第3幕
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[闇に憩いし光の花よ]
過酷な運命に翻弄されすぎたがゆえに愛されていることに気付いていない少女と太宰さんのデート(偽)。
共喰い編の前くらいの出来事だと思います。
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喫茶うずまき。数人が座れるカウンターと三つほどのボックス席が備わった、落ち着いた雰囲気の喫茶店である。同じビルに武装探偵社という武装集団の会社があり、その社員がよく利用しているのだが、もちろん社員以外の人も利用する。近くのオフィスの女性社員、通りすがりのカップル、穏やかな時間を過ごしに来た老夫婦。
それに。
「デート、ですか」
――何という関係でもない、知り合い同士。
「そう、デート」
クリスの言葉に太宰は頷いた。その目はキラキラと輝いている。「よし、自殺しよう!」とでも言いそうなほどのこの男が言い出したのは、いつもの不謹慎な言葉ではなかった。
「私とデート。どう?」
「お断りします」
す、と白いカップに口をつける。今日の飲み物は珈琲だ。とは言ってもいつもの深い香りの立つ珈琲ではなく、それと同じ味でありつつもどこか劣るそれである。
「……やっぱり何か違うな」
「店長の珈琲は誰にも敵わないからねえ。同じ豆を使っても、同じ味にはならない」
「何が違うんだろう……」
「愛情とか」
「愛情」
太宰の答えに、ふむ、とクリスは顎に手を当てた。
「なるほど、これが愛情のない珈琲」
「アタシの淹れた珈琲でボケるの、やめてくださる?」
隣の席の片付けを終え皿を積んだお盆を手にしたモンゴメリが席の前に立ち止まり、不満気な顔を向けてくる。
「没収するわよ。……店長と同じ味を作れないアタシの実力不足もあるけど」
「飲む分には何も問題ないよ。後でちゃんとお金払うし」
「要らないわ、練習だもの。元々そういう話だったじゃない」
「でも貰い物に報酬を出さないのは悪い気がする」
言えば、モンゴメリは心底呆れたような顔で大きなため息をついた。
「物のやり取りは報酬ありきだけじゃなくてよ? あなた、本当にフィッツジェラルドさんと考え方がそっくりね」
その一言はおそらく、クリスが不快な表情になることを見越したものなのだろう。本心に逆らわず「む」と半眼になれば、モンゴメリは満足そうにニヤリと笑ってカウンターの奥へと向かって行った。彼女の意地の悪さも大概である。
「……君達仲が良いねえ」
珈琲を口に含むクリスをジッと見入ってくる視線は太宰のものだ。
「やはりあれかい、元同僚の方が気が楽になるのかな?」
「彼女とは厳密には同僚ではありませんよ、ギルドにいた時期が一致しませんから」
「ふーん?」
ちら、と視線をそちらに向ければ、太宰はニコニコと笑みを浮かべていた。見られたくないものを見られた心地がしてどうにも落ち着かない。ため息をそっと吐き、クリスはカップを置いた。
「それで、何故デートをわたしと? 先程までの話では、とある熱烈な女性が太宰さんに接近してきていて困っているとのことでしたが。話が見えません」
「ああ、そうだったね」
ティースプーンを指先で摘んで持ち、太宰はそれを軽く振りながら呆れ顔をしてみせた。
「先日の事件の被害者の一人で、その場に居合わせた私に一目惚れをしたらしくてね、どんなに説得しても聞いてくれなかったのだよ。『交際相手がいるなら諦める』と言われたけれど、私にそういった相手がいたのならとうの昔に心中している」
「なら、その方とお付き合いされたら良いのでは?」
「今の私にとって特定の女性と毎日を過ごすことよりも特定の女性と心中することの方が重要なのだよ。心中するつもりのない女性とお付き合いはできません」
