第2幕
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***
中心街から外れると、古くからの住宅が多い街並みへと景色は変わる。新しい建物が並ぶ中心街と同じ都市とは思えない落ち着いた雰囲気の中、クリスは行き慣れたバーの扉を押し開いた。
カラン、と鈴が鳴る。静かな弦楽器の音楽がクリスを出迎えた。紳士の鑑のような店主が、礼儀正しく頭を下げてくる。クリスの他に客はいない。
席に座らず、クリスはカウンターの机を左手の人差し指で叩いた。軽く二回、早く三回、そしてまたゆっくりと二回。これがあの部屋への扉を開けてもらう合図だ。
合図を聞き、拭いていたグラスを置いた店主は店の奥に向かう。
店主が開けた扉には"private room"と金文字が書かれている。その先には灰色の階段が続いていた。薄暗く寒気もするその空間には、ビール瓶や酒瓶が保管されており、一見するとただの倉庫となっている。
段ボール箱が積み上げられている中を縫い、階段を降りる。やがてたどり着いたのは扉だ。
「ああ、君か。久し振りだね」
開けた扉の先で、パソコンから目を離した情報屋がこちらを見遣る。
「そろそろ移動するの?」
「考えてるところ」
肩をすくめてみせ、クリスは乱雑に物が置かれている部屋の中で唯一空いていた壁へ背を預ける。そんなクリスから目を離し、情報屋は手元のキーボードを叩く作業に戻った。カタカタという音が地下室を充満する。
「で? 今回は何を持ってきたの? またケータイ? カメラ? 今ちょっと立て込んでてすぐに金額を提示できないんだけど」
「買いたい情報がある」
珍しい、と言わんばかりに情報屋はクリスを一瞥した。
「ただの金好きだと思ってたけど、君もちゃんとしたこちら側の人間だったんだね」
「酷い認識のされ方だ」
じとりと情報屋の視線を見返し、しかしクリスはすぐに表情に険を宿す。
「ポートマフィア本拠地の見取り図が欲しい」
ぴたり、と地下室が静かになる。呼吸音すらも聞こえないほどの静寂。
「……死にに行くのかい?」
手を止めた情報屋が真剣な表情で問う。――否、それは問いではない。
確認であり、否定だ。
「やめておいた方が良い。いや、やめるべきだ。奴らに手を出すのだけはやめておいた方が良い。知らないわけじゃないんだろう? あれはここらでは一番の親玉だ、敵対したら生きて戻って来られない。そういう組織だ」
段々と熱の入る情報屋の声を無視し、クリスは彼に歩み寄る。机の横に立ち、その端に置かれていた細長い紙を手に取った。驚く情報屋の前でそれに自らのサインを書き、ペンと共に情報屋の前に丁寧に置く。
情報屋がいつもしていることだ。この情報屋は情報を売ってきた相手に小切手を渡す。いつものそれと違う点は――クリスが渡した紙の金額欄は空白だということ。
紙を見つめ、情報屋は息を吐き出した。
「……もうここには来るなよ」
「そろそろ足がついてきたから、元よりそのつもりで今日来たんだ。情報屋に迷惑は掛けられないからね」
情報屋がパソコンへ手を伸ばす。先程までとは違う、気の進まなさを表すような動きで数分間パソコンを操作し、そして一つのデータチップをクリスに手渡した。それを受け取り、クリスはすぐに背を向ける。
「じゃ、今までありがと」
返事を聞かず、部屋を出る。
カツン、と足音が響く階段を上りながら、クリスはウエストポーチから小型パソコンを取り出し、データチップを差し込んだ。ウィン、と画面に見取り図が展開する。ざっと眺め、そしてパタンとそれを閉じてポーチにしまった。
一度ホテルへ戻り、必要な物の準備をする。とはいえこういった事態に対する準備というものは常日頃行っている。クローゼットの中に押し込んでいた黒い鞄の中の一式を身につければ、それだけで十分だ。
鏡の前で自身を眺める。そこにいたのは黒い服を纏った影のような人間だった。腰には一挺の拳銃。予備弾倉の他手榴弾や薬物などが入ったウエストポーチを腰の後ろで固定し、その裏にナイフを一つ隠している。隠しナイフはそれだけではない。底の厚いブーツにも仕込んである。そしてそれらの装備は上から羽織った黒い外套で一切見えなくなっていた。体格すらも曖昧にし、フードを深く被れば個人の特定すら困難になる。
潜入捜査だけではなく通常の戦闘にも適した一式――ギルドにいた頃、仕立てたものだ。
