[花惑う]
中原さんと楽しくお話するよ。
印象がころころ変わる夢主を書きたくて書きました。
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ポートマフィア。港町ヨコハマに根を下ろす、非合法組織。海外からあらゆるものが流れ込んでくる港町において、闇を支配し夜を束ね暗黙の秩序を司る者。悪く言えば悪の親玉、良く言えば政府と路線を異にする治安維持集団だ。流入してくる武器や人間を管轄し、彼らが街の平穏を乱す存在だと判断したのならすぐさま排除する、漆黒の王冠を抱いた黒き番犬。その絶大な権力により、ヨコハマの街は比較的平穏な日々を過ごしていた。
が、非合法組織とはいえマフィアがマフィアとして存続するには地元の理解が少なからず必要となる。つまりはそう、地域貢献だ。言い方を変えるなら商売である。法のない貧民街で警察じみたことをする場合もあるし、法が整っていなくて対応できない不発弾の処理を代行することもある。治安の悪い地域で警護任務に当たることもあった。そのほとんどが下級構成員の仕事となるが、任せきりでは彼らの気が緩んでしまう上、外部の商売敵に彼らを買収される危険もある。
というわけで、幹部の出番というわけだ。
「……土産でも持ってくれば良かったな」
まあいい、と一人呟きながら、中也は人気のない住宅街を歩いていた。中也が向かっているのはポートマフィアから卸した武器を売り捌いている武器屋だ。管轄外に武器が流出する危険は否めないものの、世間に出回る武器の種類や量をポートマフィアが制限し選別することによって武力的優位を保つことができる。収入も入るので利点の方が大きく、つまりポートマフィアの重要な要素の一つでもあるため不定期に幹部や準幹部が巡回をすることになっていた。
武器屋はヨコハマ租界の隅にある。そこなら警察の目が届きにくいからだ。尾行に気を使いつつ、雑多に立ち並ぶ背の低い建物の群れの間を抜け、路地の隅に立つ古びたアパートに辿り着く。周囲に誰もいないことを確認、誰一人住んでいないそこの一〇一号室の外れかかったドアノブを回した。勿論鍵がかかっていて開かない。それを金庫のダイヤルのように何度か左右に捻れば、カチャリと鍵の開く音が聞こえてきた。
扉を開け、電気一つないワンルームに足を踏み入れる。閉めた扉から複雑に入り乱れる施錠の音を聞きつつ、中也は迷わず台所の床へとしゃがみ込んだ。床下収納の取っ手からはみ出た錆びたネジを床へと押し込め、カチリという音を確認、そのまま取っ手を引く。
そこにあったのは収納空間ではなく、マンホールの中のように地下深くへと続く鉄の梯子だ。
「いつ来ても辛気臭えな」
ぼやきつつ、中也はその階段に手をかけることなく縦穴の中へ飛び降りた。ゾッと背筋が凍るような落下の感覚。すぐさま足元に見えてきたのは光、そして小綺麗な木目のフローリングだ。
ふわり、と重力操作をして静かに地下室へ降り立つ。そして、顔を上げて地下に広がる空間を一周見回した。暖かい黄味がかった照明が映える、落ち着いた雰囲気の店だ。地上のボロアパートとは比べ物にならない。
「よお、邪魔するぜ」
「おやおや、いらっしゃいまし」
地元の自転車屋を思わせる工具の並んだ壁の向こうから、温厚そうな老店主がにこりと笑いかけてくる。店員は彼一人だ。ポートマフィア要の武器屋にしては呆気に取られるほどの簡易なセキュリティだが、店主はああ見えて戦闘向きの異能力者なので何も問題はない。
「お久しゅうございますな」
「ああ。調子はどうだ」
「いつもと変わらぬ毎日ですよ。最近新規のお客さんが来ましたけども、同じ数のお客さんが来なくなりましたので何も変わっておりませぬ」
「そうか」
なら良い、と中也は店内を見回す。壁には埃を被った銃火器の類が収集品のように引っさげられ、そのそばに置かれた棚には銃弾の黄ばんだ空箱が整然と置かれている。ショーケースでは型の違う手榴弾が値札を横に従えていた。商品そのものはカウンターの奥の部屋に山積みになっていて、店主がそこから必要分を取り出してくるシステムだ。
