第3幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
銃身に手が置かれていた。黒い手袋をつけた、手だ。
「止めとけ」
照準器の先が手で隠されて、狙いがつけられない。
は、と息をついた。肩が上下する。泥の中を泳いでいるような目眩、平衡感覚のなさ。その中で、クリスは隣に立つその人へとぎこちなく目を移す。
「……中原、さん」
「手前が何しようが俺には関係ねえが……それ撃ち殺したら、手前、後悔するぞ」
後悔。
そんなもの、するはずがない。
けれど咄嗟に口から出たのは否定ではなく動揺の吐息だった。引きつった喉から押し出された喘鳴。
覇気を失った腕が下がり、銃口が地面を向く。
「……どうしてそう思う」
「んなもん見りゃわかんだろ」
そうか、とクリスは呟いた。
後悔、か。
おそらく中也の言う通りだ。けれど殺さないわけにはいかない。殺さなければいけない。友を殺したように、知り合った人々を殺したように、あらゆる人を殺したように、殺さなければならない。後悔の有無など知ったことではない。そうはわかっているのに、殺したくないという思いが首をもたげてくる。
そうだ、と思い至る。僅かに首を回し、外壁にもたれかかったまま気を失っている後輩を見遣る。彼は、クリスを裏切ったというただそれだけしかしていないのに、それを罪だと言って銃口を受け入れていた。クリスとは比べられないほどに素直で幼稚で、純粋な思考。
それを、殺さなくてはいけない、わかっている。けれど。
殺したくない。
そうだ、殺したくない。いつだって、そう思ってきた。親しく話した相手が恐怖に顔を歪めて死ぬ様を、その眼差しに最期に映る死神のような自分の姿を、見たくなかった。できることなら自分一人だけ、彼らから背を向けて逃げてしまいたかった。
けれど、できないのだ。
誰かを殺されないために、今ここで敵を殺さなければいけない。
迷ってはいけない。それが自分だ。自分なのだ。例えそのやり方があの人の理想の世界を壊すものだとわかっていても。
だから。
――けれど、それはもう意味がないのではないだろうか。
だって、わたしは。
思考が入り乱れる。殺さなければという思い、殺したくないという願い、それらを妨げるような手記の中の言葉。
――彼女はこの世界のどこにもいない。元々存在すらしないはずの、異分子なんだ。
わたしは、この世界にいないはずの存在だった。
そういう、命だった。
わたしはそれを知らないまま、今まで周囲を虐げながら生きていた。死ななかったはずのたくさんの人を殺して、騙されなかったはずのたくさんの人を騙して、巻き込まれなかったはずのたくさんの人を巻き込んで、生きていた。親友すら殺して、生きてきた。普通になんてなれるはずもなかったのだ。わたしは普通じゃない。異常だ。
わたしは、この世界に無理矢理入り込んだ、この世界という物語を破壊している存在なのだ。
なら、わたしは。
「……わたし、は」
これ以上逃げたところで、逃げるために殺したところで、何になる?
今まで殺してきた命は、彼らは、一体何のために死んだのだろう?
存在するはずのなかった命、この世界に要らなかったはずの存在、それを生かし続けるためにこの先もたくさんの人を殺さなければならないのだとしたら、いっそ。
いっそ。
下げた銃を再び持ち上げる。その銃身へ目を向けることなく、ゆっくりと持ち上げ――こめかみに当てる。銃口の冷たさが皮膚に染み渡る。
いっそ、わたしが。
わたしが、わたしだけが、死ねば。
そうしたら、もう。
誰も殺さなくて済む。
誰も死ななくて済む。
誰も傷付けなくて済む。
あの人の理想を、壊さなくて済む。
普通なんて望まない。本当の願いはそれじゃない。
ただ、あなたの隣であなたの理想を壊さない存在でいたかっただけなんだ。
それが叶わないのなら、もう。
「……もう、良い」
引き金を引く。
発砲。
――ダァン!