腰に提げた拳銃を取り出し排莢口から中を視認、グリップの底に弾倉を叩き入れる。スライドを引けば、一発目の弾丸が薬室に送られた。使うことがないことを願いつつ、拳銃をホルスターに戻す。
着替え終わった後、外に出る。街を歩いていると、ざわついた人々の声が耳に入ってきた。普段は他愛のないものが多いそれだが、今日は何やら事件が起こったらしい。
「電車に爆弾魔だって……」
「指名手配犯が……」
「探偵社……」
人混みの中を歩きながら得た情報をまとめるならば「電車に指名手配中の爆弾魔が現れ、武装探偵社の社員が乗り合わせていたので死者は少なかったもののダイヤが大きく乱れた」というところだろう。探偵社も大変らしい。
「指名手配中の爆弾魔……」
この街に来て日は浅いものの、その類の人間は調べてある。その爆弾魔の名は十中八九梶井基次郎だ。まあ、爆弾程度ならば探偵社の異能力で何とでもなるだろう。
しかし気になるのは「梶井が」「探偵社員のいる」電車を狙った状況である。梶井はポートマフィア構成員としても名がある。何か目的があるならば、敵である探偵社員が乗り合わせている電車は狙わないのが普通だ。
ならば自然と考え得ることは。
「……ポートマフィアが、探偵社に直接手を出したか」
先程の芥川を思い出す。ポートマフィアは敦の捕縛にかなり注力しているらしい。この機会に探偵社へ揺さぶりをかけている、とも言えるだろうか。探偵社と関わりがあると知られている以上、ポートマフィアへの潜入は急いだ方が良い。今彼らはまだ敦にしか目が向いていない。こちらにまでその触手を伸ばされる前に、真実を探る必要がある。
ざわざわと人が行き交う中をすり抜けつつ、路地裏に入る。黒い革手袋をはめ、フードを深く被り、クリスは目の前にそびえる建物を一瞥した。
関わりたくないと、関わるものかと思っていた高層建築物がそこにある。それは、クリスが初めてヨコハマの地を踏みしめた時と全く同じ威厳を街へ放っていた。
「早いところ用事を済ませよう」
真昼の空にその身を突き刺した鋼色のビルへ、クリスは駆け出した。
***
全くもってとんでもない日だ、と中也は苛立ちを露わにする。
――二度目はなくってよ!
先程この口からほとばしった声を重力で掻き消しに行きたい。
「自殺志願者は黙って死んでろってんだよ! クソッ、クソッ!」
苛立ちをぶつけるように殴った壁はひび割れくぼむ。それでも気が済まない。こんな不快な気分にさせられる理由はいつだってあいつだ。中也の脳内でピースサインを送ってくるあいつだ。
「あんの、クソ道化師が!」
拳を思いきり壁にぶつける。殴った先で、ドォン、と壁が穴を開けた。手首が壁に埋もれて引っ掛かる。手を強引に抜けば、さらに壁は崩れた。脆い。
「今度こそ殺してやる」
殺意を明言しながら中也は地下室に繋がる階段を上りきった。命の終わりを示すかのような薄暗い廊下から、照明に照らされた明るいビルの廊下へと出る。その明るさの中で不満を顔に出したまま、中也は姿勢悪く己の本拠地内を歩いた。
整然としたこの建物は見慣れた光景だ。かつては己の隣に太宰がいた。望んでもいなかったが、なぜかいた。今はいない。奴は忽然と姿を消し、そして忽然と古巣に捕縛された。
が、しかし。
――それも奴の計画通り。
思い出すだけでも腸が煮えくりかえる。
中也の半年ぶりの帰還を祝うように、その報告は中也の元に届いた。太宰の野郎が捕まったというその知らせに真っ先に顔を見に行ったが、結局それも奴の手のひらの上。あのいけ好かない顔を何発も殴りたいが、殴ろうと拳を振り上げた時点で、否、その前、奴の目の前に姿を現した時点で、否、それよりももっと以前から――太宰に行動を見透かされ、利用されている。
気に食わない。
不快感に中也はギリッと歯を食いしばる。
そんな中也にすれ違う構成員達は一様に、壁に背を向けて幹部たる彼へ敬意を表す。しかしそれに怯えが混じり、背を向けるどころか壁にべったりと背中を預けていることを、中也が知るわけもない。
クソが、と何度目かもわからない罵声を呟き、中也は廊下を歩く。ふと、その視界の端に黒い何かが横切っていったような気がした。
振り返るが、何もない。見間違いだろうか。
「……ネズミなわけねぇしな」
一人呟き、中也は前を向き直って歩みを再開した。