見慣れた光景だった。
ただ一点を除いて。
「店長さん」
銃弾の棚の前でしゃがみ込んでいた人影がすっくと立ち上がりこちらを見遣る。亜麻色の髪が特徴的な女だ。
「この三番の銃弾、在庫どのくらいあります? ……あ」
はた、とその青と目が合った。
知っている女だ。忘れるはずもない。Qの異能で焼けた街で対峙した青だ。ギルド構成員と思しき、探偵社に潜り込んでいたネズミ。あの後探偵社員に始末されたと聞いていたが、生きていたのか。
「手前……」
ぎろりと殺意をたぎらせる。探偵社との抗争は当面禁止との命が首領から下されたが、この女ーー
クリス・
マーロウは探偵社員ではない。どこの所属かもわからない未知の相手だ。ここをどうやって嗅ぎ付けてきたのかはわからないが、仮にポートマフィアの敵としてこの街に居座っているのだとしたら容赦はしない。
今度こそ、殺す。
明らかに敵意を露わにした中也に対し、
クリスは緊張感の欠片もない様子でぱちぱちと目を瞬かせた。
「本当に来たんだ」
「……あァ?」
脅すような中也の声に、
クリスは「太宰さんがね」と中也が忌み嫌うその名をさらりと口にする。
「中也と会ったらよろしく言っておいて、って伝言を頼まれていたから。太宰さんには行き先を言っていなかったし、太宰さんが中原さんの行動を逐一把握しているはずもないから不思議だったんだけど……」
当たったねえ、と
クリスは駄菓子の当たりを引いた子供のようににこやかに言った。戦闘時とはかなり雰囲気が違う、まるで無駄に懐いてくる子供のような朗らかさだ。敵意が削がれる。舌打ちをし、それに、と中也は眉をひそめた。
太宰、か。
「あんにゃろ……」
不定期とはいえこの巡回は中也の気紛れで行えるものではなく、あらかじめ首領の了解を得てから実施される。あの自殺野郎は不定期巡回の予定を何らかの方法で把握していたのだろう。後で首領に報告して、今後の巡回計画を見直さなくてはならないようだ。
「あいつのことはどうでも良い、手前だネズミ野郎。何でここにいやがる」
「何で、ってそりゃ買い物だよ」
中也がビシリと指差す先で、奴は朗らかに笑った。そばの銃弾の棚を親指で指し示す。
「わたしが使ってるやつ、どこに行ってもなくて。あれに性能が劣るものしか置かれてないからどうしようかと思っていたんだ。ねえ中原さん、取り寄せできないかな?」
「俺に言うな」
「だって君、ポートマフィア幹部でしょう?」
にこりと
クリスが無邪気に笑う。
「どこの店も品揃えが同じだから奇妙だと思ってね、調べてみたら全部ポートマフィア経由で仕入れをしてるとわかった。つまり彼らに販売品を選択する権限がない。なら、権限があるだろうポートマフィア上層部に直接訴えれば良い」
女の笑顔を睨め付ける。調べてみたら、などとあっさりと言っているが、密輸品の輸送経路など外部の人間が簡単に調べられるものではない。やはりこの女、只者ではないようだ。正直な話、特定の品の取り寄せはできないわけではない。それを担当している構成員に個別に頼めば良いだけだ。が、それをこの女のためにできるかと聞かれたら否である。
「手前、自分の状況わかってんのか?」
「勿論わかってるよ、君がわたしを殺す隙を今も見出そうとしていることも。――ああ、そういえば何かおめでたいことでもあったの?」
「あ?」
突拍子もなくそう言い、
クリスは中也へ歩み寄りながら腰の後ろに回していた黒いウエストポーチの中から何かを取り出した。リボンで口を閉じられた洒落た袋だ。
「太宰さんから預かっていたんだよ。中也へのプレゼント、だって。何かあったの? 誕生日?」
「ちげーよ」
特に何があったわけでもなく、代わり映えのしない毎日を送っていただけだ。そもそもあいつが誕生日にプレゼントを用意するような男だとも思っていない。怪しいことこの上なかった。
が、
