第4幕
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――浮上。
痛みが思考に輪郭を与える。
「ごほッ!」
唾液と胃液と海水が口から吐き出された。
咳き込むたびにこれでもかと液体が体内から吐き出され、それとは真逆に肺が膨らみ、呼吸を求めてくる。吐き出し、吸い込む、それを同時に求められた喉は無理だと叫ぶように張り裂けそうになる。
「かは、あ、……ッは」
誰かが背中を叩いている。しがみつくように指を立てたのは、濡れたコンクリートの地面だ。徐々に視界が色を帯びてくる。灰色、黒色、黄色、そして青。見慣れた亜麻色が水に濡れて顔に張り付きコンクリートに毛先を散らしている。全身が濡れて重い。動かせない体に、柔らかな茶色のコートがかけられている。
咳き込む、息を吸う。胸が痛み、足が冷え、服の重さが全身を地面へと張り付かせる。
陸地。海の水底ではない、嫌になるほど呼吸を繰り返してきた広大な空間。
――生きている。
「ゆっくり呼吸をしてごらん」
太宰が顔にかかった髪を避けながら覗き込んでくる。
「焦らず、ゆっくりとだ。そう……うん、上手だね」
「大丈夫か」
焦りの滲んだ国木田の声が降ってくる。横向きになったこの背中を叩きさすっているその手も彼のものだと気が付く。見知ったぬくもり、声、仕草、気配。それらを徐々に認識し始めながら、呼吸をとにかく繰り返す。瞬きをするたびにまつげから水滴が落ちた。
生きている。まだ、生きている。
まだ、わたしは。
「クリスちゃん、これ見える?」
太宰が手を振る。声が出せないまま視線だけを動かしてそれを見遣れば、目の動きでわかったのだろう、太宰は立てる指の本数を変えてきた。二本、三本、五本。
「大丈夫そうだね」
太宰はにこりと笑う。
「呼吸も落ち着いてきてるし。無事で良かった」
「何が”無事で良かった”だ!」
国木田の腕が伸ばされ、太宰の襟元を掴み上げた。その袖から、顎から、雫が数滴落ちる。
「他人事のように言うなよ太宰!」
眼鏡を外していた国木田が怒鳴る。その全身は濡れ切っていて、服が肌に張り付いているほどだった。
「クリスを連れ出したのは貴様だ! 谷崎にクリスが眠っている姿を見せた後、眠りの邪魔をするといけないなどと言って谷崎とクリスを離し、人目につかぬ場所へ彼女に空間移動をさせた!」
「それが彼女の望みだったからね」
「当時の彼女に意思などなかった! それをさせたのは貴様自身だ!」
「いいや違う」
太宰の声は海のように穏やかで無機質だ。
「彼女は望んでいた。君もわかっているだろう? 彼女がどれほどの絶望に打ちのめされていたか。……君は手記を読んだのだからね」
――ぐるりと視界が歪んだ。
今、何と言ったか。
手記を。
誰が。
「……う、そだ」
顔を上げる。引きずるように上体を起こして、そちらを見る。
「……嘘だ」
国木田はこちらを見ないまま太宰を睥睨している。それが答えであることなど、確認するまでもない。
手記を、読まれた。
それは、つまり。
――クリスは排除すべき余計なものであり、この世界を壊すための存在であり、国木田の思いや行動が仕組まれた紛い物であることを、国木田が知った。
呼吸が狂う。手足が冷え込む。じとりとした粘り気のある海水が全身を絡め取る。それでもどうしてか、目が離せない。
知りたくないのに、見たくないのに、目を逸らせない。
国木田が何かを言おうと口を開く。太宰を見据えたその真っ直ぐな眼差しが固い意志に鋭く光る。
刃のような、眩しさ。
「……ああ、わかっている」
低い声が、告げる。
「だがそれが何だ」
――国木田の真の決意を。
「例え彼女が本来存在し得ない仕組まれた命だったとしても、俺達がどこぞの誰かに都合良く配置された駒の一つだったとしても、それでも俺は俺の思考で決断する。俺の目の前では誰も死なせん、死を切望させるようなこともさせん、それが俺の生き方であり理想だ。今までもこれからも変わりはしない」
強い心がその眼差しに、声に、気迫に、宿る。
「事実一つが明らかになったところで俺のすべきことは何一つ変わらん。――俺の理想を舐めるなよ」
ああ、そうだ。
この人は、そういう人だ。
クリスがクリスだからといって何を変えるでもなく、ただ当然のように一般市民として接してきてくれた。それがこの人だ。
国木田という、人だ。
唇がわななく。何かが込み上げてくる。じわりとあたたかなものが視界を歪ませる。口を引き結び、俯き、それでもそれはとめどなく体の最奥から湧き上がってくる。
「だ、そうだよ」
太宰の声は笑っていた。
「良かったね、クリスちゃん」
「……わざと言わせたな?」
「こうでもしないとクリスちゃんは耳を貸さないと思ったからね」
二人の会話が聞こえてくる。けれどそれに何を言うこともできず、濡れ切った手で目尻から頰へとこぼれる体温を拭う。
あたたかい。
そうだ、わたしはまだ、生きている。
今までも、今も、生かされている。
「……つらかったね、クリスちゃん。ずっと一人で隠して、耐えて」
優しい声が耳に届く。もう一人が肩を抱き寄せ、頭を優しく撫でてくれる。濡れたぬくもりが冷えた体に伝わってくる。
「……よく頑張ったな」
その声音に、何を躊躇うこともなかった。
「……う、ん」
縋り、しがみつき、頷くそぶりで顔をすり寄せる。
「……くにきだ、さん」
名前を呼ぶ。
「わたしは……生きていて、良いんですか」
「当たり前だろうが」
率直で愚直な答えが間髪入れず返ってくる。その言葉に、頷く。何度も頷き、嗚咽を堪える。
「……生きたい」
少しだけで良い、もう少しだけで良いから。
「あなたの隣で、生きていたい……」
――この願いすらも、いつか絶えると知っているけれど。