第2幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
外は晴れ、人々は楽しげに往来している。しかし風はクリスの心をさらに冷やそうとしているかのように冷たい。脚本を近くの商店街のコインロッカーに預け、クリスは指定された場所へと急ぐ。
大通りを逸れて細い道へ。複雑に折れ曲がったその道をしばらく道なりに行けば、古めかしい骨董店がある。その前を通り抜け、さらに奥へ。しばらくすれば景色は、倉庫が立ち並ぶ人気のない海岸沿いに変わった。
倉庫と倉庫の間から見えるのは、街を見下ろしその威厳を形にしたかのような高いビル――ポートマフィアの本拠地だ。
鋼を思わせるそのビルを背に、手紙を寄越した男は佇んでいる。クリスの来訪に合わせ、男は暗がりから姿を現した。黒衣が男の輪郭を闇に溶け込ませる。
「来たか」
「こんなに素敵なファンレターをいただいてしまっては、来ないわけには行かなかったからね」
ポケットから封筒を出し、クリスは肩を竦める。
「『至急指定の場所へ。さもなくば迎えに伺いたく候』……簡潔でわかりやすい。わざわざここに来たのだから、わたしはもう帰っても良いということかな? 芥川さん」
「要求に応じたならば」
咳をしつつそう答え、芥川はクリスを睥睨する。彼の背後からたくさんの視線を感じるのは、部下を控えさせているからだろう。彼の命令一つで銃弾がこの場を飛び交う。
「それは手紙には書かれていなかった」
困ったなあ、とクリスは明るい声を出し、手紙を人差し指と中指で挟んでヒラヒラと振る。
「そして君の要求というのは、抵抗なしに手枷をはめてついて来いというものだ、そうだろう?」
「然り。これは首領からの直々の命」
今回は異能力をすぐに行使するようなことはしないらしい、芥川は落ち着いた様子で話している。しかし聞き捨てならない言葉が聞こえた。
首領の命、か。
「……なぜ」
「探偵社に出入りする人間はリストアップされている」
やはりそこからか。大方、この芥川がご丁寧に報告した線も否めないが。
「つまりわたしは探偵社の人質か」
「左様」
「これから探偵社に何かするつもりなのかな?」
「貴様に言うことはない。来い、女」
芥川の部下の数人がこちらに駆け寄り、銃を構えて取り囲む。従わなければ銃殺されるのだろうか――普通ならばそうなのだろう。ポートマフィアの首領たる人が、生きて連れて来いという命令をこの殺戮に適した芥川という男に下すとは思えない。けれど彼はクリスの捕縛を命じられた。
探られているのだ。クリスの実力を、ポートマフィアの首領殿に。
姿の見えない敵に見られている不快感。
「……君達の目的は虎の異能力者か」
「……やはり人虎を知るか。ただの探偵社の顧客ではないようだな」
「なぜ?」
「貴様に答える必要はない。来い、と言っている。来ぬならば――力尽くで連れて行くまで!」
クリスを取り囲む銃が一気に殺意を帯びる。全方位からの銃撃。数え切れないほどの銃弾が飛来してくるだろう予感の中で、クリスはその場で目を閉じた。
逃げ切ることはできる、しかしそうするのならば手は抜けない、全力で相手をしなければさすがのクリスも無傷ではいられない。つまり、彼らに自分の実力を見せることになる。
隠し切れない、か。
目を薄く開ける。視界のあちらこちらで銃火が灯っているのが見えた。
――幾度も経験してきた、隠匿による平穏が壊れる瞬間だった。
風がクリスの髪の先を揺らす。洗濯物を揺らすような心地良いものではない。銀色が視認できるような、鋭く尖った半月状の刃物だ。それはクリスへと飛来してきた全ての弾丸を両断し減速させた。空薬莢の落ちる音と共に、弾丸が落ちる音がいくつも発生し落下音の大合唱を奏でる。
銀色が断ったのは弾丸だけではなかった。鋭利な風はクリスの周囲を旋回した後、その範囲を瞬時に広げる。
銀色に血の色が乗る。赤い一閃が宙を舞う。
