第4幕
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[Act 4, Scene 1]
雨が窓に打ち付けてはしたたり落ちていく。ガラスを伝う雨粒が身を削りながら痕跡を残していき、やがて窓枠へと吸い込まれていった。その涙痕を見つめる自分の表情もまた、窓に映り込んでいる。左右が反転したその姿は毎朝鏡越しに見るものと同じで、けれどどこかが違っていた。目元、口元、そういった細かな箇所に覇気のなさを見る。
雨のせいだろうか。そうであれば良いと思う自分がどこかにいる。
「……雨、止みませんね。国木田さん」
隣に来た敦が躊躇いながら声をかけてくる。
「昨日から、ずっと……」
「……そうだな」
中身のない返事を返す。自分の声がどこまでも虚しく聞こえた。事実、そうだ。後輩の言葉にこの程度しか返せない。気遣わせてしまっているのは確かだ。
何かを切り替える合図のように咳払いをする。くるりと窓に背を向け、自分の席へと戻る。やるべきことはまだ残っていた。今日の仕事の報告書も書かなくてはいけないし、明日参加する会議の資料の最終チェックも残っている。谷崎に頼んだ件について、先輩社員として話を聞くことにもなっている。
やるべきことはまだ残っていた。だから、立ち止まっている時間などない。
「鏡花、警備計画の資料はできたか」
「できた」
隣の席でパソコンに向き合っていた鏡花が淡々と返してくる。その画面を見、マウスを借りて全体をチェック、一つ頷いた。
「大丈夫そうだな。データを送ってくれ」
無言で頷き、鏡花はキーボードへと目を落とす。ポートマフィアにいた頃はこういった机上の仕事などしたことがなかったのだろう、タイピングは問題ないものの一般的なパソコンソフトの使い方はさっぱり知らないようだった。が、敦の指導もあって今では簡単な書類なら作れるようになっている。むしろ敦よりも覚えが早い。稀に誤字があるが、この仕事を続けていけば正しい表記の仕方を覚えていけるだろう。
「国木田さん」
賢治が後ろから声をかけてくる。ぎ、と背もたれに背を預けつつそちらを見、賢治が手にしていた資料へと目を落とした。
「昨日の偽造事件なんですけど、この報告書の写しってうちにありましたっけ? 書庫を探しても見つからなくて」
「だとしたら軍警から取り寄せる必要があるか……いや、もしかしたら倉庫の方にあるかもしれん、事務員に聞いてみろ」
「そうですね、聞いてみます」
賢治がいつも通りの明るい表情で頷いた。と、外から戻ってきた谷崎が「ただ今戻りました」と入ってくる。その細い肩は軽く濡れ、髪先にも小さな雫を乗せていた。
「お帰りなさいませ、お兄様」
ナオミがタオルを差し出しながら兄を出迎える。それを受け取りつつ、谷崎は妹に「ただいま」と笑顔を返した。
「凄い雨だよ。全然止みそうにない。ちょっと外に出ただけで風邪を引きそうだ」
「あら、だったらお兄様の看病はナオミにお任せくださいな?」
谷崎の言葉に、すかさずナオミがニコニコと谷崎に体をすり寄せる。谷崎もまんざらではない様子で「やめなよ……」と苦笑した。この二人は相変わらずいつも通りだ。見ていて安心すらしてくる。
兄妹の見慣れたスキンシップを一瞥し、国木田は手元のパソコンへと意識を戻した。鏡花からデータが送られてきている。そのファイルを開き資料を隅から隅まで見、修正指示を必要とするような間違いがないことを確認した。鏡花にチェックを終えたことを伝えて関連フォルダの中にそのデータをコピーする。
「……あの、国木田さん」
カタ、と斜め向かいの席に座りつつ、敦がそっと呼んでくる。
「……その、僕が言うのも何ですけど……」
「敦、手が空いているなら太宰が喫茶にいるはずだ、連れ戻して来い」
「え? ええ……わかりました」
戸惑ったように敦が頷く。物言いたげに席を立ち、けれど何も言わず国木田の指示に従って喫茶へと向かって行った。
パタン、と部屋の扉が静かに閉まる音が雨音に混じる。
机の隅に置いたマグカップを持ち上げ、残り少なかった珈琲を飲み干した。ぬるくなった黒い液体が口内にへばり付きながら喉を落ちていく。濃い苦みが舌の根に絡みついて離れない。
立ち上がり、給湯室へと向かうことにした。水を一口飲みたい。珈琲も一杯淹れてこようと思った。今日は外が湿っているというのに、どうしてかよく喉が渇く。喉か乾くというよりは、体が苦みを欲しているようだった。鼻に突き抜ける独特の香りが、国木田の思考を仕事に集中させてくれる。あの癖のあるねとりとした香りが手放せなかった。
給湯室には事務員が数名たむろしていた。雨降る天候に似合う重苦しい空気の中で、彼女達はため息混じりの会話をしている。が、国木田の姿を見て申し訳なさそうな様子で持ち場へと散っていく。それが国木田を配慮した行動であることは察しが付いた。
