第4幕
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***
思考という動作が億劫で仕方がなかった。ぼんやりと手元を見つめる。全ての指先を隠すように包帯が巻かれていたが、なぜそうされているのかは思い出せない。じわりと痛みがあるような、そうでないような、けれどどちらでも構わなかった。
どうでも良い。ただそれだけが、クリスの中にある確かな思いだ。
「そういえば、この前ナオミがポスターを買って来てたんだよ」
ベッドの横で谷崎がいくつ目かの話題を持ちかける。兄の背中にしがみつきながらナオミが「そうなんですの」と同意した。
「太陽座の新作のポスターですわ。有名な絵描きさんが描いたものだったから人気が高くて、手に入るかどうかそわそわしていたんですの。朝早くから並んでぎりぎり買えましたわ」
にこりと上品にナオミが笑う。その笑みから逃げるように、顔を背けた。
演劇。つい最近まで、何よりも大切にしてきた夢。安全だったギルドを抜け、世界を転々としてでも続けようとしてきた夢。それすらも今や空虚で無意味なものに過ぎない。何のためにしてきたのだろうという疑問がクリスを嘲笑ってくる。
無論、ウィリアムのためだった。殺めてしまったあの人との数少ない優しい思い出、そしてせめてもの懺悔だった。けれどその思いすら操られていたもの。
自分が今まで選んできたことは、どこまでが自分の意思で、どこからが脚本だったのだろう。
「……クリスちゃん」
谷崎が小さな声で呼んでくる。その声に答える気力もなく、クリスは俯いた。じとりとした沈黙が医務室にこもる。
不思議なことに二人への罪悪感は一切なかった。そういった感覚全てがクリスの中から消えていた。恐怖も悪寒も、歓喜も焦燥も、今のクリスにはない。ただ鬱屈とした無が、心を占めている。
その空っぽの体にころんと響いてきたのは、明るくもどこか意味深な声だった。
「クリスちゃん」
顔を微かに上げ、視線を向ける。医務室の中に入ってきたのは太宰だった。目覚めてから顔を合わせるのはこれが初めてだ。その笑みは以前と変わらず、何かを楽しんでいるかのようにクリスを見つめている。
「やあ」
「あれ、太宰さん。どうしたんですか?」
「谷崎君にお客さんが来たから知らせておこうと思ってね。市警の宮島さん」
「ああ、もうそんな時間ですか」
谷崎が慌てて立ち上がる。ちら、とこちらを見た谷崎へ太宰が「私が見ているよ」と声をかけた。
「与謝野先生はうずまきで休んでるみたいだし、お客さんを待たせるわけにもいかないだろう?」
「太宰さんはお仕事の方大丈夫なんですか?」
「問題ないよ。何せ私だからね」
その言葉に何かを察したのか「はは……」と谷崎は苦笑を漏らした。そして太宰へ一礼し、ナオミと共に医務室を出て行く。パタン、と扉が閉まったのを見、改めて太宰はクリスへと向き直った。
「久し振りだね」
にこりと笑うその顔から視線を落とす。
太宰の目が、以前から苦手だった。全てを見透かされてしまう。それに救われたこともあるけれど、あらゆることを隠し通して生きてきたクリスにとって太宰の洞察力は恐ろしいものだった。金属の刃が皮膚へと食い込みブチブチと血管や繊維を引きちぎっていくような、裂いた腹から引きずり出された中身を握らされるような、おぞましいほどの不快感。
「まだ、話せないようだね」
詳細の不鮮明な問いかけに、黙り込む。そんなクリスに太宰は静かに目を細めた。
「――国木田君とは全く会っていないみたいだけれど」
突然聞こえてきた名前にびくりと肩が揺れる。隠しきれなかった動揺に短い呼吸を数度繰り返してから、息苦しい胸をさらに圧するように膝を抱えて顔を伏せた。体を縮こめる。ぐ、と強く腕を掴めば、ようやく痛みが肌をピリピリと走った。
「……君が国木田君を拒んでいるのは、彼すらも君の物語に組み込まれた傀儡の一つだと思っているからかい?」
沈黙を返す。それだけでこちらの考えが伝わるだろうことはわかっていた。
クリスはとある「物語」の主人公だ。世界を破壊する異能兵器、それを約束されていた少女。それを回避するためにウィリアムはクリスの意思や夢や行動を制限し、破壊ではない終焉へと導こうとしている。国木田の存在もまた、ウィリアムが工作した駒の一つであることは確かだ。
――必ず帰って来い。
彼がいたから、クリスは手記を手にし、その内容を読んだ。彼がいなかったらクリスはドストエフスキーの元へ行き間違った結末に辿り着いていただろう。
彼に抱いた思いも、彼が抱いた思いも、全て紛い物、「脚本通り」だ。そんなことを知りたくもなかったし知られたくもない。縋るもの全てを失った状態で、国木田から拒まれたら――そう思うと全てがどうでも良くて、全てが停滞したまま無価値な時間が淡々と過ぎて行けば良いと願いたくなる。
もう何も失いたくない。他の何も叶わないというのなら、せめて失わないまま全てが無に還ってしまえば良い。
「ねえ、クリスちゃん」
太宰が優しい声音で呼んでくる。
「一つ提案があるのだけれど」
ぴくりともしないクリスへ、太宰は気にする様子もなく続けた。
「――私と心中する気はないかい?」
音の一切が聞こえなくなる錯覚。膝からゆっくりと顔を上げ、クリスは目の前に立つ知人を見つめた。男は微笑みを浮かべたままベッドの脇に立っている。す、とその腕が動き、クリスへと差し伸べられる。
「以前、病室に来てくれた君に同じ事を言っただろう? あれの続きだ。――今の君はこれ以上なく美しい。儚く咲く花のようでいて、けれど朽ちかけた死骸のように虚ろで無機質だ。生と死の両方を内包している。そういうものを、私は放ってはおけないのだよ」
手が差し伸べられている。手首から先が包帯で隠された、手だ。
どこかへと誘おうとしている、手だ。
――求め続け、焦がれ続け、許されないからと諦めてきたあの先へと導いてくれる、手。
ざわりと何かが湧き上がった。
身を乗り出す。迷わずその手のひらに包帯を巻かれた指を乗せ、掴む。悪寒すら感じない朦朧とした思考のまま、光の差さない眼差しを見返す。
「おねがい」
かすむ声で叫ぶ。
「ここじゃないどこかへ、つれていって……!」
太宰が手を優しく掴んでくる。前は疎ましくて恐ろしかったその行為が、何もなくなった心に何かを満たしてくれるような安堵を与えてくれる。
「仰せのままに、姫君」
太宰が微笑む。薄く、暗く、喜ばしげに、口角を上げて闇色の目を細める。