第2幕
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[Act 2, Scene 8]
ポートマフィアに攫われた敦を鏡花共々救い出した後日。探偵社は通常営業を再開し、滞っていた業務に全社員が追われていた。
敦は賢治と共に「走行中の車が謎の爆発をする」という市警からの依頼を受けて出ている。賢治のやり方は独特だ。敦に正しい調査方法を教え直さなくてはいけない。
いつも通りパソコンに向かいながら、国木田は今夜の仕事の為の情報を整理していた。政府関係者から護衛任務が来ているのだ。
「国木田さん、今夜の会場の見取り図です」
谷崎が一枚の紙を手渡してきた。彼もまた、今夜の護衛任務に当たる。
「ああ、助かる」
「えっと、政治家の方に脅迫状が届いたんでしたっけ?」
「ああ。殺害予告がな。しかし政府官僚のパーティだ、官僚付きのボディガードもいる上、会場は海外の役人も使う高級ホテル。セキュリティは万全だ、外部の人間が潜入する線は薄い。内部の人間を装ってくるだろう。その不審者を見つけ出すことが俺達の仕事となる」
カタカタとキーボードを叩く。画面にはパーティの予定が表示されている。警護を行う上で重要なのは、パーティの流れを把握し警護対象の動きを予見し行動することだ。
会場時間は午後五時。パーティ開始は午後六時。
「四時半から依頼人と打ち合わせだ。四時に出るぞ」
「了解です」
谷崎が頷く。警護任務は初めてではない。滞りなく終わるだろう。
ふと、国木田の携帯電話が着信を告げる。それは賢治の並外れた調査方法についていけなくなった敦からの電話だった。
***
為政者によるパーティというものは、自らの権力を誇示し、周囲との信頼を確かめ、他者の動向を探るためのものである。故にいかにミスなく己を大きく見せられるかが鍵となる。互いに腹の探り合いをしている中、背後に護衛を配置するなど以ての外だ。
そのため依頼人の近くにいることができない国木田と谷崎は、ある程度の距離を取って依頼人周辺の様子を伺うこととなった。
今回の任務の依頼人はさる政治家だった。「出馬をやめろ、さもなくば命はない」という脅迫を受けており、しかし世間体から市警への連絡はせず探偵社へパーティ中の護衛を依頼してきたのだという。出馬を考えている政治家が脅迫を受けて怯えている、という話を表に出すのは名声に関わるから嫌なのだと言ってきた。こちらとしては正式に市警へ相談して欲しいのだが、そう上手く行かないのが世間というものである。
『こちら異常ありません』
片耳に装着した通信機から谷崎の定期連絡が入る。
『依頼人の周囲は顔の知れた政治家で囲まれてます。不審な人物の姿はありません』
「了解。こちらも異常はない。引き続き警戒を頼む」
『了解』
今のところ問題はない。このパーティで誰かが何かをしてくるという根拠があるわけでもなく、むしろ何も起こらないような気もしてくる。が、それでも任務であるならば遂行する、それが国木田の信念であり武装探偵社社員のやるべきことだ。
ふと、会場のスピーカーが男性の声を発する。何かが始まるようだ。
『――さて、本日はスペシャルゲストをお呼びしております』
司会者の手振りに従い、舞台の端から人が現れる。裾から僅かに覗いた高いヒールが、カツ、と音を立てた。上品な薄桃のドレスを身にまとったその人は、人々の視線を集めながらステージの中央へ向かう。
『突如このヨコハマに現れた天からの贈り物、夜空に輝く星々に劣らぬ瞳は我々を魅了し、その声で奏でる歌は魂をも酔わせる、劇団太陽座が誇る奇跡の女優!』
ライトに照らされ、その姿が人々の目に焼き付く。
国木田は自分の目を疑った。依頼人の周辺を警戒し続けなければいけないのはわかっている。しかし、どうしてか目が離せない。
『神をも堕とす傾国の美女、リア!』
伏せ気味の妖艶な目元に青が灯る。影を落としたまつ毛が切なげに震え、紅を引いた唇は無感情に閉じられていた。普段目にするよりも艶やかな亜麻色は花飾りで束ねられ、うなじを露わにしている。
「……クリス?」
わかっている。
知っている。
しかし本当に目の前に立っているあの女性が、見知ったあの、笑顔の多い陽気な少女だというのか。
会場が吐息に包まれる。誰もが彼女に魅入っていた。それもそのはずだ、ステージに立つ彼女は、まさしく美女なのだから。
司会者がパフォーマンスの始まりを告げる。と同時に、細かな粒をこぼすようにピアノが静かな旋律を奏で始める。悲しみに似た優しい和音が響く中、憂いのある表情で会場をゆっくりと見渡し、やがて彼女はそっと声を漏らした。
――Alas, my love, you do me wrong
(ああ、愛しい人、あなたはひどい人ね)
To cast me off discourteously
(わたしを置いて遠くへ行ってしまった)
For I have loved you well and long
(わたしはあなたとずっと一緒にいたかった)
Delighting in your company.