銃声が宙を響き擂鉢状の街へと木霊していく。空薬莢が地面へと落ちる。手の中で銃が反動に震える。その痛みを手のひらに感じながら、荒く息を吐く。
銃口は逸らされ銃弾は虚空に撃ち出されていた。クリスの手首を掴み上げた手は怒りも動揺もなく、冷静に銃を奪い取る。その手が誰かなど、見ずともわかっていた。だから、問うた。
「……何で止めたの」
「自殺を見守る趣味はねェよ」
「じゃあ殺して」
それは初めて口に出した言葉だった。けれど不思議なことにさらりと言うことができた。ずっと待ち望んでいたのかもしれない。生きたいと言いながら、この終わりのない殺戮の輪廻が断ち切られる時を、それを成し遂げてくれる誰かを。今や生死への執着すらどこにもない。意思の枯渇した虚しい静けさが全身を覆い尽くしていた。
「わたしを殺せば君はポートマフィアの功績者だ。やりなよ」
挑発の形を取った懇願。けれど返事はない。暴力もクリスを襲ってこない。どんなに待っても待ち望んだそれは歩み寄って来なかった。
代わりに聞こえてきたのは、大きなため息だ。
「手前が何に気付いて何に絶望してんのかは知らねえが」
カシャン、と地面に銃が落とされる。クリスから取り上げたそれを手放した中也は、そのまま背を向けてしまった。ばさりと外套が風にひらめく。
「手前、軍警に囲まれた時”この後大事な約束がある”っつってたろ」
その声は無感情なまでに落ち着いている。
「その手の約束は守れ。今度会ったら即刻ぶっ殺す」
言い残し、去っていくその背中を呆然と見送る。この人は本当にマフィアなのだろうか。”今度”がないことは、先程手記のことと一緒に話しただろうに。思わず笑いそうになって、けれど笑みを浮かべることもできず、ただ無言で立ち尽くす。
「……やくそく」
それは一体、何だっただろうか。
思い出せない。思考が怠くて考えるという動作が難しい。
立ち続けているのも億劫で、落ちるように座り込んだ。手の先に使い慣れた銃が置かれている。もう一度それを手にして撃つ気力はなかった。鉛を背負っているかのように、何もかも疲れていた。
項垂れ両手で地面を握る。爪が固い地を掻く。血が滲み、鉄の匂いが漂ってくる。親しい匂いに、安堵する。
いっそ、このまま。
全ての事実を捨て去って、何でもない存在になれたのなら。
そう思う、そう願う。なぜそう思うのかはわからない。ただ、そう乞えば楽になれる気がした。なぜだろうか。もう既にわからない。
あの銃声と共に、脳のどこかにあった細く脆い糸が千切れたようだった。やっとのことで結び止めていた思考が自由を得たとばかりにふわりと宙に広がる。まとまりを失ったそれは、風に吹かれる綿毛のように好き勝手に手を離れていく。
何もわからなかった。何か重要なことを知り、重要なことをした気がする。けれどそれは何だったか。
記憶が、視界が、曖昧になっていく。手放した風船のようにどこかへとそれらは飛んで行ってしまう。何も思い出せそうになかった。
けれど、ただ一つだけ。
――三日後、話をさせてくれ。
あの声だけは、あのぬくもりだけは、頭の中に残っている。燃え尽きた大地の中で咲く一輪の花のように、ただ一つ残っている。まるで視界を覆う暗闇に差す一筋の光のように、行く先を示す糸のように、導くように。
約束。
大事な、約束が。
聞こえてくる。
「……いかなきゃ」
そうだ、と漫然と思う。決して破ってはいけない、最後の約束がある。行かなければいけない。それが何なのかはわからないけれど、それでも行かなくてはいけない。
「いかなきゃ」
ぐ、と地面に立てた爪を更に深く突き立てる。血がにじむ、匂いが濃くなる。爪が指先から剥離しようとしていた。だいぶ前からそうなっていたそれに今更気が付いて、ぼんやりと己の指先を見つめる。
けれどそれが何を意味するのかまでは、よくわからなかった。