なるほど、全く意味がわからない。
「それで?」
「おや、クリスちゃんならそろそろ話が読めたかと思ったのだけれど」
太宰はやはりニコニコと笑っている。何かを企み何かを予見しているこの笑みが苦手だ。
大きめのため息をついて、クリスは飲み干した珈琲カップを見つめた。珍しく太宰が珈琲を奢るよと言い出したかと思えば、これである。裏がないとは思わなかったが、まさか偽装デートを申し込まれるとは。とはいえ、太宰ならばこの程度の揉め事は慣れているだろうし、説得に失敗したというのは信じがたい。説得を諦めたという方が正しいのではないだろうか。
ふむ、と短く思考する。
「……その方、過去にストーカーとして警察にお世話になったことがあるんですか?」
「そゆこと。説得に耳を貸さない、下手に嘘を言えば逆上する、かと言って協力者とのデートを目撃されれば協力者の命が危うくなる」
「それでわたしですか」
「そ」
太宰はあっさりと頷いた。
「クリスちゃんなら、一般女性相手に怪我しないだろうから。唯一の心配は君がその女性を殺めてしまわないかという点だけれど、私が横にいるし問題ないだろう」
「……選出理由にいささか思うところがないわけではありませんが」
ちら、と太宰を見遣る。するとその意味を察して、太宰は肩をすくめて「やれやれ」とぼやいた。
「……この間言っていた、軍事会議資料。あれを渡す」
「物わかりの良い方は助かります」
今度はこちらがニコニコと笑みを向ける番だ。クリスの様子を一瞥し、太宰は大袈裟にため息をつく。
「君とはもう少し、穏やかにお話したいのだけれどもねえ」
「無理な話です。わたしがわたしで、太宰さんが太宰さんである以上は」
「それもそうか」
クリスの言葉に頷き、太宰は席から立ち上がった。そしてクリスの横に立ち、指先を揃えた右手を差し出してくる。左手を腰の後ろに隠し、その腰を軽くかがめた姿は貴族の従者を思わせた。
「お手を、お嬢さん」
その笑みもまた、表面上は優しさを思わせる、何かを企み隠している獣のそれ。
「……今からですか」
「不満?」
「少々」
何よりここは喫茶うずまき。探偵社員の出入りが多い店である。
「安心したまえよ」
太宰は全てを知っている笑みで囁いた。
「国木田君には内緒にしておくから」
「……あなたが口にしないというだけでしょう? おそらくモンゴメリから敦さんを経由して伝わると思うんですが」
「おや、不都合が?」
太宰は楽しげな様子を隠しもせずに問うてくる。睨みつけても、その笑みは少しも変わらない。
「……意地が悪い」
「照れるね」
「褒めてません」
躊躇いを込めたため息を見せつけるようにつき、それでもやはり数秒躊躇った後、クリスは差し出された手へ己の左手を乗せた。慣れない体温に悪寒が肌を走る。クリスの胸中を察してか、太宰はクリスの手を掴むようなことはせず、軽く捧げ持つ程度に留めてくれた。その僅かな違いが、太宰に全てを知られていることを示している。
クリスが拘束を厭うことも。人の体温に怯えることも。
――今、脳裏に国木田の姿がちらついていることも。
また、あの怒声に「気随気儘の放蕩三昧と二人きりになるなとあれほど」うんぬんと長時間言われてしまうのだろうか。正座は苦手なのだ、気が滅入る。
「……いっそ一度くらい太宰さんを半殺しにしてみせれば何も言われなくなるかな」
「うん、聞こえなかったことにするよ」
太宰がその顔に笑みを張り付かせる。その反応が見れただけでも満足だ。
軽く口の端を持ち上げ、目を細める。それは演技の始まりを告げる、女の微笑み。
「ーー行きましょうか、愛しい人?」
「お望みのままに、愛する人」
