第4幕
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***
会議は予定通りの時刻に終わった。社のビルに戻ってきた時間も、手帳に記した通りだ。
探偵社の扉の前で腕時計を見、秒針の位置を確認する。今日も順調だ、定時までに全てが終えられるだろう。何事もなければ、時間が取れる。
医務室に寄る時間が。
「……寄らせてもらえるなら、だが」
クリスが目覚めてから三日目、だというのに未だ彼女との面会は実現していない。与謝野によると、彼女は国木田だけを拒んでいるようだった。それはきっと国木田を疎んでいるというわけではない。であれば彼女が約束通り国木田に会いに来てくれた六日前のあの時、国木田に縋り付くような真似はしていないだろう。
彼女は恐れている。国木田に知られることを――であれば既に知っていると伝えたところで彼女を狂乱させるだけだ。話ができる状態ではない。けれどこのまま放置し続けるわけにもいかない。
思考を遮るようにため息をついた。こんなところで悶々と考えていても何にもならない。今すべきは今日の予定を完璧にこなすことだ。
ドアノブに手をかける。無意識下で扉を開け、部屋の中へと足を踏み入れる。
「ただ今戻りました」
いつも通り声をかける。けれど視界に映り込んだのはいつも通りの景色ではなかった。
慌ただしさを感じる、誰もが椅子から腰を浮かせている状況。集う彼らの手元には地図、そして通話状態の受話器。指示を出す声、何かを尋ねる声。
医務室にいたはずの与謝野がこちらを見、声に出さずに国木田の名を呟く。
「……帰ってきたんだね」
焦りを隠しもしない女医に、緊急事態を予感する。手にした資料の束が重い。
「……何かあったのんですか」
「ごめん、妾の責任だ。疲れだとかは言い訳にもならない」
「与謝野先生のせいじゃないですよ」
谷崎が弱々しく弁護の声を上げる。
「ボクがちゃんとしてなかったから……」
「谷崎は悪くない。全部、妾のせいだ」
自責に顔を歪めながら、与謝野は国木田から目を逸らしたまま髪を掻き上げた。
「……クリスが消えた」
――何を言われたのか理解ができなかった。
「休憩しようと思って、谷崎に交代してもらったんだ。その途中で谷崎に客が入って、客が帰るまで太宰がクリスの様子を見ていたらしい。けど、谷崎が妾と交代した時にはもう、あの子は医務室にいなかった」
「ボクが仕事を終えて太宰さんと交代した時、クリスちゃんは眠っていたんです。だから邪魔しないようにっていうことになって」
「目を離したのか」
「カーテン越しには待機していたんです。ベッドの方からそれらしい音も聞こえて来なかったし……抜け出すような素振りも、気力もなさそうだったので」
谷崎が「すみません」と頭を下げてくる。責任を問うのは簡単な話だ、問い詰め罵倒すれば良い。けれどそれは何の解決にもならない。
自分の席へ資料束を叩きつけるように置きながら、国木田は思考する。
彼女は人前で眠らない。そして、反動があるとはいえ見慣れた場所への空間移動が可能だ。谷崎が部屋の中、カーテンの向こうにいたのなら、医務室の外や探偵社ビルの外くらいなら誰にも見られずに出て行ける。しかし「社員の誰にも姿を見られずに」となると難易度は急激に上がるだろう。彼女は、与謝野が医務室に戻ってくるかもしれない、国木田が探偵社ビルに戻って来るかもしれない、そんな不確定な条件下では行動しない人間だ。必ずそれを確定させる、そのための情報を集める。しかし今の彼女にその気力があったとは思えない。
何が彼女を決断させ行動させたのか。
「今仕事に余裕のある社員が総出で探してる」
与謝野が緊迫した声で報告してくる。
「普段なら空港や港を張れば良いんだろうけど……」
「今の彼女は外部へ出て行こうとはせんだろうな」
与謝野が頷く。後悔と焦りとで顔を苦々しく歪ませながら、言う。
「逃げるという意思がない、なのに姿を消した。考えられるのは最悪の事態だ」
そうだ、最悪の事態だ。彼女の心はとうに壊れている。希望も執着も失った人間が考えつくのは、絶望そのものから逃れることだ。
――死。
その一文字にぞくりと背筋が怖気立つ。
彼女が、死ぬ。あれほど強く生に縛られていた少女が、自ら。
自ら。
「……自殺」
その単語に親しみがあるのは、とある同僚のせいだ。
顔を上げる。姿を探す。ない、どこにもいない。
「太宰は」
「クリスちゃんを探しに外へ出てますけど……」
谷崎が戸惑ったように答える。探しに、か。あの心中志望馬鹿が、自殺を試みているかもしれない女性を、正義感から。
あり得ない。
「くそッ」
ケータイを取り出しすぐさま電話をかける。しばらくの呼び出し音の後、聞こえてきたのは機械じみた女性の声だった。
『お掛けになった電話番号は……』
「くそッ!」
太宰と電話が繋がらないのは珍しいことではない。水中で電波が届きにくい時もあるし、ケータイそのものが壊れている時もある。なのに今、奴と話ができないことが何よりも恐ろしい。
――彼女は君の理想だけではなく私の思考も、この世界そのものも壊すからね。対処の方法がないというのなら、消えてもらわなくちゃ。
二日前の給湯室での会話が国木田を急き立てるように耳から離れない。
「国木田さん!」
どこかに電話をかけていたナオミが叫ぶように国木田の名を呼ぶ。
「外線お願いします! 乱歩さんです!」
飛びつくように受話器を取り上げる。雑音の中から、あの明瞭で奔放な声が聞こえてくる。
『やあ、国木田』
状況を知っているだろうに普段と何ら変わりない声音。安心してしまったのは、それほど自分が焦っていたからか。
「……乱歩さん」
『話は聞いた。出先で饅頭を買おうとしていたんだけどね。餡子がたくさん入ってるできたてのやつ』
「申し訳ありません」
『買う前だったから良いよ、買った後だったらそっちのことは後回しにしてたけど。――今回のこれは誰も悪くない。強いて言うならお前と話をしようとしないクリスのせいだな』
「は……?」
『あ、おばちゃん、饅頭一つ。できたてちょうだい。――自分の問題を他人に相談できない無能ほど面倒な奴はいないね。足りない頭だけで考えた挙句、最悪の結末ばかりに思い至って口がさらに重くなる。世界は案外、そこまで考えてもいない無知の集まりだっていうのにさ。劇的な結末なんてそうそうありゃしない、現実ってのはとことん平坦で変わり映えのないものだよ』
乱歩の話は誰へ向けたものだろうか。
『後で叱ってやると良い。お前の意見を聞けば彼女も気付くだろう』
「後で、ということは……」
『クリスが今いる場所なら検討がついてる』
息を呑む。体が硬直する。無言を返した国木田に、受話器の向こうの名探偵は淡々と告げた。
『彼女は死なない。――行って、引きずり上げてやれ』