その物語の始まりは嵐なのだとウィリアムは言っていた。その言葉の通り、嵐は施設だけでなく『村』全体を巻き込み破壊した。
瓦礫の散乱する大地に、雨が降り注いでいる。それは全てを濡らし、溶かそうとでもしているかのようだった。
『〈赤き獣〉との接触により天候操作の異能が再発現、所持者の思考に伴い〈赤き獣〉及び村全体を破壊』
ウィリアムが渡してきた紙に書かれていたことだ。その通りになった。
クリスは絶望し自らの全てだったこの施設そのものを、全否定した。
その結果が、この荒れた大地。瓦礫と共に血肉が散らばる悪夢の光景。
その中で一人だけ、座り込んでいる姿があった。
クリスだ。
「
クリス!」
名を呼び駆け寄る。すると彼女は、魂の抜けた人形のようにぎこちなくこちらを振り返った。血を溶かすように雨を頭から被って濡れそぼった全身に、見たこともないほどの暗い青。
「……ベン」
中身のない人形がそこにある。
止まりかけた足を強引に動かし、俺は彼女へと駆け寄った。言わなければいけないことがある、させなければならないことがある。小さな子供の打ちひしがれた姿を見ただけで全てを放棄することは許されなかった。
「
クリス、あのな」
「……ウィリアムは?」
覇気のない声が、あの名を呼ぶ。
「ウィリアムは、来てくれた?」
その言葉で察した。
彼女は、気づいているのだ。今しがた自らが引き裂いて殺した化け物が何だったのか。わかった上で殺してしまった。それでも認められなくて、俺に別の答えを望んでいる。呆然とからっぽなことを口走りながら、あれはウィリアムではなかったという答えを待っている。
逃避。
そうだろう、逃げ出したいだろう。俺だってこんなこと、したくはない。
雨の味がする唇を噛む。濡れて滑る拳を握り込む。雨音が雑音となって鼓膜をひっきりなしに引っ掻いてくる。
「
クリス、よく聞け」
小さな肩を掴んで、強引にこちらを向かせる。ここからは、あいつの脚本通りにしなくちゃならない。
クリスに一言一句違わず覚えてもらわなくちゃならない。
「それは〈恵み〉じゃない、異能だ。神様からの贈り物でもない。俺達がお前に発現させた。そういう実験だったんだ。ここは英国の実験施設、大戦中からずっとある異能研究施設で、お前はあいつの研究成果だ」
「ねえベン、ウィリアムはどこ? どこにもいないの」
「聞いてくれ。お前には生まれつきその力があった。強大な力だ。誰もがそれを使いたがる。誰もがお前を欲しがり、お前は世界のあらゆる奴らに害される。それから逃げろ。逃げ続けるんだ。お前の中にはあいつの言葉がある。あいつの心がある。わかるな?」
「ねえ答えてよ、ベン。ウィリアムはどこ? どこにいるの?」
クリスはわかりきった答えを求めて何度も俺の言葉を遮る。やめてくれ、と叫びそうになった。
やめてくれ、それを、俺に言わせないでくれ。
「
クリス、聞いてくれ、頼むから」
頼むから。
「答えてよ! ウィリアムはどこ!」
クリスが叫ぶ。悲鳴に似た懇願に、俺も耐えきれなかった。
「――あいつは死んだ!」
叫ぶ。
「たった今、死んだ……!」
吐き出す。
クリスは直接的に叩きつけられた真実に目を見開いたまま凍り付いた。そして、肉片の散らばる床を見、そこにいたのだろう化け物の影を見る。
「嘘、だ」
「嘘じゃない」
「嘘だ」
「嘘じゃない! あいつはお前の異能で死んだ!」
「嘘だあああッ!」
小さな拳が腹を、胸を、めちゃくちゃに殴ってくる。それを止めることもなく、俺は流れるように必要な情報を
クリスへ話した。〈赤き獣〉は作られたものだということ。ここでやっていたのは異能実験だったこと。
クリスが危険な存在で、捕まることも死ぬことも知られることも許されないこと。
そのほとんどはウィリアムが
クリスへ与えたものだ。この
軛があるからこそ、