何人分もの絶叫が迸った。銃器が寸断され弾丸と同様地に落ちる。クリスを取り囲んでいた黒服達もまた、一様に膝をついて己の腕を抱えた。
ボタタ、と粘性のある液体がとめどなく流れ落ちる音。路地の地面がすぐさま血色に満ちる。噎せ返るような血臭が生ぬるく立ち昇った。
「な、に……?」
芥川が声を漏らす。その目は驚愕に見開かれたまま、瞬きする間もなく作り出された惨状を見つめている。
地面をぬらりと覆う赤。それを生み出す男達の腕の切断面は平らで、そしてその先についていたはずの手は肉片すらどこにも見当たらない――粉塵と化して宙に消えたのだ。
「言ったはずだよ、芥川さん」
光る風を周囲に従えながらクリスは呟いた。その手にあった手紙はみるみるうちに削れ、塵となり、宙に溶けるように吹き飛んでいく。
「わたしに何もするな、と。……それでもこうして来たというのなら、今度は絶対的な畏怖を君達に与えないといけない。残念だけれど」
完全に切り刻まれ宙に溶けていった手紙を綿毛のように優しく手放し、クリスは相手を哀れむような笑みを浮かべてみせる。
「君に拷問のやり方を教えようか」
***
血溜まりの中でそれは対峙していた。一方は女一人、もう一方は銃器を手にした大勢の黒服と一人の凶悪な異能者。こうして見れば圧倒的に女の方が不利だというのに、その西欧を思わせる頬にあるのは断罪者のような冷えた無感情だ。
「一つ訊く」
つ、と人差し指を水平に持ち上げ、クリスは芥川の背後にいた部下の一人へとそれを向けた。びくりと肩を揺らしたその男に指先を向けたまま、クリスは芥川へと視線を戻す。
「君達はなぜ、虎の異能力者を狙っている?」
「……答える必要は」
ない、と芥川が答える前に、クリスに指差されていた部下が悲鳴を上げた。バッと振り返った芥川の目に、彼の手が細かく刻まれ宙に肉塊を消していった様子が映る。手一つ分の血が飛び散った。
「懸賞金は七十億」
クリスが問いを続ける。
「誰が賭けた?」
「貴様に答えることはないと、言って」
再び言い切る前に悲鳴。今度は両腕が血に変わった。芥川の頬を風が撫でる。その風は、皮膚を切るかのように鋭く、冷たい。
両腕をなくした男の周囲は赤い液体で満ちる。そこへさらに液体が落ちていく。両足すらも刻まれつつあった。男が四肢を失った状態で地面に転がる。溜まったそれは広がりを止めない。どこまでもどこまでも、地面を広がっていく。悲鳴は既に人の声を成していない。
「貴様……」
「拷問というのは本人を痛め付けるだけがやり方じゃない。自分よりも他人が酷い目に遭っている方が、次の標的は自分なのではないかという想像的恐怖によって人は錯乱するものだ。そしてそれは直接激痛を与えられるよりも大きく膨張しやすい。人は想像で死ぬほど脆く容易いのだから」
何かを読み上げるような声に感情はない。死体への過程を順調に進んでいく人間を見る青の目にも、悲しみも喜びも何もなかった。
そこにあるのは慣れだ。朝起きると同様、話すと同様、歩くと同様、意識せずとも行える動作をする時の無が、今のクリスには宿っている。
「もう一度問うよ、芥川さん。おそらくそれを知っているのはこの場で君一人だ。――虎の異能者に七十億の懸賞金を賭けたのは誰?」
「何度も言わせるな」
芥川がクリスを睨みつける。
「貴様に話すことなど、何一つとしてない!」
「……そうか」
芥川のその答えに、クリスは少しばかり目を伏せただけだった。
「残念だ」
悲鳴が途絶えた。残っていたはずの胴体が消える。頭部すら消える。パシャ、と水たまりにさらに水が落ちた音だけが木霊した。
絶句による沈黙が場を支配する。それは斑模様を描きながら揺蕩う。波打ち、歪み、しかしそれでも誰も何も発しない。浅い呼吸音がただ繰り返される。
「切り刻まれ肉塊すら残さない最期になりたくなければ、わたしに何もするな。……わたしは本当のことを言ったんだ、君ならわかってくれると思っていたんだけど……本当に、残念だ」
