第4幕
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[Act 4, Scene 4]
「ごちそうさまでした」
ぽん、と手を合わせ言えば、テーブルの向かいで新聞を片手にしていた国木田がちらりとこちらを見てきた。
「洗っておくから台所に置いておけ」
「大丈夫ですよ、わたしが洗います」
指先に巻いた包帯を一瞥し、クリスは笑う。
「手袋をしてやりますから。だいぶ治ってきて、痛みもありませんし。国木田さんはいつも通りにしていてください」
「……無理そうだったら止めろ」
「そうします」
頷き、使用した皿を重ねる。平皿の上に茶碗、そしてお椀。立ち上がった後、それらをそっと両手で持ち上げた。ずしりと陶器独特の重みが腕にかかる。以前はプラスチック容器とは異なるその重さと硬さにびっくりしたが、今や既に慣れ切っていた。
台所にそれを運び、シンクに置く。近くの棚から薄い紙製の箱を取り出し、その中から使い捨てのビニール手袋を二枚取り出した。それぞれ両手にはめ、そして蛇口を捻る。ドドド、と流水がシンクを殴る。その音を聞きながら傍らに置かれていたスポンジを手に取り、そこへ液体洗剤をかける。数度スポンジを握れば、みるみるうちに白い泡が湧き出てくる。
探偵社に雇ってもらい国木田と共に過ごすようになってから一週間程が経った。探偵社では事務作業の一通りを、家では家事の一通りを教えてもらっている。舞台女優として舞台に立ち、闇に生きる者として不規則な生活をしていた頃とは全く異なる日々だ。
これが、普通。
普通の、日々。
皿を洗い終わり、クリスは居間へと戻った。国木田は新聞を読み終え、今度は手帳のチェックをしている。毎朝の日課だ。
「すまんな」
「いえ。今日もお忙しそうですね」
国木田の手元を覗き込む。几帳面さをこれでもかと見せつけるような細かい文字の羅列が紙いっぱいに並んでいた。頷き、しかしどこか楽しげに、誇らしげに、国木田は万年筆の先で手帳を指す。
「休む暇などないほどにな」
「あ、軍警の会議に参加するんですね」
ぐ、とさらに顔を近付ける。が、国木田は動じることなくこちらをじろりと見遣ってきた。
「盗聴器は仕込むなよ」
「……はい」
少し悩んだ末、素直に頷いて、クリスは手の中に隠し持った盗聴器を握り込んだ。手帳を覗き込むついでに国木田に仕掛けようとしたのだが、やはり二日連続となると気付かれるか。
「残念」
「何が『残念』だ。同じ手に引っかかるわけがないだろうが。もはや俺に盗聴器を仕掛けること自体を楽しんでいるな?」
「バレたか……あ痛ッ」
こつん、と額を万年筆の尻で小突かれる。ぐうう、と額を押さえつつ身を引けば、国木田は心底呆れた様子で大きくため息をついた。
「そう気安く盗聴器を使うな。それはそういう道具ではない」
「国木田さんにしかしてませんよ」
「なぜ俺限定なのだ」
「楽しいから」
「……そういう道具ではないと先程言ったばかりだろうが」
「じゃあ発信器にしましょうか」
再びため息をついた国木田に冗談っぽく返しつつ、クリスは居間の隣の部屋へと向かった。元は国木田が寝室として使っていた部屋だ。今は夜間のみクリスが使用している。
部屋の隅に置いてあった自らのウエストポーチと上着を手にし、クリスは居間へと戻った。テーブルを挟んで向かい合うように座り、ポーチの口を開ける。小型パソコン、ナイフ、望遠鏡――中身を順に取り出し、その汚れを拭き取り、または動作を確認していく。毎朝の日課だ。
「でも国木田さんの居場所を把握していたところで特に使い道がないんですよね」
「そういう問題ではないし、俺を脅す材料を探すな」
拳銃から弾倉を抜きながら平然と言ったクリスを見ようともせず、国木田が手帳に何かを書き加えながら突っ込んだ。
「今度の要求は何だ」
「夜間の外出を認」
「却下だ」
ぴた、とクリスは銃を傾けていた手を止めた。側面の排莢口からコロリと銃弾が転げ落ち、畳の上に転がる。
「……言い切ってすらいないのに」
「与謝野先生から規則正しい生活をさせるよう言われているからな。手は抜かんぞ」
む、と唸りつつ、クリスは銃弾を拾い上げた後、手元の作業を再開した。銃弾が完全に排出されたのを目視確認、銃を分解し、各部品にオイルを少量垂らして布で拭いていく。
「……でも暇なんですもん」
「寝ろ」
「寝てます」
「布団で寝ろ」
ページをめくり、そこに書かれていた文面に目を凝らしながら国木田はぼやいた。
「体を起こした状態での睡眠は休息にならん。何度も言っているだろう」
「十分休めてます」
銃身の中を光に透かし見、汚れ具合を確認、布を先につけたクリーニングロッドをその中に突っ込んで内部を拭く。白かった布が少しばかり黒くなる。
「休めていると錯覚しているだけだ。人間の体はそこまで丈夫にはできていない」
「……十年以上そうしてきたから、もう慣れてしまいました。【テンペスト】のおかげで睡眠不足が戦闘に影響することもないし」
銃身の整備を手早く終わらせ、銃を組み立てる。最近は使用頻度が少ないので掃除に手間取らないのが良い。
「なら今から直せ」
パタン、と手帳を閉じ、国木田はため息と共に言った。
「元よりあなたは体力も持続力もない。潜在的にな。この先何があるかわからん、澁澤の時のように異能が使えないこともあるかもしれん。敦にも言ったことだが、異能に頼り過ぎるな。異能ありきの生活や戦闘は隙が多いものだ」
「……わかっています」
整備の終わった拳銃を膝の上に乗せ、それを見下ろす素振りでクリスは俯いた。黒い鉄の塊が、手の中にある。ギルドにいた頃にトウェインから扱い方を学んでいたものの、利き腕でしか扱えなかった武器だ。そのせいで連続猟奇殺人事件の際は危機に面し、国木田の助けを得てしまった。今は左手でも扱えるようになったものの、あの一件で異能を使わない自分がどれほど弱いかを思い知っている。
「……わかっては、いるんですけど」
言い淀んだクリスに、国木田は何も言わなかった。手帳を懐に入れて立ち上がり、腕時計へと目を落とす。
「出社の時間だ。行くぞ」
「はい」
立ち上がり、拳銃を腰のホルスターに装着、それを固定するようにポーチを腰に着けた。上着を羽織れば、それらは外目からは見えなくなる。
部屋の電気を消し、外に出る。今日は快晴だ。空へ向かって、うーん、と伸びをするクリスの背後で国木田が部屋の鍵を閉める。
「良い天気ですよ国木田さん!」
「洗濯日和だな」
「布団を干しておけば良かったですね。明日も同じくらい晴れていたら、干しましょうか」
「ああ」
くるりと踵を返してクリスは先を歩き始めた。ふと国木田が手を伸ばしてくる気配。上着の下から微かに覗くピンクのクマを手に取った国木田へ、クリスは振り返りつつ笑いかける。
「国木田さんも欲しいですか?」
「要らん。……その、こんなものを着けていて恥ずかしくはないのか」
「いいえ、全く」
すぐさま否定を返す。恥ずかしいわけがない。これは、クリスにとって唯一のもの、唯一の思いだ。
クリスの答えに国木田は軽く目を見張った後、気付けないほど僅かに目元を緩めた。
「そうか」
二人並んで朝の街を歩く。柔らかな朝日が二人を照らし、その足元に二つの影を作り出した。