***
小柄な黒服の男が廊下を歩き去って行ったのを確認し、クリスは足音なく駆けた。一定距離進み、廊下の壁に身を隠し、それを繰り返していく。何度目かわからないほどそれを繰り返し、壁に背をつけてクリスは一息ついた。
「……こういうの、久し振りだな」
潜入は成功し、滞りなく目的の部屋へ向かっている。潜入調査は数年振りだった。ギルドにいた頃は専ら前線に出されていたからだ。
異能力【テンペスト】は攻撃型も防御型もできる遠距離型異能力だが、彼はその異能力による壊滅的破壊をいたく気に入った。その気になれば都市一つを更地にできるこの異能力ならば、己の偉大さをこれ以上なく誇示できるからだろう。
久し振りに思い出した自信にあふれた顔を、頭を振って打ち消す。人気がない事を確認し、クリスは進むべき先へと目を凝らす。
潜入し始めにしたのは監視カメラの制御だった。遠隔操作でビルのセキュリティに侵入し、監視カメラのプログラムを書き換えたのだ。手元にある機械は特殊な電波を発信する。その電波を受信してから一定時間、監視カメラは停止し同じ映像を流し続ける。
つまりクリスが監視カメラの前を通る数秒前から、映像は一定の光景を写し続ける。クリスの姿は映ることなく、記録に残ることもない。
本来ならば仲間を雇い適切なタイミングで適切な映像に変えるのが一番だが、今回は潜入そのものに勘付かれることは問題ではなかった。相手はポートマフィア、いかに手を尽くしても潜入には気付かれるだろう。それよりも重要なのは、クリスという存在の詳細を知られないことだ。
電波状況を確認し、クリスは廊下を駆け出す。耳にかけたマイク付きイヤホンは建物の中にいる人間達が身につけている通信機を盗聴している。聞く限り、今のところ気付かれた様子はない。
廊下を足音もなく駆けながら、クリスはふと思う。
――巨大組織に潜入するのは、本当に久し振りだ。
「……ッは」
一定距離を走り、ぴたりと壁に体を添わせる。息を吐きつつ、電波の状況と通信機の会話に異常がないことを確認し、さらに一定距離を走る。五メートル先の角を右手に曲がれば目的の部屋はすぐだ。
通信保管所。そこに、求めている情報はある。
銃を構え、扉の横に張り付く。ドアノブに手をかけ、一気に引く。滑り込むように扉の向こうへ飛び込み、すぐさま体勢を立て直して中を見回した。誰もいない。短く息をつき、改めて部屋の中を眺める。
その部屋は通信保管所という名に相応しく、書類の山とパソコン画面が空間を支配していた。パソコン画面からの青白い明かりが部屋の中を照らしている。まるでその青白さで光源を確保しているような薄暗い雰囲気を保っていた。
罠である事を考慮しつつ、クリスは扉の鍵をかけて部屋を漁る。探すのは通信記録、そして契約書だ。内部ネットワークにアクセスできるようになってから一番に試したが、サーバー上にそのデータはあったものの肝心の情報は記されていなかった。けれど契約書にはそれが記されているはずだ。
――敦の誘拐を画策した、男の名が。
クリスが目的の情報を記したデータに辿り着くのは僅か数分後のことだった。
「……そうか」
ページをめくる手が静かに止まる。そこに書かれているのは、中島敦のデータと、彼の身に七十億を懸けた証の書面。クリスはそっと指を伸ばし、紙に――そこに書かれたサインへ触れる。
予感はあった。彼が求めていた〈本〉への道標。七十億という破格の金額。
金で全てが解決できると信じ、そして実際そうしてきた彼なら、己の願いのために虎の異能力者を金で手に入れようとしていても何らおかしくはない。
「そうなんだね……フィー、君が言っていた『道標』というのは、あの子のことだったんだね」
そこに記されていてほしくなかった名を――フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルドの名を指で撫で、クリスは静かに目を細めた。
「……なら、わたしは君の敵になろう」
彼に渡してはいけないものがある。誰にも渡ってはいけないものがある。偶然にしては全てが噛み合いすぎていた。けれど、事実そうなのだ。
敦が〈本〉に繋がっている。
ならば、クリスはそれを守る側にならなくてはいけない。それは危機感から来るものだった。己が〈本〉と同じほどに危険なものであると知っているが故だった。
――あれは誰かの手に渡ってはいけない代物だ。