第4幕
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廊下を歩く。その間も、雨は上空から勢いよく落ちてきては地へとぶつかり爆ぜて跡形もなく散っている。パタパタ、という途方もない数の水滴が探偵社全体を覆い、音が空気を伝播してまとわりついてくる。
目的の部屋に辿り着き、呼吸を一度挟んでから扉へと手をかけた。ガチャ、と扉が開く。部屋の内側から廊下へと光が漏れ出す。
足を踏み入れた先で与謝野が疲れ切った顔を向けてきた。何も言わず、一方向へと顎で指し示す。沈黙の中で、国木田はそちらへと向かう。一つ分のベッドを覆い隠す薄い白カーテンを掴み、静かに引き上げた。
病室に似つかわしい簡素なベッドの上で、少女が横たわっていた。そばには点滴台が控え、微動だにしない少女を見下ろしている。そこから伸びた管は彼女の腕へと繋がっていた。赤黒い斑点が白い肌を染めている。その生々しさに安心してしまったのは、その箇所以外が美しいとも言い難いほどに人形然としていたからだ。
胴に沿うように置かれた両腕。脱力し半端に開いた手の指には包帯が巻かれている。胸元は注視しなければわからないほどに上下が少ない。枕元に広がる亜麻色の髪は作画のように絶妙に散り、その髪質を飾り立てている。赤みのない頬は硬質さを思わせ、閉じられた瞼に沿うまつげもまた作り物めいて見えた。
等身大の人形だと言われれば納得してしまいそうだった。人間だと言われたならば目を疑っていただろう。記憶にあるような何かを隠す微笑みも、希う眼差しも、寂しさをにじませた朗らかな声音も、この姿からは想像できない。
これは彼女ではない、そう言ってしまいそうになる。
「……ッ」
唇を噛む。そうでなくては何かを口走ってしまいそうだった。
彼女を救いたいと願ってきた。彼女に平穏を届けたいと思ってきた。彼女を一般市民の一人として守り、それ以上として庇い続けたいと。彼女はそれに応えてくれた。殺し以外の道を知り、排除以外のやり方を選ぶようになり、普通というものに焦がれていることを口に出し――少しずつ前に進み始めていた。
そんな彼女が、普通を「馬鹿げたもの」だと評し、いっそ生まれてこなければと嘆いた。
これは、国木田が望んだ理想だろうか。否、違う。これは理想ではない。
――わたしがあなたの理想になる。
そう言ってくれた彼女が、国木田の理想とは真逆の絶望を抱いたまま、ことんと手の中からこぼれ落ちてしまった。彼女が国木田の理想そのものだとしたならば、国木田は理想とはほど遠いこの少女をどうすれば良い。
理想を実現するために、理想通りではないものを退ける。理想を叶えるとはそういうことだ。ならば、今自分がすべきは――何をしてでも、彼女を理想の状態へと引きずり上げること。
彼女を傷付けてでも、血まみれにさせてでも、苦しませてでも。
目の前で眠り続ける人形を見つめる。その動かない瞼に、その下に隠されているであろう眼差しに、目を伏せる。
「……すまない」
届かない謝罪を呟き、国木田は彼女から目を移した。ベッドの横、小さなテーブルの上に置かれた彼女の所持品だ。黒外套や衣服が積まれたその一番上に、濡れそぼったウエストポーチが半乾きの状態のまま置かれている。それへと歩み寄り、手を伸ばした。
『油断していました。あなたなら、わたしを陥れないと……根拠もないのに、そう思っていました』
四日前、そう言って彼女は悲しげに笑っていた。
『そう、ですよね。裏切らない人なんて、どこにもいないんですよね』
胸に強い痛みが突き刺さっている。
クリスは己に踏み込まれることを嫌う。孤独にしがみつき、孤独を当然としている。それを国木田も知っていて、今までは踏み込まずにいた。だからこそ築けた関係性がある。だからこそあの時の彼女は失望し国木田に刃を向けてきた。再びその孤独に踏み込んだなら、彼女は再びあの虚勢じみた笑みを浮かべて声を震わせるのだろう。また、泣きそうな顔で殺意を向けてくるのだろう。
それでも。
それでも、俺は。
「……あなたを傷つけてでも、絶望させてでも、引き留めねばならんのだ」
ポーチを開ける。以前は海外行きの搭乗券が入っていた場所へ、手を差し入れる。やはり見知らぬものがそこに入っていた。掴み、引き出す。
茶色のカバーの小さなノートだった。見たところ名前は書かれていない。中身をぱらりと開けば、癖のない英字が延々と綴られているのが確認できた。これが何かはわからない。しかし、四日前にはなかったものだ。ならば昨日の彼女に無縁であるとは考え難い。これが彼女が隠したがっていた彼女の秘密そのものだと見るのが妥当だろう。
おそらくは、これに触れてはいけないのだ。クリスとは程良い距離を保ったまま、見知らぬふりをしておくべきなのだ。
けれどそれでは、国木田の理想は叶えられない。
これはクリスのためではない、己のための選択だ。他者が傷付くを無視する傲慢だ。
しばらくノートを見つめた後、国木田は胸元にそれをしまい込んだ。そのまま背を向け、音を立てずにカーテンを捲る。少し躊躇い、しかし結局振り返らないまま、カーテンの外へと足を踏み出した。