第4幕
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[Act 4, Scene 2]
廊下に出、与謝野は大きく息を吐き出した。肺の中の澱んだ空気を全て押し出すように、長く長く息を吐く。昨日まで雨に濡れていた空気はじとりと湿気っていた。気分まで落ち込んでしまいそうだ。
クリスが目覚めてから三日が経った。ぼんやりと目を開けていた彼女に安堵したのは束の間で、与謝野がいくら名を呼んでも彼女は返事をしなかった。記憶が失われたのかと焦ったがそんなことはなく、身体感覚に問題もないことがわかっている。けれど静かに瞬きを繰り返しながら宙を見つめ続けている彼女が異常であることは、社員の誰が見てもわかった。
思い返せば、クリスは常に笑っていた。何を考え企んでいる時も、彼女は笑っていた。笑顔で本心を隠しているとわかっていたものの、彼女の完璧な笑顔から笑顔以外の感情を見出すことは与謝野にはできなかった。
彼女はそういう子だった。誰にも本心を見せず、その裏で犯罪紛いのことを繰り返して自分の身を守るための情報を集め、常に気を張っている。いつかその張り詰めすぎた糸がふつりと切れてしまうのではないかと思ってはいた。けれどその糸が切れると同時に彼女の心をも壊れてしまうなど、誰が予想していただろうか。
額に手をやり、再びため息をつく。ふと、廊下を歩いてくる足音に気が付いた。医務室周辺では滅多に見ることのない姿に、与謝野は思わず声を上げる。
「……社長」
気難しそうな面持ちの福沢が、与謝野の前で立ち止まる。ちらとその視線が見遣ったのは無論、医務室の扉だ。
「容態は」
「体の方は大丈夫だ。けど、心の方がまだ駄目でね。今谷崎達に見てもらっているけど、一瞬でも目を離したら何をするかわからない。妾も気を張りすぎて疲れちまったよ」
そうか、と社の長は呟いた。福沢自らが医務室に出向いてくるのは珍しい。それも、彼が今その容態を案じているのは社員でもない少女だ。
社長という立場の人間が足を運ぶにしては違和感のある状況。それは一重に、福沢にとっても彼女に関わりと恩があるからなのだろう。クリスはもはやこの武装探偵社と浅からぬ関係となっている。
なのに。
「……何も話そうとしないのさ」
与謝野の呟きに福沢は静かに続きを待つ。医務室の扉へと顎を指しつつ、与謝野は眉を潜めた。
「まるで人形だよ。笑わないし答えない。頷いたり首を振ったりはするけど、それだけだ。……昔の妾みたいでどうにも落ち着かないよ」
昔の、というのは十年程前の話だ。戦中の出来事により幼い与謝野は生気のない人形のように自失状態となっていた。記憶も抜けている。乱歩と福沢に救われていなかったら、いつか自分の舌を噛み切っていたのではないかとさえ思う。
あの時の与謝野には探偵社があった。乱歩がいて、福沢がいた。けれど今のクリスには誰が何をできるのだろう。何かしなければいけないとは思うのだが、具体的に何をすれば彼女に笑顔を取り戻させられるのか、皆目見当がつかない。そもそも彼女がなぜ感情の一切を失ってしまったのかがわかっていないのだ。
何ができるかと考えた時に一番に思い至るのは、彼女と最も親しい同僚なのだが。
「……国木田はまだ帰ってきてないのかい?」
「重要な会議だ、すぐには終わるまい」
「まあ、帰ってきたところでクリスが国木田と顔を合わせようとしてくれるかどうか……」
最後まで言わず与謝野は頭を軽く振る。そして何事もなかったかのように顔を上げて福沢へと微笑んだ。
「クリスの顔を見ていくかい? 妾はちょいとうずまきに寄ってくるよ」
福沢は静かに首を横に振った。顔を合わせたところで、口数の少ない福沢と何も話さないクリスでは沈黙ばかりが時間を埋めるだろう。いつものクリスなら気を利かせて福沢と会話をしただろうが、今の彼女にはそれができない。
「じゃあ妾に付き合ってくれるかい? 一人で休むのはどうにもね」
与謝野の申し出に福沢はしばし思考した後「……奢ろう」と頷いた。他の社員は通常通り仕事をこなしているので、与謝野はつきっきりで医務室にこもっている。今の谷崎達のように仕事の合間を縫って顔を出してもらわなければ、与謝野はなかなか休憩が取れなかった。それを配慮してのことだろう。「さすが社長」と笑いかければ、その強面が僅かに緩む。奢りならば珈琲以外に腹の足しになるものを食べて来よう。そう思いつつ、与謝野は福沢と共に廊下を歩き出した。