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パタタ、と無数の水滴が手にした傘へとめどなく降り注いでいる。
「珍しいですね」
共に仕事を終えた敦が、同じく傘を差しながら空を見上げて首を傾げた。その丸く純粋な目は灰色に埋もれた曇天を映している。憂鬱になるほどの雨だ。水を多く含ませた筆で紙に殴り書きしたような、墨色を基調とした空模様。既に街灯が灯っている。落ちてくる雫一つ一つが重い。
「午前中はあんなに晴れてたのに。国木田さんに体術を学んでいた時なんて、雲一つないくらいでしたよね」
「だが予報通りだ。傘は間違いではなかったな」
「そうですね。さすが国木田さんです」
さすが、と敦は国木田を褒めるが、国木田はいつもの通り出勤前に天気を確認しただけだ。雨なら太宰は外に出ない。自殺主義者などという訳のわからない名乗りを時に上げているあの馬鹿は、隙さえあればその類のことを考えはするものの、なりふり構わずすぐさま実行するというわけではなかった。雨天というのは国木田にとって、網にかかっていたり畑に埋もれていたりする太宰を拾いに行く必要がない日ということを意味しているのだ。つまり今は奴のことに頭を悩ます必要がない。安心して他のことに集中できる。
――例えば、彼女のこと。
ちらりと腕時計に目を落とす。午後四時四十二分二十五秒。今日という日が始まってから十六時間四十二分二十五秒が経過したわけだが、未だに彼女の姿はない。事務員達に彼女が現れたらすぐさま連絡するよう言い聞かせてあるので、未だ連絡がないということは社にも顔を出していないのだろう。
もしかしたら、と思う。
――もう彼女は国木田の前に現れないかもしれない。
三日前、彼女と約束をした。けれどそれは口約束だ、守ってもらえる確証はない。国木田のことを捨て置いて、既に海外へと向かっている可能性はある。
それでも、賭けた。別れの直前に会いに来てくれた彼女に、最後とばかりに買い物に付き添ってくれた彼女に、その思いに。街を変え世界を渡ってきた
クリスにとって、この街との別れは大したものではないだろう。親しくなった人がいても、前置きなく旅立ったことがあったはずだ。
けれど、彼女は国木田に会いに来た。その事実に、賭けている。
彼女は必ず会いに来てくれると、信じている。
「……あ」
ふと敦が立ち止まる。何となしにその視線を辿り、国木田は目を見開いた。
――世界の時間が止まったかのような、無音の一瞬。
暗い曇天の下、傘を差して人々が行き交っている。信号が変わり、人の流れも変わる。入れ替わる色、蠢く人波。
その中で、唯一変わらない一点。
雨の中に晒された亜麻色の髪、その毛先を張り付かせた白い首筋。それは黒い外套もろとも濡れそぼり、雫を滴らせている。その足元にはその身から滑り落ちた暗い水が溜まり広がっていた。
捨て置かれた人形のように立ち尽くしたその少女は、曇天そのものを纏っているようだった。黒く、深く、濁っているような錯覚。雨降る闇に溶けていってしまうような危うさ。
「……
クリス?」
彼女であれという
昂りと、彼女でなければ良いという懇願が入り混じる。
彼女はまるで景色を眺めるかのようにこちらを見た。そして、ゆっくりと、髪の間から覗いたその青い眼を見開く。
「……くにきださん」
その目に見覚えがあった。何かに耐え何かを切望する眼差し、それら全てを諦め切った絵の具で塗り潰された青。
――太宰が精神操作の異能力者をギルドから奪還した夜、月の光の下で見たものと同じ色。
絶望と諦念の色だ。
「どうしたんですか……!」
敦が彼女へと駆け寄り、傘を差し出す。途端、敦のシャツの背中がすぐさま雨水を吸って肌に張り付いた。彼女へと傾けた傘からボタボタと水が流れ落ち、その足元に溜まった水に波紋を広げる。
「……あつしさん」
彼女は関節が錆びた人形のように首を動かして敦を見た。
「どうして、ここに……?」
「どうして、って……探偵社の目の前ですよ、ここ」
戸惑ったように敦が答える。それを数秒かけて聞き、
クリスはねじ回しが足りないかのような動きでそばに立つ建物を見上げる。
「……あ」
初めて気付いたとばかりに彼女はぽつりと呟く。見るからに様子がおかしかった。けれど、見間違いではなく、彼女だ。
クリスが、そこにいる。
待ち望んだ少女が。
ゆっくりと一歩踏み出す。数歩かけて歩み寄り、国木田は濡れ切った
