第4幕
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***
私服に着替えた後、クリスは医務室で与謝野の診察を受けることになった。海に落ちたものの、すぐにタオルで乾かし車内で暖をとっていたためか風邪の症状は出ていない。それでも、久し振りの外出は眠り続けていた体にかなり堪えた。全身が怠い。三日も寝ていたというのに、もう眠気すら感じつつある。
「体力が落ちて、疲れやすくなっているんだろうね」
優しい声音で与謝野が言い、くるりと椅子を回して机へと向き直った後カルテへ何かを書き込んだ。その動作をぼんやりと眺めつつ、クリスはシャツの胸元のボタンを順に留めていく。
「……体力なんて元々ないようなものですけど」
「精神力も体力のうちさ、筋力だけの話じゃない。頑張れるか頑張れないか、休むべき時にちゃんと休めるか。疲れてくると、そういった調整ができなくなる場合があるんだよ。クリスのはそれだね」
「対処法は」
「規則正しく生活すること。朝に起きて、昼に体を動かして、夜は寝る。これだけでもしておけば大抵の体調不良は治るもんだ」
与謝野の言葉にクリスは目を逸らした。規則正しい、というのは規則正しさとかけ離れた日々の中でできることではない。朝だから起きる、夜だから寝る、などと時間を軸に過ごしていたら襲撃を読むことができないし、襲撃を仕掛けることもできない。クリスのような人間が生活の軸にするのは、現状であり標的の動きであり、相対的なものだ。
「難しい」
「試しがいがあるじゃないか。やってごらんよ」
目の下に隈を作った与謝野は楽しげに笑った。シャツの首元を整えつつ、クリスはその疲労の具合に申し訳なさを覚えずにはいられない。今度お菓子か何かを渡そうと思う。与謝野だけではなく、探偵社員全員へ。感謝を伝えられる時間は限られている、後回しにしてしまってはいつか後悔するかもしれない。
そう思い至って、クリスは与謝野から目を逸らしてしまう。できればこの迷いを知られるのは避けたかった。自分が何者なのか、この先どうなるべきで、何を決断しなければいけないのか、それらを知られてしまったら間違いなく彼らはクリスのために行動しようとする。それは避けたかった。自分の存在が彼らの行く道を妨げるものならば、余計なことはさせたくない。わがままを貫く自分の、せめてもの思いだ。
何も考えていないふりをしながら立ち上がる。そばの棚に置いてあったウエストポーチへと手を伸ばし、それを持ち上げた。慣れた重さが腕にかかる。いつものように腰に装着しようとして、その中に入っているものに――小さなノートに、思いを馳せた。
手記。
遠い日、あの人が書き残した遺書。
そこに書かれていたこと。
――"Nowhere."
わたしはどこにも存在しない。本当は生まれるはずのない命だった。だから世界はわたしを排除しようとするし、わたしはどこにいても周囲を傷つけずにはいられない。異質の存在、異端の者、完成間近のパズル作品へ強引にはめ込まれた不必要な一ピース。無理矢理パズル作品の一部になろうとしているわたしは、隣のピースを歪ませ、壊し、やがてこの世界自体を破壊してしまうのだろう。それを防ぐためにウィリアムは死をもってわたしに不必要なピースとしての”物語”を、”設定”を与えた。
どこにも居場所のないパズルピース、無理矢理はめ込まれたそれのせいで歪んだパズル。作品を本来の形に戻すためにはどうすべきか――そんなこと、誰が考えたってわかる。
忘れかけていた吐き気がまた込み上げてくる気がした。息を大きく吸って喉の奥底にそれを押し戻し、目を強く閉じる。
――例え彼女が本来存在し得ない仕組まれた命だったとしても、俺達がどこぞの誰かに都合良く配置された駒の一つだったとしても、それでも俺は俺の思考で決断する。
あの言葉が、澄んだ湧き水のように吐き気を遠ざけてくれる。何かを許してくれるような、大丈夫だと思わせてくれるような、あり得ない錯覚に陥らせてくれる。
嬉しかった。そして、悲しかった。あの言葉が嘘ではないことに、けれどそれがいつか嘘に変わることに。二つの相反する感情が暴れ回って心を傷付け、溢れ出した血と膿が吐き気となって喉元に込み上げてくる。