***
太宰に連れられて辿り着いたのは、探偵社から程よく離れた街だった。都会、という表現が似合う街だ。整備された道路に、きっちりと計算された区画で並ぶ専門店、そして背の高いショッピングモール。街路樹が植えられたそこを行き交うのは洒落た格好の人々。ショーウィンドウの中では商品が照明を受けつつその煌びやかさを表現している。
「……ニューヨークみたい」
「この街は初めてかい?」
隣を歩きながら太宰が尋ねてくる。頷き、クリスは再び目の前に広がる光景を見回した。
「……この辺りには政府関係の施設がないので」
「商業施設が集まる街だからねえ」
ふふ、と太宰は楽しげな表情でクリスの顔を覗き込む。
「こういう機会がないと来ないでしょ」
「そうですね。……それにしても、あの」
言い澱み、クリスは自分の服へと目を落とした。首元を大きく開けた白い薄手のシャツに、太ももを晒したショートパンツ。黒いストッキングが露出を抑えてはいるものの、普段は着ない服装だ。耳元には金の華奢なイヤリングが揺れ、軽くウェーブのかかった髪が歩くたびに首元をくすぐる。通りすがる店のショーウィンドウに自分の姿が映るたび、普段よりも明るく鮮やかな口紅が印象に残った。
「良いんですか、本当に。デートとはいえ偽装なのに」
「偽装とはいえデートだから、私に気を遣う必要はないよ」
クリスの全身を自腹でコーディネートした男はさらりと言って笑った。
「似合うと思ったんだよね、こういうの。国木田君はこんな気の利いたことはしないだろう?」
「……デートしたことないので」
「君達のは喫茶デートだものねえ」
「デートじゃないです、情報収集です」
「うんうん」
太宰は上機嫌そうにクリスの訴えを無視する。むう、と唸りはするものの、ここまでしてくれた相手にぎゃんぎゃんと口うるさく言うのは気が引けた。それに、この手の話題は言えば言うほど言い訳じみてきてしまう。
「……例の女性はこの辺りにいらっしゃるんですか?」
「話を逸らしたね。この手の嘘は不得手かい?」
「"いらっしゃるんですか?"」
「睨みつけて来ないでくれたまえよ。――彼女に今日、ここの辺りを私がうろつくという情報を流しておいたからね。まだ姿は見ていないけれど、いるはずだよ」
情報を流しておいた、とさらりと言ってしまう辺りが太宰である。その腕があるのなら、このような手間をせずとも脅すなり何なりして例の女性に対処できたと思うのだが。
偽装デート。相手によっては確実な一手ではあるものの、相手によっては逆上させてしまいかねない。それを見込んだ上でクリスに頼んできたという点は理解しているが、それにしても奇妙であるという違和感は拭い切れていなかった。
おそらくは、他にも目的がある。それも、太宰が楽しむためだけの目的が。
それに思い当たってしまう自分がどうにも憎い。
「……太宰さん」
「何?」
にこりと太宰が顔を覗き込んでくる。その笑顔を睨み上げた。
「……胸ポケット」
「……バレたか」
「今すぐ渡して下さい」
「ちぇ」
わざとらしく舌打ちのような声を出し、太宰は胸元の内ポケットからボールペンを取り出した。界隈で有名な、ボールペン型の隠しカメラだ。それを受け取り、自身の鞄にしっかりとしまう。
「わたしのプライベートの写真なんて下手したら数万円ですよ、お遊びにしては重い。安易に手を出さない方が良いです」
「舞台女優さんだものねえ。でも安心したまえよ、君の写真を撮ろうとしたのは、舞台女優の裏の顔でボロ儲けしようというだけではないからね」
「ボロ儲けする気あったんですね」
「そりゃもう。仕事しなくてもお金が入ってくる、それを逃すほど私は裕福ではないし仕事好きってわけでもない」
誰かさんと違ってね、と付け加えられたその一言は無視することにした。大方この偽装デートも、その人で遊ぶための材料集めの一面があるに違いない。太宰が何をしようが勝手だが、それをされて一緒に怒られるのはこちらなのだ。どうせやるならクリスが関係しているとわからない方法を取ってもらいたいのだが、この奔放男はどうしてかあの人の前でクリスの名前を簡単に出してしまう。迷惑極まりない。