(あなたとの日々が何よりも幸せだったのに)
それは異国の歌だった。寂しげにも悲しげにも聞こえる声は美しい響きとなって会場を包み込む。清流を思われる涼やかな静寂。余韻は木霊し、誰一人物音を立てない――否、立てられないのだ。
皆身動きの仕方を忘れたかのように彼女に魅入っているのだから。
まるで異能力だ。心を奪い、動きを奪い、視線を奪い、やがては魂までをも奪うのだろう。しかしこれはただの技術なのだと彼女は言った。只人の身でこれほどまでの能力を得るということの異常さを、国木田は乱歩を通して知っている。
そうだ、これは彼女の才。聴く者全てを虜にする、魅惑の歌声。胸の奥底に秘めた思いや記憶を掻き出す、秘匿を許さない響き。
――For I am still thy lover true
(わたしはそれでもあなたが愛おしいの)
Come once again and love me.
(お願い、わたしの隣でもう一度、わたしを愛して)
それが途切れた時でさえ、人々は歌が終わった事に気が付かない。
余韻が消え、誰かが身じろぎし、ため息が漏れた後、拍手と歓声が会場に突如湧き上がった。
拍手喝采の中、国木田は彼女を見上げていた。目が逸らせない。ドレスをつまみ腰を下げて拍手を受け入れる彼女の姿を見てさえ、国木田は瞬きすらできなかった。
この感情を何と呼ぶ。
この感覚を何と呼ぶ。
なぜこれほどにも、心がざわつく。
『国木田さん』
耳元に谷崎の音声が入る。聴覚がそれを捉えたと同時に、国木田の五感は働きを取り戻した。慌てて依頼人の姿を探す。
いた。変わらない立ち位置で、ステージに拍手を送っている。
「どうした」
『まだ完全に近付いてはいませんが、依頼人の後方に会場スタッフがいます。ワインを配っているんですが……さっきまで見なかった顔です』
国木田も鋭くそちらを見る。ホテルスタッフの顔も把握しているが、確かに後方に控えている男性は見覚えがない。
「谷崎、依頼人の元へ近付け。俺はあのスタッフの方へ行く」
『異能力はどうしますか』
「まだ良い。相手の出方がわからん、まずは依頼人の身の安全が先だ」
『了解です』
谷崎が動き出したのが視界に映る。会場は感動でざわめいているところだった。未だ誰もその場を動こうとはしていない。が、この後挨拶回りが再開されるのは明白、その時が暗殺者にとって依頼人を襲うチャンスになる。クリスのおかげで時間に余裕はあるようだ。急ぎ移動すれば、その男が行動を起こしたとしても十分に対処できる。
目標の男性スタッフは周囲を見渡しながらワイングラスを運んでいる。時々求めてきた客にグラスを渡すだけで、不自然な動きはない。
「あ、そこの君!」
依頼人が声を出す。あろうことか、国木田が狙いを定めていたスタッフに声をかけたのだ。無警戒なまま歩み寄る依頼人はワインをご所望らしい。
まずい、と国木田は半ば駆けるように人と人の間を縫う。谷崎もまた、急いで依頼人の元へ向かっている。
「そのワインをくれんかね?」
「ええ、どうぞ」
持っていた最後のグラスを依頼人に渡し――そして、そのスタッフは動いた。
そのポケットから折り畳みナイフが現れたのを見、国木田は鋭く叫んだ。
「谷崎!」
人を押し退けながら国木田は犯人へと手を伸ばした。彼は国木田に気付かずナイフを構えて依頼人に襲いかかる。しかし谷崎の方が早かった。瞬時に依頼人の姿が消えたのだ。
「な……!」
戸惑う男の腕を掴み上げ、国木田は抵抗させる間もなく男を投げ倒す。ドッと床に背を打ち付けた男に、会場はどよめいた。
突然始まり突然終わりを告げた波乱に、人々は上げることのできなかった悲鳴を喉の奥に押し込める。
「国木田さん」
ふ、と異能を解除して谷崎が声をかけてくる。異能力【細雪】で姿を隠されて窮地を脱した依頼人はというと、無言で犯人を見下ろしていた。
やがて騒ぎに気付いたホテルスタッフが駆け付けてくる。
「何事ですか!」
「暗殺未遂だ。市警を呼べ」