クリスはこちらの嫌悪など全く気にしないとばかりにその袋をズイと押し付けてくる。仕方なく受け取り、外装を眺めた。どこかの量販店のラッピングサービスでやってもらったようだ。奴にしては手の込んだことをする。
相手が太宰とて、自分のために準備されたものを全面拒否するほど礼儀がわかっていないわけではない。重さと形状からして爆弾の類ではなさそうだし、探偵社というポートマフィアとは異なる世界に身を置いたことで奴の内面に何か変化が起きたのだとしたら、受け取らないのは悪い気がした。
「中身は何?」
クリスが興味津々とばかりに袋を凝視する。
「るせえ、俺のモンだろうが」
「気にならないの? 太宰さんからのプレゼント。わたしは気になる」
「手前の都合なんざ知るか」
いつも何かを隠すように曖昧なことばかりを言う印象だったが、この女、案外ずけずけと物を言う性格らしい。
「む」
中也の返答に機嫌を損ねたのか、
クリスはじとりとこちらを見遣ってくる。ぐ、と顔が引きつったのは、その表情の豊かさ故だ。
なんだこの、いかにも普通そうな女は。戦闘時とまるで違いすぎて混乱しかけている。殺意も敵意もない、無防備そのものの民間人がここにはいた。突如あの殺伐とした気配がこの間の抜けた女から発せられたのなら、おそらくは驚愕で体が動かないだろう。例え戦闘慣れした中也といえど、その一瞬を突かれたのなら防御は難しい。
何かを策している時の太宰よりもおぞましい、何を考えているかわからない底の知れなさ。
たじろぐ中也にちらりと視線を向けてから、
クリスは興味がなくなったかのように顔を逸らした。店主を呼び、カウンター越しに何やら会話する。希望の武器は米国産で、ポートマフィアが市場への出回りを制限している代物だった。入荷を店主に断られ、それじゃあ、と代用品を検討し始めている。その会話を横で聞きつつ、中也は手の中のものを見つめた。
あの太宰からのプレゼント。気にならないはずがない。嫌な予感はするものの、もしかしたらという期待もないわけではない。
リボンを解き、袋の口を広げて手を突っ込む。掴み出したそれを見、そしてーー迷わず床にぶん投げた。
「あンのクソ太宰!」
床の上にベコンと叩きつけられたのは手に乗るほどの箱だ。その中身は湯で溶かして作る粉末ココア。一回一袋、カップに入れて湯を注ぐだけで作れる代物である。それだけならただの贈り物かもしれないが、問題はそのパッケージだ。子供向けのイラストに「カルシウム豊富!」と吹き出しがついていた。なぜ太宰に選ばれたのがこの商品だったのか、それにすぐさま思い至れてしまった自分の自覚が憎い。
「んなもんいるか!」
少しでも期待した自分が馬鹿だった。あいつがどこに所属しようが性根の腐り具合が良くなるはずもなく、太宰は太宰だったらしい。
「君達はいつも楽しそうだなあ」
カウンターに向かって熱心に店主と会話していたはずの
クリスが楽しげに声を上げる。見ていたのか。
「羨ましいよ」
「ふざけてんじゃねえよネズミ野郎。くだらねえことに加担しやがって」
「嫌だなあ、わたしはそんなつもりは全くなかったよ。太宰さんから頼まれた通りに、それを君に渡しただけ」
言われてみれば確かにそうだ。反論できず、中也は仕方なしに口を噤む。そんな中也に構わず、
クリスは何かを思い出したかのように人差し指を立てて振った。
「面白そうだとは思ったけどね」
「思ったのかよ!」
「面白いとわかっていることをやらない理由がない」
クスクスと
クリスは口元に手を当てて楽しげに笑う。その整った笑みはわざとらしくもあり、本心のようでもあった。掴みづらい相手だ。獣を両断する刃を思わせる時もあれば、日常を楽しむ街中の人間と大差ない時もある。どうやら探偵社と親しいらしいがこうして地下の武器屋を頼りにしてくる辺り、彼らと仲間というわけでもないらしい。
再びカウンターに向き直ってペンを手にした