「……国木田さんをからかうのは止めませんしむしろ誘っていただけたら全力でお手伝いしますけど、それのためにわたしを持ち出すのは止めていただけませんか?」
「えー? どうして?」
「国木田さんにもわたしにも迷惑ですよ」
「そう?」
太宰はどこまでも楽しそうに声を浮つかせている。からかう側の気軽さは知っているから、太宰のことを責める気にはならない。けれどこれは重要なことなのだ。
なぜなら、あの人にとってクリスはただの一般市民、それ以外の何者でもない。そう思ってくれているからこそ、クリスは国木田の隣に心地良く居座れている。むしろそうでなくてはならないのだ、国木田のためにも、自分のためにも。
だから。
「難しい顔してるねえ」
不意に太宰が顔を覗いてくる。その指先で自身の眉間を軽く叩くその動作は、眉間にしわが寄っているという合図なのだろう。思わず自分の額に指を当てて揉みほぐす。
「……すみません、せっかくのデートなのに」
「そう言うわりにまだ自覚ないよね」
「偽装ですから」
「偽装だけどデートなのになあ」
ちらりと背後を見た太宰が、クリスの背中へと腕を差し出した。そのまま腰へと手を添え自身へと引き寄せる。
「わッ……」
予想だにしていなかったことに、クリスは足をもつれさせて呆気なく太宰に寄りかかった。抱きとめられたかのような錯覚に息が止まる。密着する肌にじわりと染み込んでくる太宰の体温、固定された腰、微かに香る人肌の匂い。
――動揺よりも先に赤色の景色が目の前を擦過した。
まずいと思う間もなく太宰はクリスから手を離した。と同時に、クリスの脇を自転車が通り過ぎていく。自転車の通行のためにクリスを引き寄せたらしい。とてつもない安堵が全身を脱力させる。座り込まずに済んだのは、太宰がそっと背を押して歩みを助けてくれたからだ。
「ごめんね、驚かせた?」
太宰が耳元に口を寄せて囁いてくる。
「――それとも、ときめいた?」
「それはないです」
「おや残念」
素っ気ない答えにも関わらず、太宰はどこまでも楽しげだ。
「さっきの、本当の恋人っぽかったと思わないかい?」
「太宰さんがそう思ったのならそうなんだと思います」
「クリスちゃんはどう思った?」
「歩きづらい」
「……デートしてる自覚ある?」
ここで満面の笑顔で「はい!」などと言ったところで嘘だと見抜かれるのがオチである。代わりに「それなりに」などと曖昧な言い方をして見せれば、太宰は不満そうに唇を尖らせた。
「せっかく可愛くしたのに。……あ、そうだ」
パッと顔を明るくした太宰は、何かを閃いた様子でキラキラとクリスを見つめてきた。
「仮に私が国木田君だとして、ちょっと演じてもらえたりする?」
「演じ……?」
「国木田君と一緒に街を歩いているという設定で」
「設定」
「私が国木田君役、クリスちゃんが本人役」
ピッと自分とクリスを指差しながら太宰は言った。つまり、太宰を国木田だと仮定して行動してみろということだろうか。
クリスとしては太宰も国木田も対して差はない、何が変わるとも思えないが、できないわけではなかった。自分を演じるというのも些かおかしな話だが、不可能ではない。
ふむ、とクリスは顎に手を当て思考する。
「新しい役作りの練習……?」
「そう思ってくれて構わないよ」
ほら、と太宰は何かを歓迎するかのように両手を広げる。太宰と国木田、あえて似ているとすれば身長程度だろうか。似ていない人を前にその人がいる前提で行動を考えるのだから、普段舞台の上でやっているような演技とは違う難しさがある。
むう、と唸りつつ、クリスは目を閉じた。思考、記憶を探りつつ息を整える。