クリスは孤独を選ぶ。彼女の全身に絡まる鎖のように、彼女を一定の方向へと引きずっていくのだ。
「……にげる、って……何から……?」
「全てだ。この国から、この場所から、あらゆる権力から……お前を害してお前を利用しようとする全てから。いつか、お前の舞台が終わるまで」
――僕はこの大きな舞台で、作品を作ってみたかったんだ。僕の手で、地球の上の物語を作ってみたかったんだ。
ふざけんな、と届かない言葉を胸の中で放つ。どうせ作るなら喜劇にしろよ、どうしてこんなにも苦しくて悲しくて悔しいんだ。俺に少しでも言ってくれたら、俺なら喜劇に変えられたかもしれないのに。
どうして、自分一人で全部を決めちまったんだよ。
「……どうして?」
雨で濡れた顔に涙を混ぜながら、
クリスは呟く。その独り言のような声に、俺は答えた。
「それがお前の幸せだからだ」
「幸せって何……何なの……?」
幸せ。
そんなもの、俺だって知りたい。
「……必要な人に出会い、自分に与えられた真実を知り、それに立ち向かうことだ」
この言葉がどれほど正しいのか、俺だって知りたい。彼女が本当にいつか、幸せになれるのかどうか。彼女を幸せに導く誰かに、彼女が出会えるのかどうか。
「わかんないよ……全然、わかんない……!」
そうだろう、俺もわかっていないんだ。心の中で同意しながら、俺は準備された次の行動へ移ろうとしていた。
『彼女を諜報組織のある方角へ向かわせる前に、君の異能で僕と彼女の異能を半融合させること』
「それでも、覚えていてくれ」
泣きじゃくる
クリスの頭に手のひらを置く。昨日の時点で、ウィリアムは
クリスへあらゆる技術を施した。自分の異能の一部を彼女の脳の異能制御領域に結び付けることもしている。あとはそれへ俺の異能を施して、彼女の制御下で再定義の異能が発動できるようにするだけだった。
――異能力【錬金術師】。
念じた通りに手の中で光が生じる。それは、再定義の異能の光だった。蛍を思わせる綿毛のようなそれは、ふわりと
クリスへ降り注ぎ、寄り添う。
「あいつの心は、言葉は、ずっとお前の中にある」
今もここに、俺の異能がお前達を結び付けている。
だから。
だからどうか。
幸せになってくれ。
そんな気持ちを言えないまま、俺は光に見入っている
クリスへ笑いかけた。
「……あいつから伝言だ。お前の異能、【テンペスト】って呼んでやってくれ」
『彼女の異能の名前は【テンペスト】だ。僕の最後の作品の名前、そして』
「お前のそれはな、舞台の始まりを告げる異能なんだよ」
そうだ。舞台は既に始まっている。ウィリアムが書いた脚本の通りに、物語はあるべき道筋を辿り彼女を導く。
正しい終焉へ。
座り込んだまま動けないでいる
クリスの腕を掴み、引き上げた。強引に立ち上がらせた後、行くべき方向へと背中を押す。諜報組織が根城にしている街に辿り着くには数日はかかるだろうが、途中には民家もある、ウィリアムからの知識もある、何よりウィリアムと俺が彼女に植え付けた強制的な指示がある、死ぬことはないだろう。
「行け、
クリス!」
背中を押された少女が瓦礫につまづきかける。戸惑ったようにこちらを見たその涙と眼差しに、他のことは言えなかった。
「逃げろ! 逃げて、生き続けろ!」
そうしたらいつか、いつかどこかで、お前とお前に仕組まれた運命を理解し助けてくれる誰かにきっと会えるから。
だから、どうか。
「その時まで、死ぬな……!」
幸せになるまで、生きていてくれ。
俺の叫びに気圧されるように、
クリスは走り始めた。村の中でしか走ったことのない貧弱な足が、水を溜めた地を跳ねるように蹴る。ゆっくりと、しかし着実に遠ざかっていくその背中を見送り、俺は雨が降りしきる中佇んでいた。
このまま地面に倒れこんで、うずくまって、叫び出せたのなら、少しは楽になるだろうか。そんなことを思いながら、俺は歩き出す。