クリスを横目に、床にぶん投げた箱を拾い上げる。外箱は歪んだが、中身に支障はない。中身だけを取り出して部下にわけてやろうと思った。太宰は無論許さないが、この粉末を開発し商品化した人々の努力と労力に罪はない。何となしに箱を眺めつつ、ちらとそちらを見遣った。店主と会話を再開しつつ紙に何やら書き込んでいる、その背中を睨む。
「そうだ、中原さん」
ふと
クリスがくるりとこちらを振り返ってきた。その楽しげな表情は何かを企んでいるらしい。
「断る」
「何も言ってないよ」
「手前も太宰も似たようなもんだ、何企んでるかは知らねえが断るからな」
「……太宰さんと一緒にされるのは非常に不愉快だな」
ふと笑みを消し、
クリスは見慣れた鋭い目付きで中也を睨む。中也の知る
クリス・
マーロウがそこにいた。少し安堵してしまったのは、先程まで見知らぬ知人がいたからだ。
「取り消して」
「お、おう……?」
「良し」
思わず頷くと、満足したように再びにこやかな笑みを浮かべた。やっていることは太宰のそれと似たようなものなのに、同じだと言われるのは嫌なのか。何を考えているのかさっぱりわからないのでそこの辺りの配慮が非常に難しい。
「手前、太宰のことが嫌いなのか」
「嫌いも好きもないよ、敵は敵だ、気に入らない敵と一緒にされたら誰だって嫌でしょう?」
「気に入らない、か」
呆れるほどの連携具合だというのに、太宰のことを敵と認識しているというのが驚きだ。彼女のことを認め許す気にはならないが、太宰を快く思っていないという点では一定の評価はできる。
「……ま、こんなところかな」
クリスが何かを書き終えたらしい、改めて背筋を伸ばして手にしていたペンをカウンターの上に置く。
プレゼントの包装袋を店主に渡して処分を頼みつつ、中也はさりげなく
クリスの手元を覗き込んだ。白い一枚の紙に英字が並んでいる。彼女はどうやら日本語が書けないらしい。会話に苦労したことがない相手だったからか、意外な一面のように思えた。そんなことをこっそりと思いつつ、中也は「じゃあ」と口を開く。
「仮に、太宰を陥れるようなことを俺が持ちかけたらどうする」
「内容による」
拒否など一切せず、
クリスはパッと顔を輝かせて隣に立つ中也へ身を乗り出した。
「何かあるの?」
「……ノリが良すぎんだろ」
「面白いとわかっていることをやらない理由がないからね。それで? 何がある?」
楽しみで仕方がないとばかりに顔を覗き込むような仕草をし、
クリスは尋ねてきた。特に何かを考えていたわけではなかったので即答はできず、そうだな、と顎に手を当て考える。
「……あいつが泣かせた女達の連絡先なら」
「泣かせた? 怪我でもさせたの? それとも拷問? 女は捥ぐより同情してみせた方が簡単に情報吐くよ?」
「手前も気を付けろよって言おうとしたが、その分じゃあ心配ねえな……」
むしろ彼女に手を出したのなら太宰の方が危ない気がする。
「泣かせたってのはそういう意味じゃねえよ、捨てたって意味だ」
「廃棄か……」
「違えよ」
悟ったかのように深刻な顔をしているが、全くもって間違っている。これほど天然ぼけた女だとは思っていなかった。会話の内容こそ物騒だが、その口調、仕草、発想の仕方は得体の知れない異能力者とは思えないほどに自然で間抜けている。
あの冷え込んだ青の眼差しが、今この場には微塵も見当たらない。
むしろ。
「詳しいところはわからないけれど、太宰さんを恨んでる女性が一定数いるってわけか。なるほどそれは面白い。女性というものは一般に群れると強い生き物だからね。一つの恨みへの共感度合いに伴って執着と結束と反発が強くなる」
生物学者のように客観的かつ数値的に語りつつ、
クリスは心底楽しげに目を細めた。青が煌めく。氷のような固体とは違う、水面のような青だ。波打ち、揺らぎ、光を反射して輝く湖面。
「じゃあ彼女達に太宰さんを標的にさせよう。何か案は?」
「太宰の野郎の住所を知らせるとかは」
