幕間 -Note by a Researcher-
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襟首を掴んだ手に力が入らない。それでも手放す気にはならなくて、俺はウィリアムに掴みかかった体勢のまま動けずにいた。外は夕日が沈みかけ、強いオレンジ色の光が空気も読まずに部屋の中へ突っ込んできている。邪魔だった。二人きりにして欲しかった。一日の終わりが近付いているだなんて、教えて欲しくもない。
「君には手伝って欲しいことがまだある」
そっと沈黙を破るではなく捲るように、ウィリアムは柔らかく優しい声で囁いた。
「一通り、紙に書き出した。明日のこととか、手記の流出先とか、クリスがそれの解除について訊ねてきた時の対応とか。他にも細かい点があるけど、君なら問題なくできると思う」
俺は何も言わず微動だにしなかった。できるはずもなかった。少しでも動けば時がすぐさま進んでしまう気がして、そんなどうしようもなく幼稚な錯覚に陥ってしまうほど混乱していた。
こいつは、死ぬ。明日、あの小さくて何も知らない少女の手で、殺される。
もう、話もできなくなる。笑い合うことも、討論することも、何も。
何も、できなくなる。
唯一の友人が、明日、失われる。
「……一通り覚えたら、紙は燃やして廃棄して欲しい。残ってしまうと後々に響く。できるね?」
諭すような口調でウィリアムは俺へと微笑んでくる。その顔を睨みつけていた。けれど、奴の顔から笑顔と呼ばれる表情が消えることはなかった。
――だから、僕は笑うんだ。争いと無縁の空間を作り出すために、僕が幸せになるためにね。
そうか、とようやく思い至った。
こいつは、わざと笑い続けているんだ。笑顔は敵意を削ぎ相手に笑顔を強要する合図だから。敵意のない空間を作り出し平穏を呼び込む方法だから。
手っ取り早く、確実に、幸せになれる方法だから。
つまり。
「……えっと、ベン?」
黙り続ける俺へとうとう困ったように、ウィリアムが名前を呼んできた。俺は捨て置くように襟首から手を離し、大きくため息をついた。
「……わかった」
吐き出すように、呟く。頭に手をやり、盛大に掻いた。
「わかったよ」
「……え?」
ウィリアムは呆然とこちらを見上げてくる。もっと罵られるとでも思ったのだろう。俺がここにきて協力を拒む可能性も考えていたのかもしれない。そうしてやっても良かったのだ。今ここで殴り通して明日の処分を延期にさせても良かった。何だってできた。
でも、できなかった。
俺はぽかんとするウィリアムを放置したまま背を向けて、部屋の隅に向かった。冷蔵庫を開け、中を覗き見る。
「やっぱあったな」
「……まだ話の途中だよ? 夜にしても早いし」
「るせえ黙ってろ」
瓶を二、三本引っ掴む。未開封のそれは、俺の手の中で中身の液体をチャポンと揺らした。コップは必要ないだろう。明日のことなんて明日考えれば良い。
バタンと冷蔵庫の扉を閉め、俺はウィリアムの元へと戻った。瓶の一つを無造作に渡せば、奴は戸惑いながらもそれを受け取る。残りをテーブルの上に置いて、俺は再びソファへどっかりと座った。手にした瓶の蓋を開ける。ふわりとアルコールの匂いが立ち昇った。
勝手に冷蔵庫から酒を取り出されたウィリアムは物言いたげに俺をじとりと睨んでいる。どうせ俺が部屋を出て行った後浴びるように飲むつもりだったくせに、けち臭い。
「飲めよ」
「僕のだったんだけど」
「後で俺の部屋からも持ってくるって」
「つまみは?」
「んなもん話してりゃ良いだろ」
ぐ、と瓶に口をつける。瓶の底を高く持ち上げれば、どくどくと強い臭いをまとった水が喉を通り過ぎて行った。カッとした熱が鼻の奥から額へと突き抜けていく。
「……酒の肴になるような話なんてないよ、もう。……できないよ」
「肴は酒だ」
「は?」
ウィリアムが素っ頓狂な声を上げた。俺はもう一回酒をぐいと飲んで、瓶のほとんどを一気に空ける。それを見たウィリアムがらしくなくわたわたと慌て出した。
「ちょッ、ベンったら。飲むの早すぎだよ!」
「神様としてのお前の話はわかった」
いつもウィリアムがしているように、俺は奴の話を無視して言い出した。途端、ウィリアムは黙り込んで俺を見つめてくる。話を遮られるという体験が初めてだったのだろう、その表情は飼っていた犬が予期しない行動をしているのを目の当たりにして、何もできないでいる飼い主のようだった。
「次はお前自身の話だ」
「……僕?」
「俺がここに来た時のお前は、クリスのことを実験体としか思ってなかった。けど今は違うだろ」
俺は瓶をテーブルの上に置いた。木製の板にガラス瓶の底がぶつかる音が、静かな部屋に響き渡る。
「彼女のこと、好きになったんだろ? 人間として。妹みたいに可愛がって、舞台の上に立つ彼女を見たいと本気で願うほどに」
「……何のこと?」
「もうわかったから、良いんだよ」
俺は隣に座る友人を改めて見た。俺が渡した酒瓶を受け取った当初のまま手に持っていたそいつは、笑みのない土色の目で俺を凝視している。
「もうわかった。怒ってるし悔しいし正直なところ今すぐ暴れてお前が長らく内緒で作り上げてきた作戦全部ぶっ壊したいけどな。……けど、ここまでお前一人で考えて行動してきたんだ、邪魔はしねえし協力の放棄もしねえよ」
「……ベン」
「だからもう、神様ごっこはやめろ」
