とても、つらそうで。
「来ると思った、か。それは何故だ。俺達が会場にいたからか。……こうなることをわかっていて、逃げなかったということか。俺が来なかったらどうしていた。俺が少しでも遅れたら、どうなっていた」
「……でも、あなたは来ました」
「そうではない」
「じゃあ……何ですか?」
わからなかった。
「どうして、そんなにわたしのことを心配するんですか? そんなにされても何もお返しできません」
国木田にあの男を捕らえさせたのはクリスだ。事件を解決させたのはクリスだ。しかしそれ以上は望んでいないし仕向けていない。なのになぜ、この人はこうして事件が片付いた後もクリスを気にかけるのだ。
コンビニ立てこもり事件の時もそうだった。演技は終わっていたというのに国木田はクリスを庇った。仕向けた以上のことをこの人はいつもしてくる。わけがわからない。探偵社員の仕事は悪を倒し平和を作り出すことだ。誰かの心配をしたところで給料は発生しないし、身を挺して庇ったところで国木田自身が怪我を負うだけ。そこに利益はない。何をされようがクリスは必要以上の利益を国木田に渡さない。なのになぜ、この人は。
――いつも、無条件に優しいのか。
その優しさを利用されるとなぜ思い至らないのか。後で裏切られるとどうして思わないのか。今目の前の一人を守るために身を費やすよりも、いつか大勢を助けるために保身に走る方が効率的だと、どうしてわからないのか。
どうして。
「……あなたのことがわかりません」
「クリス」
「わかりません。何がしたいんですか? 何かを成し遂げたいというのなら何かを捨てなければいけないんです、そういうものなんです。なのになぜ、あなたはわたしを見限ろうとしないんですか。そうやって全てへ手を差し伸べていたら本当に守らなきゃいけないものを取りこぼすと、どうして思わないんですか。どうして選ばないんですか」
「それが理想だからだ」
国木田は簡潔に告げた。しゃがみこみ、クリスの前へ片膝をついて目線を合わせながら、言い切った。
「それが俺の理想だからだ。目の前の全ての命を救う、全ての不幸を幸福に変える。それがこの世界のあるべき姿だからだ」
「そんなもの」
「確かに実現は難しい。何度も失敗した。目の前で何人も死んだ。だが諦める理由にはならん。俺はいつまでも、その理想を体現すべく全力を尽くす。その一つがあなたなのだ」
それは説得するように、語り聞かせるように、そして願うように紡がれる。
「目の前で誰かが傷付いている、目の前で誰かが死にかけている、目の前で誰かが涙を流そうとしている……それを全て見捨てず、全てに手を差し伸べ、全てを救う。それが俺の理想だ。その相手が誰であろうが俺はそれを成す。それが今の場合あなただった。ただそれだけだ。選んだわけではない。選ぶ必要などない」
「……選ぶ必要が、ない?」
それは、どういうことだ。
人は全てに順位をつける。誰と親しくし、誰と手を組み、誰を見捨てるかをその順位によって決め選択する。そういうものだ。上位の人間を――強者を選び強者に味方し、弱者を排除し虐げる。そうして人は自分というものを成立させる。そういうものだ。そう教えられた。そう学んだ。
なのに、この人は。
「……わたしに何かを望んで、懇意にしてくれているわけではないと?」
「見返りなどいらん。ただ、そこで楽しげにしていればそれで良い」
「……例えばわたしが救う価値のない存在だとしたら」
「そんな人間はおらん」
断言。それは、その眼鏡の奥の眼差しと同様、強く、真っ直ぐで――曇りがない。
「あなたは俺達が守るべき市民の一人だ。それだけで十分な理由、十分な価値だ」
あり得ない。
こんなの、綺麗ごとだ。
そんな言葉を誰が言えと言っただろう。そうやってクリスを絆して、何が目的なのだろう。
違う、とクリスは気が付いた。この言葉は国木田の本心なのだ。彼にとっては策略でも何でもない、正直な心なのだ。無邪気で純粋で、汚れを知らない――もしくは汚れを負わない、清水よりも清廉な意志。
この人は、今まで出会ったどんな人よりも無垢で、無謀で、愚かで、そして。
何も、わかっていない。
「……そうですか」
俯く。膝の上で握りしめた手のひらに爪が食い込む。
「……そう、ですか」
手が震えている。手だけではなく、全身が震えている。けれどそれは先程までの震えとは違っていた。
何がどう違うかは、わからなかった。