「悪くないけど直接的すぎるかな。中原さんと共謀したってことを知られるのは良くない。知らせるなら行きつけのお店とかかなあ、彼女達の電子端末にそれを表示させるバグを発生させるか、その周辺に誘い出して太宰さんの姿を目撃させるか……」
真剣に考え始めた
クリスを、中也は呆然と眺めた。
「……ガチじゃねえか」
つくづく敵に回したくない相手だ。懐柔できたのならかなり役に立つのだろうが、親しいはずの探偵社員に向けてもこの様子なのだから敵も味方も関係ないらしい。
探偵社と親しく、ギルドに繋がりを持ち、ポートマフィアに楯突く者。未知の異能を所持し情報操作を得意とする謎多き異能力者。仲間と呼べるものを一切持たずにこの街を駆ける、殺戮を知り娯楽を知る女。
――こいつは一体、何者だ。
「うん、そうしよう」
何やらぶつぶつと呟いた末にそう言い、
クリスはポンと両手を合わせた。そして店主に声をかけ、あるものを渡してもらう。それをそのまま中也へと差し出し彼女はにこりと笑いかけてきた。
未記名の小切手だ。
「というわけで、これ」
「……は?」
「手数料と口止め料。五十万円でどう?」
「はあ?」
「タダでポートマフィア幹部と共謀なんて危なくてできないからね。君だってわたしと組んだことが露見したら困るでしょう?」
だから、と
クリスはそれをカウンターへ置き、トン、と指で叩いた。書け、ということらしい。口止め料というのは請求される類のものではないはずなのだが。
「このクソネズミ……」
「幹部殿となればこの程度、痛くも痒くもないじゃない。ちなみに拒否したなら」
手にしていた軸の黒いボールペンをかざし、
クリスは形の良い笑みを向けてくる。
「中原さんがプレゼントを受け取ってちょっと嬉しそうにしている様子を撮った写真をポートマフィア内に配る」
「ッて手前それまさか」
「隠しカメラ」
それこそカメラの前で気取る女優のように、女は微笑んだ。
「特大スクープ! 実力派幹部殿の意外な一面! ってね。しばらくはポートマフィア内の話題は君のことで持ちきりになること間違いなし」
「ふざけんなちょッそれ渡せ!」
「嫌だ」
ボールペンを奪い取ろうとした中也の手をひょいと躱し、
クリスはにやりと笑みつつカウンターを見遣る。
「あれにサインしてくれたら渡すけど。あと、今のわたしはこの店の客だから、ポートマフィア幹部が管轄下の店で客を殴ったと知れたらそれこそ大問題になる」
ぐ、と握っていた拳が宙で行き場をなくした。確かにその通りだ、幹部とはいえ組織の客への横暴は許されない。綺麗に丸め込まれたことへの苛立ちに、中也は奥歯を噛み締める。
「……ッの野郎……後で覚えてろ」
「いや、たぶん忘れる」
「真面目な顔でズレたこと抜かしてんじゃねえよ」
盛大に舌打ちし、中也はカウンターに置かれたそれへサインを書き込んだ。そしてすぐさま
クリスからボールペンを奪い取り、握力で握り潰す。パキ、と手の中で隠しカメラ機能付きの筆記具が割れた。あっという間の出来事に、しかし動じることなく
クリスは目をすがめる。
「気に入ってたのに」
「文句言うんじゃねえよ仕掛け人が」
「まあ良いや、目的のものは手に入ったから」
「目的のもの?」
頷き、
クリスはカウンターに置かれた小切手を手に取って眺め始めた。金が欲しかったのだろうか、と思いかけ違うと気付く。こいつがここにいる理由は武器の調達だ。目的のものが手に入ったということは、代替品の目処でもついたのだろうか。そんなことを思う中也へ、
クリスは楽しげな表情をそのままに小切手から目を移してきた。
「必要なものを書いた紙は店長さんに渡した。それを取り寄せて欲しい」
「取り寄せ、って……銃弾のことか。諦めたんじゃねえのかよ」
「まさか。ここに幹部殿がいらっしゃるのに諦めるわけないじゃない」
ひらりと小切手を振り、女は目を細めて笑む。先程までの子供っぽい無邪気さを成長の過程で置いてきたかのような、大人びた妖艶な笑みだった。まとう雰囲気もまた、瞬時に切り替わる。ぞくりと得体の知れないものを前にしている悪寒が背筋を滑り落ちる。