――あの面影を思い出すなど造作もない。
瞼を開け、クリスは隣に立つ太宰を――その姿に重ねた国木田を見上げた。
***
ちょっとした思いつきを、太宰は後悔していた。
目の前に少女と呼ぶには大人びた女性がいる。亜麻色の髪に白い肌、青い目が特徴的な乙女だ。国木田と親しい彼女は彼に合わせてか常に大人しい服装をしていたので、この際と思って露出がそこそこある艶やかな格好にさせてみた。国木田が見たなら即刻顔を赤らめて怒鳴りつけてきているであろうほどに、若々しい色気のある服装だ。それでも中身は何ら変わらず、彼女は普段と変わらないやり取りを太宰としている。触れようとすれば怯え、甘い空気を作り出そうとしても避けられてしまう。それはおそらく、彼女の癖のようなものだ。彼女の異常なまでのその警戒心を踏まえれば、国木田の過剰な牽制は不要であるように思えるのだが。
それで少し気になった。普段国木田が見ている彼女は、どのような表情をし、どのような仕草をするのか。太宰に向けるものと違うのか同じなのか。
ただそれだけが目的の、軽い気持ちだった。
なのに。
唾を呑む。瞬きをする。音の一切が耳から遠のき、肌が粟立つことすら忘れる。逃避を試みる五感はしかし、それから逃れることは叶わなかった。
青。それも、緑を孕んだ。美しいという他ない眼差しが、上目遣いで太宰を映し込んでいる。物言いたげなそれが穏やかに微笑む、ただそれだけで十分だった。
細められ光の入り方が変わった碧眼の眼差し、柔らかな頰、弧を描く唇。目の前の誰かを見つめて微笑む乙女が、そこにいる。
その眼差しに自分の姿が映っている、その事実に頭が警鐘じみた悲鳴を上げ思考を遮る。
花の香り。芳しくも甘ったるい、朦朧とした脳の奥から何かを引きずり出そうとしてくるような毒気。
呑まれる。
「――ストップ」
太宰の制止にクリスは笑みを疑問の表情へと変えた。瞬時に目の色味が変わり、単調な青が太宰の姿を映す。ほっとしてしまったのは、その青が見慣れたものになったからか。
「まだ何もしてませんけど……」
「うん大丈夫、十分。ごめん」
「……謝られる理由が思いつきません」
クリスはというと納得のいかない様子で眉を潜めている。ということはあれは、演技ではなく無意識なのだ。
考え込む素振りで顎に手を当てつつ、クリスから顔を逸らし、太宰は思考する。網膜には未だに彼女の姿が焼き付いて離れない。
クリスの目の色が彼女の気分と光の入りようで変わることは前から知っていた。けれど実際に目にする機会はほとんどなく、それでも稀に見かけては不可思議な色合いだなと思ってはきた。
けれど思いもしなかったのだ。女性が何よりも美しく映える感情、それを抱いた彼女が放つ多色の眼差しが、それを伴った舞台女優の整った微笑みが、太宰が見ている色合いとは比べものにならないであろうことなど。
「……危うく落ちるところだった」
「え?」
「いや、独り言だよ」
言いつつ同僚を思う。聡いが愚直な彼の言動を思うに、クリスの心境に彼は気付いていないだろう。が、彼女のその色を見れば明白な答えがそこにある。それに思い至っていないということはつまり、常にあの眼差しと微笑みを向けられていて、それが特別なことだということに気付く機会を失っているということだろうか。だから彼は、彼女のその眼差しに他の誰かが魅了されやしないかと警戒しているということなのだろうか。
――聡明さが真逆に発揮されている。
「あ、あの、太宰さん?」
太宰が押し黙ってしまったからかクリスが困ったように顔を覗き込んできた。わたわたという形容が似合う動きの彼女を目の端で捉え、太宰は小さく笑う。
「ふふ」
「……人の顔を見て笑い出さないでくださいよ」
「いやあごめん、そういう意味じゃなくて」