「……与謝野さん」
名を呼べば、与謝野はカルテへ書き込んでいた手を止めて静かに次の言葉を待ってくれた。その優しささえも本当は向けられるはずのないものなのだと冷徹な諦念が嘲笑ってくる。失うべきものなのだと囁いてくる。だとしても、と心の傷が血を吐き出しながら叫んでいる。
生きていたい。
生きていたい。
この世界の中で、この人達のそばで、この世界の住人として生きていきたい。
”その時”が来るまでは、せめて、この夢を見続けていたい。クリス・マーロウとしてこの人達と日々を過ごしていたい。
「……もしわたしと皆さんが出会っていなかったら、どうなっていたと思います?」
「何だい、藪から棒に」
与謝野は冗談を言われたかのように朗らかに笑った。
「そうしたらきっと、ギルド戦でもっと大変な目に遭ってて、澁澤の件の時もうちの誰かしらが死んでいたかもしれなくて、共喰いの時なんて社長を助けられなかったかもしれない。とにかく散々だろうさ」
「……そうなんでしょうか」
「そうさ。今の妾達にはクリスが必要なんだ。大切な仲間なんだよ」
仲間。
きっとその一言は与謝野の優しさなのだろう。そちらを見れば、与謝野はにこりと笑い返してくれる。クリスが不安になっていることを、憂鬱になっていることを、与謝野は気付いてくれていた。その優しさに心が救われる。ずぶずぶと泥の中に沈んでいく心が、少しばかり浮力を得たかのような安堵。
わたしは救われてばかりだ。
「そういえば、今夜はどうするんだい?」
ふと与謝野が話題を変えてきた。今夜、という言葉に何も思いつかず、何のことかと首をひねる。そんなクリスの様子に、与謝野は「やっぱり何も考えてなかったんだね」と肩をすくめた。
「今夜、どこに泊まるのかって話さ。出国するつもりだったのなら、家はもうないんだろう?」
「家、というかホテルだったので、ないというか何というか……今から予約を取れば良いとは思いますけど」
「収入もないのに何日もホテル住まいは大変だろう」
ああ、とクリスは与謝野の言いたいことを理解した。クリスは今、宿なし仕事なしの状態だ。もはや出国の予定はなくなったので、またこの街に居座ることになる。何日いることになるかはわからない。できる限りこの街にいたいとは思うのだが。
「仕事探さなきゃ……」
「劇団には戻らないのかい?」
「それは……」
目を逸らす。
「……今、何を演じても余計なことを考えてしまいそうで」
以前なら何も考えずにその役になりきれたが、演劇への思いすら仕組まれたものだと知った今、同じような気持ちで舞台の上に立てる自信がない。それに、あの劇団にはヘカテがいる。擂鉢街で会った後、自分のことで精一杯で彼がどうなったかは知らないままだ。だが、手記を狙う特務課の目があるとわかっている場所にわざわざ顔を出そうとも思えなかった。
「少し考えてみます……とりあえず今夜は、どこかホテルを取ろうかと。今までの収入のおかげで少しは余裕がありますし」
そうかい、と返しながら与謝野は卓上の時計をちらりと見遣る。
「終業の時間だ。妾は上がらせてもらうよ」
「すみませんでした、ご迷惑をおかけして」
「良いよ、アンタとまた話せるようになれたからね。医者にとって患者の完治が一番嬉しいものさ」
椅子から立ち上がり、軽く背伸びをした後、与謝野はクリスの頭へと手を伸ばした。ふわりとひと撫でされる。
「それに、良い顔になった」
「顔?」
「無理して笑わなくなっただろう?」
ハッと見上げた先にあったのは、安堵をにじませた優しい笑みだ。
「それで良いんだよ。隠さなくたって良い。妾達は、どんなクリスでも受け入れる」
「与謝野さん……」
「でもクリスの笑顔が好きなのは変わらないよ。楽しい時だけ笑えば良い、ただそれだけさ」
楽しい時だけ、か。
「……はい」
言い、クリスは微笑んだ。相手に何を思わせるためでもない、自然と浮かんだ笑みだ。
「そうします」
「その方が妾も安心するよ。クリスの演技力にはなかなか敵わなくてね」
「一応、それで稼いでましたから」
少し誇らしげに言えば、与謝野は声を上げて笑った。つられてクリスも笑う。他意のない、ただただ楽しげな笑い声が交わされる医務室。以前にはなかった穏やかな空間が、そこにはあった。