手を伸ばす。その白銀の頭へ触れようとする俺の手に、ウィリアムは体を強張らせた。殴りなんてするものか。俺はそっと奴の頭に手を置いて、髪をわしゃわしゃと掻く。
「俺とクリスの友人としてのお前と、最後くらい過ごさせてくれよ」
ウィリアムは固まっていた。目を大きく見開いて、その土色に俺を映しこんで、口を半開きにする。瞬き一つの後、奴は前を向き直って手の中の酒瓶へと目を落とした。
「……それは、ずるいよ」
ぐ、と酒瓶を握る手に力がこもる。
「君とは、笑ってさよならがしたかったんだから」
「幸せを得るためにか? お前が一人で酒を煽る最後の夜のどこが幸せなんだよ」
「人の幸せは人それぞれだ」
「テメエ、それ俺に向かって言って良いセリフだと思ってんのか?」
頭に置いていた手を奴の肩に回して、俺は友人の体をグイと引き寄せた。
「俺を誰だと思ってる、あァ?」
「……ベン・ジョンソン。僕と同い年で、同じ大学出身で、女の子にモテないことを二十五になった今でも引きずってる。ピーマンを食べる練習をした結果噛まずに飲み込む技を取得した。女の子にモテるために煙草を吸ってたけど、クリスと会うようになってからめっきり吸わなくなったので周囲から不思議がられている」
「そういうことを言わせたかったわけじゃねえよ。つかピーマンの下り、何で知ってんだよ」
「僕だって君と同じだもの」
ようやく笑い、けれど俯くように髪で顔を隠し、ウィリアムは言った。
「――僕達は友達だからね」
そうだ。だから、わかっていた。
地球という最上級の舞台における脚本を完成させるために自分の死を計画したウィリアムの無謀な探究心を。興味だけで子供一人の人生を操ろうとしている傲慢さを。
着実にその実行日が近付いている中、無邪気に自分を慕う子供に愛情が芽生え始めていた誤算を。
「……最初は、ただの道具だったんだ」
未開封の瓶を抱え、ウィリアムは胸の底に凝り固まった思いを掻き出すように細々と呟いた。
「友達になる、なんて言ったけど、そんな気もなかった。でもクリスは僕に怯えなかった。気味悪がられることもなくて、妬んでくることもなくて、むしろ何をしても楽しそうに真似をしてきた。……嬉しかったんだ。意図されているとはいえ、苦しみも悲しみも知らない子供の無邪気な信頼が、嬉しかった」
聞こえるか聞こえないかの声は部屋の静寂に負けそうなほど弱々しかった。俺はその肩を支えながら、黙っていた。
「彼女と僕は、本当は出会ってはいけなかったんだ。僕達が出会いさえしなければ、彼女が物語を変えるようなことにはならなかった。彼女がこの先苦しい思いをする必要もなかった。僕とクリスの出会いこそが、僕達こそが、介入者だったんだ。それに気付いたのは彼女に異能を発現させた後だった。でもその時思ったのは、彼女が僕の夢を叶えるための道具として手元に来てくれたっていう歓喜だけだったんだ。あの時は、それしかなかった。なのに」
その肩が震える。けれど俺は、何もせずただ聞き続けていた。
「……君達と一緒にいる日々がすごく楽しくて、ずっと続いて欲しいだなんて馬鹿みたいなことを思うほどに手放したくなくて……でも、もう決めてしまったから、今更計画を変えることなんてできなくて……あの笑顔を僕が壊さなきゃいけない、この日々を僕が壊さなきゃいけない、って……わかっていたことなのに、今更嫌だなって思うんだ。ずっとこのままでいられたら良いのにって、思ってしまったんだ」
堪えるように俯いたそいつは、俺の名を震える声で呼んだ。
「……死にたくない」
その叶わない願いを呟いた。
「君達と一緒に、生きていたい」
「ああ」
俺はウィリアムに回した手で奴の肩をぽんぽんと叩いた。
「そうだな」
嗚咽が聞こえてくる。強張った肩が不規則に震えては跳ねる。
「ベン……」
「ああ」
「僕は、馬鹿だ」
「知ってる」
「怖くなかったのに、むしろ楽しみで仕方がなかったのに……」
そうだろう、と心の中で思う。こいつは常識が欠如している。それは人並外れた天才的な発想ができる証でもあったが、こいつが生というしがらみに気付きそれを自然現象の一つとして捉える危うさを孕んでいた。以前のウィリアムにとって、この世界を舞台にした脚本を書き上げることは自分の命よりも重要な娯楽だったのだ。
こいつはそういう奴だった。猪突猛進で、興味のためなら何でも投げ打ち犠牲にできる。じゃなきゃこんな施設で平然と研究なんてできるわけもない。
才能と引き換えに執着を失ったウィリアムが、クリスと関わることで半永久的な幸福というものを知った。執着さえすればいつまでもそばに置いておける幸福、その心地良さを知ってしまった。
刹那的に生きてきたウィリアムにとって、何かの存続を願うことはこれが初めてだったのだ。だからやり方を知らなかった。どうすれば今まで考えてきた計画を白紙に戻し、かつこの幸せが続けられるのかを、考えつけなかった。
普通なら気付いたはずだった。三人で抜け出すだとか、クリスを事故か何かで死なせてしまったことにするだとか、数年後も見通した運命を形作ってみせたウィリアムならもっと手の込んだことを考え出せたはずだった。
はず、だったんだ。
嗚咽が途切れず部屋の静寂に響く。縋り付くように酒瓶を抱き抱えたウィリアムの横で、俺はただその肩をぽんぽんと叩くことしかできなかった。
「ベン……」
ウィリアムは絞り出すように叫ぶ。
「……死にたくないよ……」
叶わないと約束された願いが虚空に消えていく。