手を伸ばし、その耳元に軽く触れる。柔らかな肌に指の腹を乗せれば、クリスは怯えるように身を縮めた。その微かな動きが人馴れしていない小動物のように思えてくる。
「……君に構う気持ちが何となくわかったかな」
呟き、太宰はその体を抱きすくめた。ふわりと花に似た甘い香りが宙に舞い上がる。突然のことにクリスは呼吸を止めて硬直する。それに構わず、太宰はクリスを抱き抱えたまま体を横にずらし、先程から駆け寄ってきていた人影へと背を向けた。異能無効化の力を意図的に抑える。すぐさま全身を取り巻くように殺意に満ちた銀色が吹きすさぶ。
「……太宰さ……!」
動揺に上ずった呼び声を無視し、自らに突っ込んでくる人影を見遣る。太宰がおびき寄せた女性だ。手入れされた髪を乱したまま、彼女は光を鋭く反射する何かを手に太宰の背へと体当たりしてきた。
***
荒い呼吸。吸気と呼気が交互に喉を出入りするたびに、ひゅう、と枯れた音が立つ。
「……ッは、あ……ッ」
それを聞きながら、クリスは必死に呼吸を押しとどめていた。太宰の服をひたすらに強く掴む。少しでも気を緩めれば異能が暴れる。太宰はともかく、もう一人の女性を切り裂くのは望んでいない。歯をくいしばる。細々と息を吐き出しながら、精一杯の声で唸る。
「……無茶な、ことを……!」
「クリスちゃんなら止めてくれると思って」
平然とクリスを抱き抱えた太宰は言う。その背には包丁が突き刺さっていた――刃先だけ。
透明な硬いものにぶつかったかのように、女性が突き立ててきた包丁は太宰のコートへ刃を埋められずにいた。刃先だけが茶色のそれに穴を開けている。それ以上をと必死に包丁を押し込めようとしている女性の顔は鬼のようだった。歯をむき出し、眉を釣り上げ、目の前のものを大きく見開いた目で睨みつけている。その顔に驚きと焦りが現れ始めたのはすぐ後だ。
「何で……刺さんない……!」
その戸惑いを聞いた直後、太宰はクリスから手を離した。と同時にクリスは太宰の背後、正しくはそのコートの表面に張った高圧層による防御壁へと意識を向ける。刃物を弾く方向へ圧を加えれば、包丁は女性の手から難なく離れて宙へと吹き飛んだ。
「きゃッ」
防御壁の向こうで、どた、と女性が尻餅をつく。戦闘などに縁のない、民間人の動きだった。ならばとクリスは手の中に隠しナイフを滑り込ませる。
仕留められる。
相手はこちらの殺意に気付いてもいない。見えない角度からナイフを投げ上げれば、相手に気付かれることなく身動きの少ない標的の急所を的確に突くだろう。
尻をついた痛みに顔をしかめたままの女性を睨む。
一歩踏み込み、息を沈める。腕を後方へ引き、ナイフの柄を軽く握り込む。
――投擲は叶わなかった。
「やあ、お姉さん」
ふわり、と視界いっぱいに茶色が広がる。見慣れたコートの色。太宰がクリスの視界を遮るように滑り込んできたのだ。
「危ないことはしちゃ駄目だよ」
それは女性に向けた言葉だったのだろうか。は、と詰めていた息を吐く。太宰の一言で、戦闘態勢を取っていた全身が弛緩し落ち着きを取り戻す。
「……に、よ、何よ何よ!」
女性が喚く。ざわざわと騒ぎに気付いた通行人達が周囲を取り巻き始める。その中から警官がこちらに駆け寄ってきたのはすぐ後のことだ。太宰があらかじめ呼んであったのだろう、騒ぎを聞きつけて来たにしては早すぎる。
「愛されたかっただけなのに! どうしてみんな、私のことを愛してくれないの! どうして!」
女性が嗚咽と共に大声で泣き喚く。子供のような泣き方だった。ひとりぼっちで泣いている子供のような、誰かへと訴えるような叫び声。
――そこに、幼い少女の姿を見た気がした。
「……太宰さん」
泣きじゃくる女性が警官に連れて行かれる様子を眺めながら、クリスは呟いた。
「……愛されるって、そんなに大切なことですか」