クリスを見下ろした。敦に差し出された傘の下で、彼女はやはりぎこちなく国木田を見上げてくる。目が合う。
「……
クリス」
名を呼ぶ。返事はない。その覇気のない両目にも、呆然と半開きになった唇にも、変化はなかった。髪から落ちた雫が彼女の頰を滑る。小さな雫をたたえたまつ毛が瞬きをする。
精巧な人形だ。感情のない、見て楽しむためだけの。
これが、待ち望んでいた人。笑顔が似合う、儚く強く美しい人。
――見ていられなかった。
「……敦」
「はい」
「彼女を社の中へ連れて来い。俺は医務室の準備をしてくる」
言い、背を向ける。すぐさま探偵社へ行き、彼女を迎える準備をしなければと思った。
けれど、できなかった。
服の裾が引っ張られる感覚。ハッとそちらを見る。
手が、国木田を掴んでいた。女性らしい一回り小さい手、それでいて拳銃もナイフも使いこなす手。敦の傘の下から出、再び雨に打たれながら彼女は国木田へ手を伸ばし、服を摘むように掴んで引き留めていた。
「……あいにきた」
文字を順に発音しているかのような声が俯いた彼女から聞こえてくる。
「あいにいかなきゃ、って、おもって。なんでか、わからないけど、でも、いかなきゃって、おもって」
「
クリス」
「やくそく、したから。でも、なんのやくそくか、おぼえてなくて、どうすればいいのかわからなくて……わから、なくて」
「
クリス」
顔を覗き込み、肩に手を置く。けれどそれでも彼女の目は何も映していなかった。焦点が合っていない。
何があった。彼女のこれは仕事着だ、街の中で着るものではない。どこかへ潜入し、そのままここに無意識に来たのか。
約束、ただそれだけを覚えて。
「敦、すまんがタオルと医務室の用意を」
「は、はい!」
敦が慌てて社へと駆け込んで行く。
クリスへと傘を差し出し、国木田は改めて
クリスの顔を覗き込んだ。
「
クリス、まずは建物の中に入れ。話はその後に聞く」
「……わからないんです」
「
クリス」
「わからない」
ぐ、と服を掴む手が強くなる。国木田の服の上を赤い雫が染みていく。その色に気付き、国木田は急いで彼女の手を掴んで引き剥がした。
「おい……!」
全ての指の爪が、剥がれかけている。
「何があった」
「わからないよ」
「
クリス」
「わかんないよ……!」
問いを無視し、
クリスは国木田の手を振り払った。訴えるように両手で国木田に掴みかかり揺さぶってくる。その躊躇いもない衝動任せの動作に息を呑んだ。
彼女は、爪が剥がれていることに気付いていない。
「どうしてわたしに殺されたの! 君が死ぬくらいならわたしが死んでいれば良かった! そうしたら誰も殺さなくて済んだのに! 普通なんていう馬鹿げたものを望まなくて済んだのに!」
叫びが雨音に混じる。騒音を掻き消す慟哭が少女から上がる。
「いっそ殺してくれた方が幸せだった……!」
――叶わない懇願が、吐き出される。
呆然と、何もできないまま国木田は立ちすくんでいた。どうしたと問い直すことも、引き剥がすこともできない。ただ、見守ることしか、できなかった。
「……国木田さん……ッ」
震える声で彼女は国木田を呼ぶ。額を国木田の胸元に押し付け、彼女は雨が降りしきる中、呟いた。
「助けて……」
――水面に葉が落ちるような、静かな悲鳴だった。
手放した傘が逆さまになって地面に落ちる。目もくれず、国木田は
クリスの体を抱き締めた。濡れきった服が腕の中でじわりと水を吐く。肩に、背に、首元に、頭に、容赦なく水滴が降り注いだ。パタタ、と雨音が自分に打ち掛かり、体温を奪っていく。無情な水の槍から守るように、彼女を強く、強く、包むように、抱く。
寄せた頰に濡れた細い髪が張り付いてくる。冷え切った体は荒い呼吸を繰り返していた。それを宥めるように、温めるように、腕の中に閉じ込め、喘鳴に震えるその背を抱き寄せる。細かに途切れる吐息が肩口にかかる。
「……う、あ」
彼女は一段と体を硬くし、背を丸めた。胸に縋り付き、額を強く押し付けてくる。
吐息が震える。それに、声が、叫びが乗る。
「――うああああああああ!」
雨降りしきる街に、少女の絶望が響き渡る。
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第3幕 完
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幕間 -Note by a Researcher-次ページからは第3幕の閑話です。