幕間 -Note by a Researcher-
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「明日は天気が悪くなりそうだ」
いつもの中庭のベンチで、ウィリアムは手元の本をパタンと閉じる。
「へえ」
俺は改めて空を見上げた。なんてことのない、青い空が白い雲の向こうにある。さして珍しくもない晴天だ。これのどこに、悪天候の兆しがあるのだろう。
「これで明日晴れたら、明日の飯はお前の奢りな」
「嫌だよ」
「はっきり断りやがって」
「ねえ、ウィリアム」
ウィリアムの横に座っていたクリスが、クイクイと奴の袖を引っ張った。長い時間を一緒に過ごしているせいか、クリスは俺よりウィリアムに懐いている。このわがまま放題な友人よりも人当たりの良い性格をしている自負があるから、その事実に思う点がないわけではない。
「奢りって?」
「ものを代わりに買ってもらうことだよ」
「自分で買わないの?」
「そう。つまり損を被ることだ。通常、人間に限らないけれど、他者とのやり取りは利益と損害のやり取りに等しい。他者よりいかに利益を多く得るかを競うのが世界の摂理だけれど、敢えて損を被ることで相手に誠意と信頼を与えることがあるんだ」
ウィリアムの言葉に、クリスは呆然と、しかししっかりと耳を傾ける。こんなに理屈めいた話を長いこと聞かされてしまっては、クリスも理屈めいた可愛げのない子になってしまいそうだ。
それにしても、と俺は感嘆のつもりで口笛を吹いた。
「すげえな、クリス。買うとかわかるのかよ」
「うん」
褒められたからか、クリスは嬉しそうに顔を緩めながら身を縮める。
「ウィリアムにたくさん教えてもらったの。この村にはないことをたくさん。お金とか、仕事とか、病気とか、戦争とか」
「……物知りなんだな」
俺のぎこちない声に気付くことなく、クリスは照れたように下を向いて両手をもじもじと絡ませた。
「ウィリアムのおかげだよ。あ、あのねベン、わたし、将来この村の外に出たらウィリアムのお話を演じたいの」
そう言ってクリスは顔を上げる。パァッと顔を輝いたその笑顔は、太陽のように眩しい。
「ウィリアムが、いつかわたしはこの村の外に出て、世界を見て回ることになるって教えてくれたの。でね、世界にはたくさんのお仕事があって、みんなでお仕事をし合ってお互いの生活を支え合って、生きてるんだって。わたしね、ウィリアムが作るお話が好き。だからわたし、ウィリアムのお話をみんなに教えたいんだ」
ベンチから身を乗り出し、クリスは笑った。
「歌も歌って、踊って、みんなを笑顔にするの!」
俺はしばらく動けなかった。感動したわけじゃない。胸に込み上げてくる言葉を必死に留めて、代わりにクリスへ明るい言葉を与えてやりたくて、でも何も思いつかなかった。
どうして、何故。そんな言葉が怒りに似た戸惑いと共に喉元に何度も押し寄せてくる。
クリスは国の兵器だ。未来なんてない。夢なんて、抱いたところで叶うはずもない。それはこの施設で異能研究をしている人間なら誰もがわかっていることだ。
なのに。
――なぜ、彼女は叶うはずもない未来を夢見てしまっているのだろうか。
「あ、嫉妬してる?」
ウィリアムがにっこりと笑う。
「ベンは自分の作品をクリスに見せなかったものね」
ウィリアムの笑みは俺の言葉を待つように柔らかい。何か言えと、そういうことだろう。俺は大きく大きくため息をついて、深く深く息を吸って、そして「ああ」とわざとらしく呆れ声を出した。
「俺もクリスに作品見せれば良かったな」
「意地張ってた仇だねえ」
「公開前の作品ってのは客側にほいほい見せるもんじゃねえんだよ」
「クリスはこっち側だよ、製作側。歌も演技も上手いんだ。びっくりするよ」
ウィリアムは自然な笑みを浮かべている。それが、奴の俺に対する答えであることは容易に想像がついた。
クリスは政府の兵器だ。村の外に出る時というのは、戦争の只中に突っ込まれる時を意味する。金も仕事も、彼女には無意味な情報だ。けど、ウィリアムは事細かにクリスへ外の世界を教えている。
俺達は彼女達に余計な情報を与えてはいけないことになっている。そう、言われている。けど、ウィリアムは。
それが必要だったからに違いなかった。ウィリアムは無駄なことをしない。つまりウィリアムは、本気で彼女を”普通の人間として”村の外に出すつもりでいる。
訳がわからなかった。こいつは、何を考え、何をしようとしているのだろう。
「僕はね、劇作家になるのが夢だったんだ」
ウィリアムがクリスへと笑みを落とし、その亜麻色の髪をそっと撫でる。
「誰かの心に訴えかけるような、そういう作品を作りたいと思ってたんだよ。今はここにいるけれど、いつかこの場所が要らなくなって、行き場所がなくなったのなら、本気で目指してみたい」