国木田の簡潔な答えと男が一人倒れ込んでいる現状に身を震わせ、スタッフは慌てて通信機で連絡を取り合う。
「あ、暗殺?」
周りでざわめいていた人々の中から、声が上がる。
「ま、まさか、先生が、暗殺されかけたなんて……!」
その一言をきっかけに、会場は憶測を交わす声で満ちた。
「きっと恨みだ、先生に選挙で負けた奴の恨みだ」
「先生は今度の選挙に出馬なさる予定だったわ、きっと他の立候補者の仕業よ」
「先生に暗殺なんて誰が! 汚ねえ手を使いやがって!」
ざわざわと騒がしくなった会場で、谷崎がそっと耳打ちしてくる。
「な、なんだか暴動でも起きそうな雰囲気ですね……」
「公表していなかったからな、寝耳に水だろう」
ちら、と依頼人を見てみれば、周囲の気遣いに答えつつ、額の脂汗を拭いている。やがて彼に司会者が声をかけた。一言二言交わし、一つ頷いた後、依頼人は壇上へと向かう。
『えー、皆様』
マイクを手に動揺を隠し切れない様子で話し出した依頼人に、会場中の視線が集まる。
『お騒がせいたしました。この通り、私は頭の禿げ具合以外はいたって元気です』
ドッと笑いが起こる。
『そしてお察しの通り、私は先日から殺害予告を受けておりました。しかし! 私はこの程度では屈しません! この国の未来のため、この街の未来のため、命を賭して頑張らせていただきたく思っております!』
ワアッと拍手が起こる。
まるで演説だ。会場全てが依頼人の味方となり、拍手を送り、歓声を上げている。
くそ、と国木田は顔をしかめた。
「……してやられたな」
妙だったのだ。犯人のこの男はど素人だった。折り畳みナイフごときで人を確実に殺せるとは思えなかった。それに、あれほどまで頑なに公表を避けていた依頼人がここぞとばかりに演説を繰り広げている。
今度の選挙では優位に立つだろう。
「策略ってやつなんですかね……」
「探偵社としては依頼を着実にこなしただけだ、不利益はない。が……気に食わんな」
まんまと利用された。国木田の胸に不快感が溜まる。探偵社はこのような使われ方をされる場所ではない。しかしこの雰囲気の中反論しても誰も信じてくれないだろう。誰も死ななかっただけでも良しとすべきなのか。
「……後で乱歩さんに協力してもらいます? 足場崩し」
「それも悪くない」
谷崎の冗談なのか本気なのかわからない提案に同程度の曖昧さで返し、国木田は眼鏡に手をかけて嘆息した。
その時。
――ブツン!
会場が一気に暗くなる。停電だ。タイミングの良さに会場全体が「今度は何だ」とざわめく。
国木田は足元で倒れ込んだままの男へ目を移した。犯人は気を失ったままだ。動きはない。けれど、と国木田は谷崎と目で合図し合い、腰に下げた拳銃へと手を添える。
国木田と谷崎が警戒する中、停電は回復した。一時的なものだったのか、非常時用の発電機能が作動したのか。しかし見る限り異変はない。
「ただの停電ですかね……?」
谷崎が警戒を解きつつ周囲を見渡す。
違う、と言い切りたい。しかし根拠がない。
国木田もまた、素早く周囲を見回した。ここは海外の要人も使用するホテルだ。停電はセキュリティの動作停止を意味する。停電したとしても一秒も待たずに回復していたはずだ。
では何故だ。なぜすぐに回復しなかった。この違和感は何だ。
何か変化は、と探す国木田の脳裏に、ふと光景が蘇る。
――伏せた青の目、呟くように奏でられた歌声、艶やかな肌の色。
「それか!」
駆け出した国木田に谷崎が慌てる。彼に犯人を見張っておくよう怒鳴りながら、国木田は会場を飛び出した。会場の近くには控え室用の部屋が並んでいる。その中の一つに目的の名を見つけ、国木田は焦りを抑えて扉をノックした。
返事はない。扉を強引に開けたい気持ちを抑え、近くにいた警備員に鍵を持ってきてもらった。切羽詰まった国木田と対照的に、警備員は返事がないことを再度確認してからのんびりと鍵を開ける。
「クリス!」
飛び込んだ国木田が見たものは――明らかに準備の途中と見られる、小物が部屋に散らかった状態の、人気のない部屋だった。