答えはない。首を回して、クリスはそちらへと顔を向けた。
「どうしてあの人は泣いているんですか? 愛されないなんて、大したことじゃないでしょう?」
愛されるということがどんなことかはわかっている。それは心安らぐものだ。自分が自分として、嘘をつくことも演じることもなくそのままの自分として生きていて良いのだという確信を、他人から与えられることだ。けれどそんなもの、なくたって生きていける。
自分はこうして、生きている。
太宰は呆然とクリスを見ていた。クリスが女性を見ていたように、呆然と、まるで目の前のものを信じ難いとでも言うように。
「……君は」
「普通の人というのは生きにくいものなんですね。その程度であれほど取り乱すなんて」
クリスは改めて女性の方を見た。警官の両脇を支えられてパトカーに連れて行かれていくその背中を、見つめる。
――その一人きりの背中に見えた、亜麻色の髪の幼子の幻影を見つめる。
「クリスちゃんは、あの女性を可哀想だと思うのかい?」
「わかりません。あの方は他人ですから。でも」
目を細める。胸の中に湧き上がってきた何かに気付きたくなくて、それを押し潰すように眉根を寄せる。それでも、その心地良いほど冷たい清水のような感情は確かにそこにあった。
それは幼い頃に知り、ある人を失うと同時に失われ、それ以降クリスの中から失せていたもの。
「……懐かしいような気がします」
「そうか」
太宰は横で呟いた。
「ということは……覚えては、いるんだね」
なら、と太宰が笑みの含んだ吐息を漏らす。それは同情でもなく、落胆でもなかった。不思議に思ったクリスがそちらを見上げる。茶色のコートが風に広がる。白い包帯が日の光に映える。太陽を背に、太宰の口元が軽く持ち上げられる。
「まだ、間に合う」
手が伸ばされる。頬へと触れそうになるそれを、身を引いて躱す。宙へと留まった太宰の手は何かを掴み損ねたように指先をピクリと震わせた。あ、とクリスはその震えを視界の隅に捉える。
避けてしまった。
何かを求めるように、何かを留めるように、敵意の欠片もないままに差し出してくれたそれを。相手を慈しむように差し伸べてくれた、優しさを。
あの人の手に似た、指先を。
「だ、ざ」
ごめんなさい。
そう言おうとして、けれど見上げた顔に浮かんでいた表情が先程までのものとは違うことに気付いて、クリスは途切らせる。
そこにあったのは。
何かを思い出すかのような、弱い微笑み。
「……太宰さん?」
彼は――なぜ、それをこちらへと向けてくるのだろう。
「今はまだ難しいだろうけれどもね」
両手をコートのポケットに入れて、にこりと太宰は見慣れた笑みを浮かべた。先程までそこにあった表情は微塵も残っていなかった。
消してはいけないものを、消してしまった。
だというのに。
「……太宰さんは、どうして」
「うん?」
「どうして、わたしを気にかけるんですか」
この人はいつまでも、笑みというものを忘れない。
――まるで、その表情が幸せを呼び込むものであると言っていた、あの人のように。
「そうだなあ」
太宰は笑った。
「君に笑って欲しいから、って言ったらどうする?」
「……あなたは、ウィリアムと同じことを言うんですね」
「君の友人と同じか。そうかもしれないね」
太宰の笑みは変わらない。
「きっと、君の友人が君に抱いた気持ちと同じものを、私も君に抱いているのだから」
ウィリアムと同じ。
それは、何だろうか。
「さて、行こうか。クリスちゃん」
くるりと太宰は背を向ける。手を差し出すでもなく、しかし置いて行くわけでもない、その背中がそこにある。
「……どこへ?」
「決まっているじゃないか。デートの続き。今度はどこに行こうか」
「目的は達成しました。契約は終了したはずです」
「契約? 何のことだろうねえ」
