第4幕
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***
海が遠くに見えた。高層建築物が立ち並ぶ中に、ぽっかりと空いた空間。湾と海の境界で、空が直接水平線にまで降りてきている。そこに横一線を引く直線的な長い橋。ヨコハマという街を象徴する光景だ。
空も海も、青い。薄く、淡く、無色に近い青。そこに太陽の日差しが乗る。細かにさざめく波に光が乗り、波間に輝きを灯らせる。
「……人は海を見ると心が安らぐそうです」
海が好きだと言っていた元同僚を思い出す。白い鯨の異能を従え、穏やかさを常に感じさせる風貌の彼だったけれど、それは見かけだけの話で、海という地球上から消えることのない広大な青に安らぎを求めてしまうほどには何かを背負っていたのだろう。メルヴィルと長話をしたことはない。しかし海そのものを思わせる彼の居心地の良さは今でもはっきりと思い出せる。
倉庫街の果て、船着場にクリスは立ち尽くす。目の前には弧を描くように湾が広がっている。そこはかつて白鯨が沈んだ場所だった。
「……一度、きちんとここに来てみたかった」
ぎゅ、と肩にかけられた茶色のコートを掴み、体に引き寄せる。【マクベス】による痛みはないが、寝間着がわりの着物しか着ていないため海風が冷たく感じられた。
再定義の異能による反動、異能発動後にそれが体に作用するまでには時差がある。空間移動をした直後、待ち構えていた太宰に触れてもらうことで、反動が打ち消され無傷での空間移動が実現できたのだ。
「……海で、モビー・ディックと一緒に歌をよく歌っていました。海辺だと不思議と声が出るから。ホールのような反響する空間じゃないのに、しっかりと自分の歌声が耳に届いて……心地良かった」
「どんな歌を歌うんだい?」
「いろんな歌です。賛美歌や、わらべ歌や、劇中歌……」
口を噤む。口にしたくないことを言ってしまった気がして、けれどそれは自分が今まで縋りつき頼みにしてきた大好きなもので、何が変質したわけでもないのに心境が変わってしまった戸惑いに黙り込む。
陸の端にクリスは立っていた。黒と黄が交互に重なる縞模様が、そこが危険であることを視覚的に示している。あと一歩踏み出せば、誰もが間違いなく海の水に飛び込める場所だ。自分の意思でいつでも陸地から離れられるという安堵が、混乱を引きずる心をどうにか鎮めている。
「一曲、どう?」
同じくコンクリートで固められ黒と黄の縞模様に縁取られた陸の端に立ち、太宰が隣で笑う。その笑顔に首を振った。
「……今更神に感謝する歌は歌えない」
「君の歌が聞きたいだけだよ。何か歌ってくれるかい?」
太宰は微笑みを保ったままこちらを見つめてくる。静かな口調に拒否を繰り返す気も失せて、クリスは海へと向き直りつつ胸の前で両手の指を組んだ。
歌。
歌、か。
顔を伏せて目を閉じる。小さな息に声を乗せる。
「……"God be with you till we meet again"」
呟くような旋律が喧騒から離れた海辺に漂っていく。
「"By His counsels guide, uphold you(神の導きが汝を支え)
With His sheep securely fold you(汝は神に抱かれ守られる)
God be with you till we meet again(神よ汝と共にあれ、我らがまた会うその時まで)"」
これは別れの歌だ。いつかまた会える日を待ち望む人々が交わす歌、その時まであなたに神のご加護がありますようにと相手を想う歌。
さよならを告げる賛美歌。
独り言に似た歌声は細く、けれどたゆまず、海の向こうへと運ばれていく。遠くから鐘の音が聞こえてくる気がした。海が見える丘の上に立つ教会から鳴り響く、白く硬質な弔いの音。聞こえないはずのそれに耳を澄ませる。鐘の音は後押しするように、慰めるように、体の奥深くと共鳴して心をも震わせる。
「――君が何者かを、私は知っていたよ」
太宰にもこの幻聴が聞こえているのか、囁くように告白する。
「君が何を期待され、何を意図された存在かを。君に求められていることは端的に言えば”全てを無に帰す”ことだ、そしてそれを行わなければ君はやがて”この世界そのものを破壊する”……残念ながら私達にそれを覆す方法はない。だからこそ、それを覆す以外の方法を選んだ」
瞼を開ける。足元に絶えず打ち付けてくる波を見つめる。
「……覆す、以外の」
それは何だ。この身に望まれているのは正しい終焉、間違った物語の終わりだ。それ以外には何もない。物語の終わりというのはすなわち全ての暗転、繋がらない未来、動きを止めた人形。なのに何があるというのか。
太宰はクリスの呟きに答えず、からりとした声で続けた。
「国木田君は君にとって都合が良かっただろう?」
「……ええ。罠を疑うほどに」
嘘に気付かず、クリスの演技を見抜くこともできない、探偵社の要の一人。女性慣れしていない上彼の内心の全てが記された手帳があり、どう対応すればその心を揺さぶり、騙し、親密になれるかがわかった。愚直な理想主義者、強き心の次期社長。武装探偵社を掌握する上でこれ以上ない駒。
「罠だとわかっていても、君なら国木田君に接近し懐柔しようとしてくると思っていた。そして、その上で彼が君を導くと判断した」
「……そこまでわかっていたのなら、あなたでも良かったのでは? 無知を装って駒となり信頼を繕う程度、太宰さんならできたでしょう」
風が吹く。海から吹き込んでくるそれは潮の香りを含んだまま耳元を撫でていく。髪を手で押さえ、クリスは横に立つ男を見上げた。
「……なぜ、太宰さんではなく国木田さんだったんですか?」
青い空を背に負った男はクリスを見下ろし静かに微笑んでいた。底の見えない泥濘を思わせる眼差しはしかし陽光を孕み、薄っすらと喜色に華やいでいる。
「それはね」
太宰は聞き心地の良い穏やかな声で告げた。
「――彼が”手帳の者”だったからだよ」
「手帳……?」
「国木田君の手帳にはありとあらゆる予定が記されている。君との約束もね」
そうだろう、あの人はそういう人だ。それが何を意味するのか、クリスにはわからなかった。悲劇を約束された物語、それを覆す以外の方法、そのための国木田という存在、手帳。
一つ一つが点のまま、繋がることもなく並ぶこともなく、宙を漂っている。
どういう意味か、そう問おうとした。
「――クリス!」
怒声に似た声が名を呼んでくる。ヒクリ、と喉が縮み上がる。思わずそちらを見てしまったのは、その声の圧がそうさせたからか。
誰かが走ってくる。見慣れた人影だ。束ねられた髪、質素な眼鏡、几帳面さを窺わせる服装、体幹の鍛えられた乱れの少ない体捌き。
なんで、という叫びが漏れ出た。意図しない自分の声に動揺の色を見る。駆け寄ってくるその人から逃げるように後ずさり――視界が下方へ傾いだ。
宙を蹴る、全身が下降する。船着場から足を踏み外したのだと気付いたのは水面に触れる直前。ぞ、と肝が冷え込む落下の感覚。
「クリスちゃん!」
太宰が手を伸ばしてくる。その手に応えるように伸ばした自らの手は、指先に巻かれた包帯に滑って何も掴めなかった。クリスが羽織っていた太宰のコートが翻り、上空へと舞い上がる。お前だけが落ちろとばかりにその茶色はクリスを見下ろしてくる。
わたし、だけが。
落ちる。
水面に、冷えた水中に。
――木の枝から見放された果実のように。