シンクにマグカップを置き、蛇口を捻って水を出す。ドドド、と勢いよくシンクの底を流水が殴る。
――四日前に見た、自宅の台所を思い出す。
そこに立つ一人の少女の姿を。
「……ッ」
キュッと蛇口を閉めた。流水がぴたりと止む。廊下から聞こえてくる雨音が責め立てるように鼓膜を絶え間なく打ち、思考を乱す。
舌打ちをしようとした、その時だった。
「国木田君」
静かな、しかし良く通る声が雨音よりも強く鼓膜を叩く。一瞬でも雑音が消えたことに安堵しつつ、国木田はそちらを見た。給湯室の出入り口で、同僚が悠然と壁に寄りかかっている。
「……太宰」
敦の姿はない。入れ違いか。
「落ち着かないのなら、見に行けば良いじゃない」
全てを見通しているような口調で、太宰は笑った。
「昨日からずっとその調子なんだもの」
「俺はいつも通りだ、何ら変わりない」
「だったら尚更だ」
壁から背を離し、太宰は国木田へと歩み寄ってきた。顔を覗き込むように首を傾げ、その洞察力のある目で国木田の顔色を窺ってくる。
「いつも通りの君なら、合間を見て医務室に通っているだろう?」
「……無駄話をする暇があるのなら朝頼んだ件にそろそろ手をつけろ」
「あれは敦君に任せてある」
「貴様……」
「部下と同僚は使いよう、ってね」
ありもしない言葉をそれっぽく言うが、要は押しつけたということだろう。この男はそういう点において比類ない才を発揮する。相変わらず才能の使い方がおかしい男だ。わかってはいるが、この自由奔放な自殺男が探偵社で一、二を争う頭脳を備えているのがどうにも疑問でならない。
「もう二十六時間だ」
時計など全く気にしないはずのマイペースな同僚は、さらりとその話題を口にする。
「さすがに驚いたな、クリスちゃんが君を巻き込む勢いで自分自身へ異能を発動させた時は。喫茶にいた私が異常に気付いて外を見に行ったからどうにかなったものの……私が止めなかったらどうなっていたことか」
あの時。
――助けて、と。
初めて口にしたかのように掠れた声でそう言った彼女は、初めて国木田に縋りついて大声を上げて泣き、そして。
その声に呼応した鋭利な風が彼女を守るように生じたのだった。
「そういえばあの時間帯に貴様が喫茶にいたことについての尋問がまだだったな」
「その話は良いじゃない、いつものことでしょ?」
「いつもで済まされると思うなよ?」
ぎろりと睨み付ければ、太宰はへにゃりと笑って「だっていつものことだもの」と笑う。なぜこの男が頭脳明晰な人間として生まれ落ちたのか、甚だ疑問だ。
だがしかし、太宰があの場に駆けつけてくれたことは感謝している。でなければ、おそらく国木田も彼女も、与謝野がいるとはいえ無事では済まなかっただろう。太宰に肩を押さえられた後も絶えず泣き叫んでいた姿を思い出し、国木田は眉を潜める。
「クリスちゃんが錯乱していた理由、思い当たった?」
「……昨日話した通りだ。どこかで何かをするらしいことは聞いていたが、詳しくは知らん」
そうだったね、と太宰が呟く。その柳眉が陰った。
「……『生まれてこなければ良かった』、か」
――生まれてこなければ良かった……。
与謝野によって鎮静剤を打たれた後、彼女はそう言って、静かに意識を失った。絶望という言葉が相応しい、望みの全てを打ち砕かれた悲痛な声だった。
「おそらくはクリスちゃんの死んだ友人に関して、何かあったのだろうけれど……」
「だがそいつが死んだのは十年程前のことだろう、今更何があった」
「さあね」
太宰の返答は短く簡潔だ。
「彼女が目覚めない限りは何もわからないよ。……与謝野先生が診ているけれど、あの後一度も目覚めていないらしい。魘されることもなく、昏々と眠ってるって」
目覚める様子はない、と与謝野は今朝国木田に言ってきた。まるで現実という真実から逃避するかのように彼女は眠り続けている。
国木田は彼女の全てを知っているわけではない。知らないことの方が多いだろう。彼女は語らなかったし、国木田も聞き出すようなことはしなかった。聞き出したところで、住む世界も立場も異なる彼女の生き様を把握しきれるわけがなかった。
そうだ、国木田とクリスは何もかもが異なっている。生まれ育った環境も、目の前にした絶望も、願うものも、全てが異なっている。そんな男に何ができるというのだろう。例えば今医務室に行って眠り続ける彼女に会ったとして、それが何の意味を持つのだろう。
何度もそう思い至ってしまって、医務室に顔を出せないでいる。
「……国木田君はさ」
ふと、太宰が呟くように言う。
「誰よりも強いよね」
「……何だ突然。その程度で貴様のサボリを許容する俺ではないぞ」