クリスが駆けて行った方とは逆、俺が初めてここに来た時に見た、教会の講堂の方向だ。
「……人遣いの荒い奴だな、お前は」
歩きながらポケットから取り出したのは、あの白い球体だ。時間を局所的に操る異能が込められた、小型のカメラ。
「自分はあんだけ泣いたくせに、俺には涙一つこぼす暇もくれねえのかよ」
この場はあらかじめウィリアムの異能によって再定義されている。村一つを覆う空間そのものを一つの異空間に再定義しているのだ。仮に
クリスが異能で村以上の広範囲を破壊しようとしても食い止められるようになっていた。蝶一匹が限界だったウィリアムの異能だが、その肉体が無意味なものになるのならば限界などいくらでも超えられる。あの馬鹿はそう考えて、化け物に組み替えられる間際にこの空間を展開したらしい。どこまでも自分を顧みない馬鹿だ。
講堂のあった場所も木っ端微塵になっていた。天井のない床に長椅子が整然と並び、雨に打たれている。その床下を捲り、俺はそこに潜められていた機械の存在を視認した。爆薬の起爆装置だ。今日、
クリスがウィリアムを殺す儀式〈退魔の儀〉の最中、人の減った村を駆け回りあちこちに仕掛けておいた、それらの親玉。これをオンにすればすぐさまこの異空間内全てが爆風に吹き飛び燃え尽きる。時限式ならこんな手間はいらなかったのだが、手持ちじゃこれが限界だった。
その横に小型カメラを設置し、起爆装置のスイッチを入れた。起爆信号を出す直前の起爆装置が時間の流れが遅くなった空間の中で点滅を止める。もう長らく会っていない元同僚に感謝をしつつ、俺は異空間の外を目指した。
村のふちへ近付くにつれ、雨足が弱まっていく。懐から煙草を取り出して一本咥えた。マッチ箱をポケットから取り出し、慣れた手つきで火を灯す。煙草の先に薄く火が灯る。むわりと薄い煙が口から喉を通って体内に侵入してくる。不味かった。
ようやく異空間の境界へと辿り着き、俺は一度背後を見遣った。跡形もなくなった建物を記憶の底から思い出し、目の前の光景に重ねる。
――やあ、よく来たね、ベン。
そう言って出迎えてくれた友人を思い出す。
――物語を変える。
夢を追う少年のような土色の眼差しを思い出す。
――今、時間ある? 一秒くらい。
当然のように笑い合った日々を思い出す。
――死にたくないよ。
泣きながらこぼれた本心を、思い出す。
それら全てを振り切って、俺は一歩を踏み出した。
異空間の外へ。
ふ、と耳元に微かに響いた耳鳴りを確認し、俺はそのまま歩き続けた。振り向くことはしなかった。
クリスと俺が異空間から出たことを認識した小型カメラが機能を停止し、起爆装置がすぐさま村全体に信号を送ったことなんて、見なくてもわかる。
爆音、重なる破壊音、ものが燃える気配。背後から聞こえてくる無風のそれに聴き入りながら、俺は息を吐き出す。後は記憶喪失のふりをして軍に保護されれば良いだけだ。いっそ異能で一部の記憶を時が来るまで封じておこうか。そんなことをぼんやりと考えながら、俺は胸元からそれを取り出した。
チップだ。俺達二人が異空間の外に出た瞬間、小型カメラの停止と同時間にウィリアムの異能によって再定義された、手記。チップの形状になってから数秒後に記憶抽出及び記述の異能も途絶える。つまり、あと数秒の出来事しか手記には記入されない。何か言い残したいが、残念ながら今の俺には格好の良い短い言葉は全く思いつかなかった。
泣き叫ぶタイミングも失った俺は、ただ上空を仰ぎ見ることにした。誰がどれほど苦しもうが気にしない晴天が広がっている。そこへ雲の一つでも与えるように、紫煙が上がっていく。
その細い煙は誰かを弔い導くように上空へ消えていった。
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第4幕