幕間 -Note by a Researcher-
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一秒の制限時間を終えて、ウィリアムは「後はよろしく」と言い残して部屋を出て行った。テーブルの上にはやはり、提出書類が残っている。結局俺が作り上げて出しに行かなければいけないらしい。
背中に誰かが乗っているかのような気だるさを我慢して、俺はそれを仕上げた。死力を尽くすって言葉が比喩じゃないことを人生で初めて体験した。正直体験しなくても良かった体験だった。
へろへろになったままコーヒーをカップ二杯分飲み干して、俺はそれを提出しに行った。早いところ終わらせて寝たかったのだ。が、担当職員に受け取りを拒まれた。
「聞いてねえよ、研究責任者本人が出さなきゃならねえなんて……」
ブツブツと不満を垂れながら廊下を歩く。口に出していないと不満が溜まりそうだという理由もあるが、一番は眠気覚ましだ。何か考えていないと睡魔に負けてしまいそうだった。
「それは何の呪文かね、ジョンソン君」
突然聞こえてきた声に、俺は周囲を見回した。そして目の前、今まさにすれ違おうとしていた人物がこちらを怪訝そうに見ていることに気が付く。他の研究プロジェクトのメンバーだ。名前は忘れたが、丸眼鏡の似合う細長い顔立ちは見覚えがある。
「最近寝不足でね」
「確かに、目元に隈がある。君も重要な人材だ、倒れられては困るのだよ」
「さーせん」
適当に謝罪の言葉を言って、俺は再び歩き出そうとする。こいつの名前は覚えていないが、こいつが厄介な野郎だということはよく覚えていた。
「ところで君の研究責任者は最近何をしているのかね?」
ほらまた、その話題だ。俺は足を止めてしばし思考する。残念ながら相手の方が階級が上だ、無視するわけにもいかなかった。それにこの手の輩は無視すると後々エスカレートする。適当に相槌を打ってやるのが最良だった。
「さあ。あいつの考えてることは俺にはどうにも理解が及ばないんで」
「最近よく中庭で幼女と戯れている。君を過労に追いやっている一方で、奴は贅沢にも検体と日向ぼっこだ。奴は前から目障りな存在だったが、まさかそんな趣味があったとはね」
クツクツとそいつは笑う。これは嫌がらせだった。ウィリアムは若くしてその才を発揮し、プロジェクトを立ち上げている。それでいてあの、人の話を聞かない性格だ。妬まれもするし憎まれもする。奴に何を言っても聞き流されるとわかってか、ウィリアムを疎ましく思っている輩は総出で俺に狙いを定めるようになった。とんだとばっちりだった。
けれどここでウィリアムの考えていることを暴露するわけにはいかない。だから俺は、こいつらの嫌味に付き合ってやる。そうすればこいつらの気が晴れるからだ。
「言っておくがウィリアムの好みは年上だ。自分の奔放さを放置してくれるような大人の女性が好みなんだよ。奴は束縛を嫌うんでね」
「それは貴重な情報だ、頭のイカれた可哀想な彼にも人並みの生殖本能があったとは。しかしその嗜癖は現実的ではない、老婆より子供の方が生産能力が高いのは真実だ、快感も子宮も違う。だがしかしなるほど、あの検体は生産にはまだ早いが悪くない、本能的にあの幼女と関わっているとしたら奴も成長しているということかね」
そう言ってこいつは歯をちらつかせる笑みを浮かべる。そうだ、思い出した。こいつの専門は受精技術、つまりこの村の子供達を大量生産するための分野だ。欠損や障害のある胎児を廃棄し、健康な胎児だけを選び取る選別屋でもある。この研究施設の闇の一つだ。
「そうやって何でもかんでも生殖と結びつける癖、不快だからやめろよ」
俺は奴を思い切り睨み付けてやる。けれどそれに怖気付くことなく、奴は肩を竦めた。
「生物の本能は全て生殖本能に基づいている。健康な子孫をより多く残す、それこそが我々の生きる意味だ。ならば我々の行動から生殖的欲求を除外することは不可能」
「んなもん関係ねえよ。不快なもんは不快だ、さっさと消えろ」
俺は顔をしかめながらさっさと歩き出す。それを見た相手は俺の反応に満足して、何も言わずに去っていく。これがいつもだ。本当のところ、話のほとんどは聞いていないから不快感はない。ただ、無駄な時間を使ったなという疲労が溜まるだけだ。元々研究者というのは変人が多い。ウィリアムが良い例だ、いちいち突っかかっていられない。