「あ、やっぱり? 残念。――君は強い。どこまでも突き進んでいけるし、その強い思いは他者をも巻き込んで、引きずって、そうして世界を切り開いていけるほどだ。……前、君に言ったことがあるだろう? どこかに正しい理想の世界が存在する、そう考える人間が理想通りではない現実を憎んで周囲を傷つける、って。理想や正しさを貫けば周囲の人間が傷付くんだって」
聞いたことがある。忘れようもない、二年前。
「でも、今はその強さが必要なんだと私は思うよ」
「……何?」
「理想を実現するために理想通りではないものを退ける――その比類なき強さがね」
太宰の微笑みは薄く、本心が読めない。
「彼女は君の理想を壊す者だ。自らのために他者を虐げ、見境なく傷付け、あらゆる犯罪に手を染めて平穏を掻き乱す。それが彼女だ」
「……彼女は」
「違う、と君は言うんだろう?」
国木田の言葉を先取りし、太宰はその薄い笑みをそっと逸らす。見つめた先は給湯室の向こう――医務室の方向だ。
「そう言えるのは君だけだよ。クリスちゃんは”破壊する者”だ、君の理想、配慮、あらゆる懇願を打ち砕き世界を混沌に陥れる。今までもそうだった。探偵社へ親しみの皮を被って近付き、ギルド戦で私達を裏切って刃を向けてきた。彼女がこの街にいたから彼女を標的にした猟奇連続殺人事件が起きて何人もが死んだ。今回だって、国木田君の忠告を無視した彼女はドストエフスキーに接触、奴と会話している。全て君の理想とは真逆だ」
「太宰」
「今後何があるかはわからない、未来は未知だ。けれど確実に言えることは、”彼女の行動は今後も続く”ということ。彼女は君の手から離れた場所で君を裏切り続ける。彼女の意志じゃない、彼女がそういう存在だからだ。それでも君は彼女を捨てず、彼女は違うと言い切ろうとする。賞賛に値する強さだよ」
「太宰」
低く名を呼べば、ようやく太宰は口を閉ざした。けれどその笑みは消えない。睨み付けても、奴が反省したり申し訳なさそうにすることはなかった。
「私を黙らせたい? 良いとも、大人しく黙るとしよう」
何を言わずとも全てを把握してしまう男が歌うように言い、両手を広げる。
「けれど一つだけ、言わせてくれるかい? 何、君も一度言われたことのある言葉だ」
詩編を唱えているかのような調子で奴は軽やかに背を向けてくる。痩身を隠すように茶色のコートの裾が翻る。
その背が口角をつり上げて笑んだ気がした。
「――『引き留めろ。血まみれにさせてでも、絶望させてでも、息の根を止めてでも』」
ぞくり、と背を這ったのは悪寒と発意だ。
――それができるのはお前だけだ、国木田。なぜかわかるか? そう仕組んだからだ。僕も太宰も、彼女を引き留める糸としてお前を配置した。
乱歩の鋭い目つきが、今も国木田の脳裏に突き刺さっている。
「……それは」
どういう意味か、など問う必要もない。既に太宰の、そして乱歩の意図はわかっている。けれど。
「……怖いかい?」
背を向けたままの太宰の声は柔らかい。相手に是と言わせようとする響きだ、優しさを被った狡猾な策士の声音。
ならば、是と言うわけにはいかない。
ぐ、と喉に力を込める。
「……仮にそうだと言ったのなら、彼女を殺すつもりだろうが」
「勿論。彼女は君の理想だけではなく私の思考も、この世界そのものも壊すからね。対処の方法がないというのなら、消えてもらわなくちゃ」
「それをわかっていて俺がそれを拒むと?」
「いいや、君は成し遂げるだろうね」
笑みを乗せた声は低い。
「死に近付けてでも彼女を理想へと連れて行く、それができるのは、佐々城さんを苦しめた《蒼王》に近い君だけだから」
じゃあね、と太宰は片手をひらりと振って給湯室を出て行った。重苦しい雨の音が再び部屋の空気へと染み込み、じとりと肌に張り付いてくる。
暫く佇んだ後、国木田は自身の胸元へと手を差し入れた。取り出したのは、触り慣れた重さの手帳だ。
表紙へと指を滑らせる。そこに書かれた二文字を声に出さずに読み上げる。
理想。
「……クリス」
――クリスちゃんは”破壊する者”だ、君の理想、配慮、あらゆる懇願を打ち砕き世界を混沌に陥れる。
知っている。けれどそれは彼女の本心ではないことも、知っている。
――わたしは、いつか、”普通”になれますか。
――だれにも、いわないで。
――普通なんていう馬鹿げたものを望まなくて済んだのに! 幸せなんて望まなくて済んだのに!
浮つきながらも切望する声が、続かない息で訴えてくる声が、甲高く宙を裂く声が、次々と国木田を襲う。その声を聞きながら手帳の表紙を開いた。そこには、理想へ至る最短にして最良の道筋が記されている。
『すべきことをすべきだ』
今すべきことは、何だ。
思考する。それはほんの数秒で済んだ。