それはウィリアムがずっと言っていることだ。こいつも俺も、心の中に常にその夢を抱いていて、未だに消せないでいる。夢なんてそんなものだ。むしろ叶わないかもしれない、叶うかもしれない、そんな中途半端な夢が一つくらいなきゃ、こんな辺鄙な場所で子供を使った実験なんてできやしない。
「それで、いつか君が僕の脚本で舞台の上に立つ姿を見てみたいなあ……なんてね」
「見せるよ!」
クリスが大きく頷く。その眼差しは陽の光を通して、透き通った輝きを見せる。青と、それに映り込む緑。大自然を思わせる美しさがそこにある。
「わたし、頑張る! その夢を叶えてみせるから!」
その目と同じくらい美しいものだけが彼女の目の前に広がっていてくれたのなら、どんなに良かったか。
「楽しみだなあ」
「顔がにやけてんぞ」
「だって嬉しいもの」
ウィリアムがこちらを見上げてくる。
「こんなに幸せな時が来るとは思わなかった」
「へえへえ、そうかい」
「やっぱり嫉妬してる?」
「してねえよ」
ふい、と顔を逸らしてやれば、ウィリアムは声を上げて笑った。つられてクリスもクスクスと笑い出す。二人が仲良く笑いあってるのが気に食わなくて、けれど自分一人だけがしかめっ面をしているのがどうにも滑稽に思えてきて、俺も声を上げて笑い始めた。
「んだよ、人のこと笑いやがって!」
「そういうベンだって笑ってるじゃない」
ふと、クリスがピョンとベンチから飛び降りた。そのまま中庭の中へと駆け出し、そしてくるりとこちらを向き直る。両手を大きく広げ、彼女は歌い出した。
「"Boys and girls come to play,
The moon does shine as bright as day;
Come with a hoop, and come with a call,
Come with a good will or not at all."」
軽やかで細く、しかし途切れることなく響く声。
クリスはくるりとつま先で踊るように中庭を駆ける。ふわりと服の裾が膨らむ。
「Loose your supper, and loose your sleep,
Come to your playfellows in the street;
Up the ladder and down the wall."」
そこにいたのは踊り子だった。緑の芝の上を跳ねる、亜麻色の髪の少女。つま先が地を離れる。ふわりと服がなびき、髪が布のように広がる。亜麻色が月明かりのような凛とした金に輝く。
それはまるで、月の下で舞い踊る可憐な乙女のような。
「ね、綺麗でしょう?」
ベンチから立ち上がってクリスを見つめていたウィリアムが囁いてくる。クリスから目を逸らさないまま、俺は小さく頷いた。
「……もったいないくらいにな」
「天才的だよ。僕達の目の前には今、クリスはいない。月明かりの下で楽しそうにはしゃぐ女の子しかいないんだ」
「メソッド演技か……」
「演技どころかそのものだ。彼女は演じているつもりもないだろう。繰り返せば彼女が彼女でいられなくなる」
メソッド演技法。それはつまり、役に憑依する演技法だ。観客に自然な演技を見せることができる一方、役者自身の精神を破壊しかねない。
「けど問題ないよ、クリスには負の感情がまだない。喜びや幸せしか表現できないからね」
そう言うウィリアムの横顔を一瞥する。
「……変わったな」
「そうだね。最初の頃はただただ怯えられて、会話すらろくにできなかったけど」
「違えよ。お前のことだ」
「え?」
きょとんとウィリアムは目を丸くした。そして、何かを思い起こすように遠くを見、「そうかもしれない」と目を細めて笑む。
「……そうかも、しれないね」
ウィリアムは元々よく笑う奴だった。だけど、それはほとんど偽物で、人の気を削ぐためのものばかりだった。こんなに穏やかに、緩やかに、微笑みを浮かべたまま目の前の光景を見つめるウィリアムを、俺は今まで見たことがない。
ウィリアムは変わった。クリスと顔を合わせてから、急激に。気まぐれが多いウィリアムがこれほど長くクリスのそばにい続けるとは思えなかったし、そもそも子供の世話なんて面倒くさがって俺に押し付けてきてもおかしくなかった。普段俺の部屋で話す時でさえクリスのことを実験体呼ばわりしなくなったし、毎日の会話がクリスとの出来事ばかりになった。そして、クリスの話をする時のウィリアムはいつだって楽しそうだった。
変わったのだと、思う。この堅物の理屈馬鹿が研究と脚本以外のことに興味を持つなんて、以前はありえなかった。
歌い終わったクリスがウィリアムへと駆け寄ってくる。腰に抱きついてくる彼女を受け止め、ウィリアムは笑う。素敵だったよ、と声をかけたウィリアムにクリスは満面の笑顔を見せる。
兄と妹のような、こちらまで微笑んでしまいそうな光景。
それを俺は、静かに見つめていた。