「使い慣れている最上級品を使いたいからね、妥協はしないよ。――銃弾以外にも数点書き込んだ。時間がかかるとは思うけど、なるべく早く頼むよ」
「何ほざいてやがるネズミ野郎。誰が手前の指示なんざ聞くか」
「君が駄目なら他の人に頼むけど、君はそれで良いの?」
「何のことだ」
クリスは腕を組んだまま、ひらりと再び小切手を振る。中也が書いたものだ。金額は五十万。この女に渡す金としては思うところがないわけではないが、金額としては大したものではない。それが何の脅しになるというのか。
余裕を見せつける中也に対し、形の良い笑みを浮かべ、
クリス・
マーロウはとんでもないことを言い放った。
「これを森さんに見せる」
「はあッ?」
「森さんはびっくりするだろうなあ、まさか敵対関係であるわたしが、中原さんのサイン入りの小切手を持っているんだもの。何の取引をしたのか調べざるを得ないよねえ。中原さん自身も背信問題に立たされるし、幹部っていう階級を配慮しても最悪死刑かな」
チラチラと小切手を扇のように振りながら、
クリスは笑みを絶やさない。
「まあ、君がわたしの頼みを聞いてくれると言うのなら、これを廃棄してあげても良いけど?」
「こッの野郎……!」
今すぐこの女をぶっ飛ばしたい。
「それが"目的のもの"かよ!」
「元々ここに来た理由が武器関係の補充だったからね。太宰さんから中原さんへの伝言とプレゼントを受け取った時から考えていたんだよ。こんなに上手くいくとは思ってなかったけど」
ふふ、と小切手で口元を隠しながら上品に笑うこの女に殺意を覚えない方がどうかしている。ぐ、と握り込んだ拳はしかし振りかざすことは叶わなかった。
「じゃあそういうことで。後日受け取りに来ますね」
店主にそう言い、
クリスはひらりと店の奥へと向かう。この店の入り口と出口は異なっているためだ。店に入る時は両手両足を使って梯子を降りる必要があり、店を急襲しようにも武器を構えながら店内へ侵入することができない。その隙に店主が突入者を排除できる。逆に店から出る時は人一人が通れるほどの細い通路を通らなければならないので、来店者は店内へ背中を向けることになりもしもの時始末がしやすい上、もし仮に出口から敵が押し寄せてきたとしても一人ずつしか通れないので店長一人でも十分に対処できる。
くるりと店内へと背を向け、
クリスは警戒の一つもない様子で細い通路へ向かっていく。足取りは軽い。妖艶な女というよりも公園で遊ぶ子供に近い。
また、この女の雰囲気が変わっている。
「おい」
低い声で呼び止めれば、彼女はぴたりと立ち止まった。半身振り返ってきた青の目に、問う。
「――本当の手前は"どれ"だ」
無邪気な子供か、陽気な少女か、相手を見定める娼婦か、人当たりの良い女優か、それともーーそれ以外か。
女はそこに佇んでいた。明かりの灯る店内と闇に沈む細い通路、その狭間に佇みながら、何かを思考するように数秒、瞬きを繰り返す。
ふと、その表情が笑みを形作った。ゆるりと目を細め、形の良い唇が弧を描く。女は人差し指を立てて己の口元へ当てた。亜麻色の髪が無風の中でなぜかそよぐ。細められた眼差しが青く澄み、湖面のように中也を映し込む。その青が単色ではないことに気付いたのは今が初めてだ。
深緑、風にそよぐ木々の色。青に差し込んだその色が、青を青よりも深く複雑な色に見せている。
瞠目したのは、その色が陽だまりの下の湖畔のような柔らかさを思わせたからか。
「ご想像にお任せするよ」
女は言い、微笑む。そして中也へ背を向け、闇に浸った通路の奥へと溶けるように歩み去っていった。
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太宰治なる探偵社員が社にも下宿にも顔を出せない日々が続いていると知るのはその数日後のことである。
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