廊下を歩き、部屋を覗き込み、あちこちを歩いてようやく俺はウィリアムの姿を見つけ出した。例の中庭だ。少女と会話している。
クリスはだいぶウィリアムに慣れたようで、表情も柔らかくなった。よく笑うし、ウィリアムの話を真剣に聞く。どこにでもいる子供にしか見えない彼女だけれど、例えば中庭を走る時、例えば宙を飛ぶ虫を目で追う時、その成長途中の子供とは思えない動きに唾を呑むことはよくある。並外れた身体能力や動体視力、それらは兵器として彼女に与えられた人体改良の結果だ。詳しくはないが、消化器官を中心とする体内器官の性能を制限し、余剰分の体内エネルギーを過剰増殖された細胞へ回るようにすることで、並外れた戦闘能力を発揮できるようになるらしい。最近定着し始めた異能技師による身体改良とは異なる改良方法だ。
とはいえそれは基盤作りであり、今後兵器としての訓練を受けてその人為的な才能を大輪へと開花させる必要がある。今はまだ"普通よりも運動神経が良い"程度であり、洗脳の甲斐もあって施設の人間に反逆することはない。それでも時折、遠目で見ていて怖気立つことがある。
成長途中の殺戮兵器。できれば近付きたくはないのだが。
「……仕方ねえ、早いとここれを提出させて秒で寝てやる」
固く決意し、俺は中庭へと立ち入りながら片手を振り上げた。
「ウィリアム!」
ウィリアムがこちらを振り返って「あ」と声を上げる。
「どうしたの、ここまで来るなんて珍しい」
のほんと首を傾げる動作は俺をからかうものではない。こいつ、さっぱり忘れてやがる。
「珍しい、じゃねえよ。ほらこれ」
俺は奴へと駆け寄り、紙束をウィリアムへ押し付けた。紙面がよく見えるようにグイグイと向けてやる。
「これ、やっといたぞ。お前が渡しに行かねえと無効なんだと」
「あ、進捗報告書? そんなのもあったね」
「……お前本当に人の話聞かねえな……さっき話しただろうが! あと一時間で期限だぞ! 資金削られたらどうすんだよ!」
脅しも込めて言えば、ウィリアムはいやに締まった顔をした。唇を引き締めて眉をしかめ、真っ直ぐに俺を睨むように見つめてくる。
「困る」
どうやら真剣な顔をしているらしい。こいつのボケるタイミングは唐突すぎてわかりづらい。しかもこいつ、黙っていると几帳面で真面目な性格に見える顔立ちなものだから、わざときっちりとした表情をされると緊張で一瞬息が詰まってしまう。それが少し悔しくて、俺はウィリアムへと言い返した。
「キリッとした顔で言うな」
「どう? イケメンでしょ? キリッ」
「効果音を口で言う奴のどこがイケメンだ」
俺の突っ込みを気にした風もなく、ウィリアムはにこにこと笑う。それは、悪戯が成功した子供の笑みだった。まさか、と俺はさっきからこちらをじっと見つめている少女へと視線を向ける。ウィリアムの影へ隠れながらこちらを見上げている彼女は、困ったような顔をしていた。突然見知らぬ男が来たのだ、驚くのも仕方がない。俺達は初めて顔を合わせたのだから。
――そう、これが初めてだ。
なるほど、と俺はウィリアムを一睨みする。
「わざとここに呼び出したのか」
「何のことやら」
ウィリアムはわざとらしく肩を竦める。それが答えのようだった。提出書類に手をつけなかったのも、置いていったのも、全て俺にここへ来させるための仕込みだったということだ。ということはこいつの狙いは。
ため息を一つ吐き、俺は改めて少女へと向き直った。
「驚かせてごめん、怖い人じゃないから安心してくれよ」
言い、亜麻色の髪の少女へと笑いかける。何も疑っていない青い眼差しが、親しみのある笑顔を浮かべた俺を映していた。
――彼女に会う。時期としてはちょうど良い、彼女が再び異能を発現させる前に戦争が終わったし、そろそろ次の段階に移ろうと思う。
こいつは何かを計画し、実行している。俺とクリスの出会いがその一部であることは確かだ。詳細はわからない、だが、一つだけ確実なことがある。
ウィリアムは無意味なことをしない。だからこの仕組まれた出会いも、何らかの意味があるのだ。
「会うのは初めてだな」
俺は笑う。この対面が何を意味するのか、この時はまだ見当もつかなかった。
もしこの時からわかっていたのなら、俺はクリスとの出会いを心から喜べなかったかもしれない。