「……くッ」
「次は誰が良い? 芥川さん」
静かに名前を呼ぶ。しかしそれに芥川が答える様子はない。ただ、睨むようにクリスをその憎悪の眼差しで見つめている。そして――一歩、その場から前に進み出た。
「芥川先輩」
その行動の意味を察した後方の女性構成員が声を上げる。それを無視し、芥川はクリスを睥睨した。
「……次、か。次などありはせぬ」
その口元が歪に笑む。
「僕が相手になろう」
「……それは嫌だな、手間がかかる」
「それは重畳。己の運を恨め、女」
言い終わるや否や芥川の黒衣が変貌した。裾が伸び、牙を剥く。
「【羅生門】!」
黒い獣が銃弾の速さでクリスに飛びかかってきた。ち、と舌打ちしクリスはその場を飛び退く。地面が抉り取られ破片が飛ぶ。転がるように後方へと下がったクリスへ衣刃は追随した。次々と地面に穴が空き、外壁が破壊される。避け続けるのは困難だ。
「【テンペスト】……!」
牙に向かっていくつもの銀色の風刃が迸る。しかしそのことごとくが黒衣の獣の喉へと呑み込まれた。
「手ぬるい!」
牙がクリスへと到達する。しかしそれは、その皮膚も服も、少しも裂くことはできなかった。壁に阻まれたように黒獣が宙に留まり、その鼻先にある何かを噛み砕き続ける。
氷の壁だ。無限に万物を食らう【羅生門】に対し、無限に防御壁を生成しているのだ。
無限同士の拮抗、終わりはない。
「ち……!」
ならばと芥川は衣刃をさらにクリスに向けて放った。それは地中へと潜り、切っ先を隠す。何かを察したクリスが防御壁の裏で横に転がった。
地面から突き出た黒い一閃がその残像を貫く。
黒衣を伸ばしたまま、芥川は回避を成功させた敵を見遣った。クリスもまた、黒い敵を睨み付ける。動の中の静、殺気の中の間合い。
「仕留め損ねたか……勘の良い女だ」
「褒めてくれてありがとう」
そして交わされる中身のない会話。
二人は睨み合っていた。視線はどちらとも逸らされる様子はなく、瞬きする気配もない。硬直した緊迫感がそこにはある。その場にいる大勢のポートマフィア構成員、その全てが背景と化していた。
――突然、前触れもなく、ス、とクリスが全身から戦意を消した。
そのまま気負いなく背筋を伸ばして直立する。避けることも仕掛けることもできないその体勢を取った女に芥川は驚愕し――そして気付いた。
冷気が足元から立ち昇っている。ひやりとした白い靄が喉元を漂っている。見下ろし、そして芥川は事態を察した。
氷が足を覆っていた。芥川だけではない、構成員の全員が、地面の上を覆う氷に足を固定されている。血の混じったそれは赤黒い透明の足枷と化して芥川達を縫い止めていた。足を持ち上げようとしてもヒビ一つ入らない。いつの間に、と芥川は顔を上げた。
そこには誰もいなかった。女の姿が消えていた。
――逃げられたのだ。
クリスには芥川と真正面からやり合う気は元よりなかった。初めからこれを成すために芥川の意識を戦闘へと向けたのだ。芥川は基本、その場から動かずとも戦闘が可能である。今回もそうであったように――否、動く必要のない戦闘へと持ち込まれていたのだろう。そして芥川が戦いに専念しているその隙に氷を生成、逃亡の準備を終えた。最後に足元へと意識を向けさせるため、戦意を解くという異様な行動を取る。
結果、その策略通りに芥川はクリスを逃した。
「く……!」
唸る。それでも事態は変わらない。相手に戦闘経験があることは無論見込んでいた。けれどまさか、敵を前に逃亡を選択するような輩だとは思っていなかったのだ。あれほどの強さなら芥川から逃げる必要はない、そういう相手だ。なのに、まさか。
「……許さぬ」
敵前逃亡。
己よりも強き者によるそれは、芥川にとって屈辱そのもの。
身に染みた憎悪が膨れあがり芥川の血流へと混ざり込む。全身に巡る激しい熱を、芥川は誰もいない路地の一角を睨みながら感じていた。