くいと太宰は口端を持ち上げる。今度のそれは、何かを企むような笑みだ。それを見、そしてその笑みの奥にある眼差し――優しい土色を思い起こさせるその鳶色に、クリスは目を見開き、そして。
「……わたしをサボリの口実にしないでいただきたいですね」
微笑んだ。
「サボリだなんて人聞きの悪い」
「事実ですから」
「サボリじゃなくてデートだよ。ほら、行こう」
す、と太宰が片手を前方に差し出す。導くようなその仕草に従い、クリスは太宰の横へと進み出た。共に歩き始める。いつもは国木田と共に歩く街を、太宰と共に歩き始める。
妙な気分だ。
「今日だけですよ」
「また一緒にいたくなるような一日にしてみせよう」
「結構です」
「つれないなあ……」
「あははッ」
太宰が笑う。その笑みに、クリスもまた笑顔を返した。
***
後日。
ぶらりと椅子に座って背もたれにぐったりと寄りかかりつつ、太宰は数枚の写真を光にかざすように眺めていた。
「これかなあ、うーんでもこっちの方が……」
「朝っぱらから何をしている」
時間ぴったりに出社してきた国木田が、太宰の席の横へと来て腰に手を当てる。見下ろしてくる生真面目な顔へ、太宰は両手に扇状に持った数枚の写真を掲げ見せた。
「一枚あげるよ。どれが良い?」
「どれ、と言われても裏面しかわからんが」
「くじ引きだよお。どれが当たるかなあーん?」
「そもそも何だこれは」
言いつつ国木田は律儀に一枚の写真を引き抜く。ピラとそれの表を見――すぐさま固まった。おお、と太宰は声を上げる。
「それ、大当たりだよ国木田君! 羨ましいなあ! 今日の運勢は眼鏡が一日中曇らないと見た!」
「何だその地味に嬉しい運勢は。……じゃなくて!」
「おはようございます……何してるんですか?」
敦が太宰の横の席へと座りつつ、太宰と国木田を交互に見遣って首を傾げる。じゃん、と太宰は手の中の写真を敦に見せた。
「可愛いと思わない?」
「女性、ですか? 隠し撮りみたいな写真ですけど、事件の資料か何かですか?」
「私が撮った」
「ええッ……」
うわ、とでも言いたげな顔をして、敦が上体を遠のかせる。敦とは逆に、「大変だったのだよ、隠しカメラを三台準備していたのに二台も見抜かれて没収されてしまって」と笑う太宰へと身を乗り出したのは国木田だ。
「どういうことだ太宰!」
「これを見て彼女だと気付く君もどうかと思うけどね」
「説明しろ!」
「うふふ、内緒」
「もしやまだあるのか? 出せ! 全部出せ! 女性を隠し撮りその写真を見てニヤつくなどいかがわしいにもほどがあるわ! 恥を知れ!」
「君のその焦りようも恥ずかしいと思うのだけれど。そんなに見たいならしょうがないなあ、二十万ね」
「売るな!」
ぎゃんぎゃんと二人がいつものやり取りを始める。戸惑う敦の元に、鏡花がとことこと歩み寄って服を軽く引っ張った。これ、といつの間にか手に入れたのか国木田が持っていた写真を敦に見せてくる。
めかしこんだ女性が映り込んでいた。街を歩きながらこちらへと笑みを向けている。太陽光がカメラに映り込んでいて一部白くなってしまっているが、その中で微笑む女性は神々しくさえ見えた。金と銀の輝きを灯す亜麻色の髪は緩やかに揺らぎながら風に広がり、柔らかな緑を添えた青の眼差しは光を差し込んで透き通っているかのように見える。耳元に光る華奢な耳飾りに、清楚な色のシャツが華やかな女性を引き立てていた。胸より上しか写っていないものの、まるで雑誌の一ページのように被写体が美しく映えている。
「綺麗な人だね」
鏡花に言えば、彼女もまた頷いた。
「綺麗。……綺麗な、光の花」
「え? ああ、うん、そうだね」
「闇の花なんかじゃない」
鏡花は何かを思う眼差しで写真を見つめている。その様子に戸惑いつつも、敦は鏡花の横顔に優しく微笑んだ。