第3幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
[Act 3, Scene 19]
劇団に所属するという意味を、わかっていなかったわけではない。一定の時間、一定の場所へ足を運ぶこと――それは足が付きやすくなるということだ。敵に襲撃させやすくするということだ。弱みを作るということだ。それらの危機を回避するために、舞台女優を演じた。自分そのものがそこに通っていないのなら、敵がクリスを見つけ出すまでの時間稼ぎになる。
けれど。
呆然とクリスは目の前の敵を見つめた。
「……初めから、って、それじゃあ」
「あなたが来国した時から、情報は秘密裏に回ってきていました」
抗うこともなく、敵は――劇団の後輩は、その聞き慣れた明瞭な声で言う。
「あなたが手記と呼ばれる異能研究記録書を持っているという情報です。でも確信がなかった。それに、来国したばかりのあなたには何かを起こそうとする様子がなかった」
「それで、監視を……劇団に、潜入して」
「本当は客として近付く予定だったんですけど」
崩れた外壁に背中を預けながら、困ったように彼は笑った。顎から血が滴り落ちる。
「初めて演劇を見て……惹かれてしまいました。リアの演技に、舞台に。……そばで見たいと思って、強引に許可を取って、勉強して……今までにないくらい、努力して」
笑うその顔を元に記憶を遡る。彼とどんな話をしただろうか。どんなことを、彼は言っていただろうか。
思い返す。劇場で照明を浴びる姿を、仲間達と話している姿を。
人なつっこくクリスを慕ってくれていた、あの姿を。
「……わたしの周囲を探るために、わたしに取り入ったのか」
「リアに憧れてリアを好きになったのは本当ですよ。無邪気な感情だったかと聞かれれば、困りますけど。――そんなに驚かないでください。少しボロを出した時もあったんですよ? 自分から言うのはちょっと気が引けますけど、例えばそうだなあ……」
そう言って彼は、微かに体を起こして外壁から背を離す。バラバラと瓦礫が落ちる。けれど体が痛むのか、再びそれへと身を預けた。新たな血がガラス片の表面を伝う。一直線に線を描いたそれは、雫となって地面に落ちた。
「……連続猟奇殺人事件の時なんて、まさか現場を見るはめになるとは思わなかったから、ちょっと危なかったかも」
その言葉に、単語に、記憶が脳裏に蘇る。
――あはは……さすがに慣れてはいないので。
人一人が解体された血濡れた現場の前で、彼はそう言って苦笑いをしていた。あれはマフィアが近い街の人間だから出た言葉ではなく、死体そのものは見慣れているという意味だったのか。
「あとは、そうだなあ……この間の、擂鉢街のことを話した時とか」
――いや、ええと、ほら、最近探偵社が臨時休業になってたりしてたじゃないですか。マフィアっぽい人が街の方にもいたし……リアって探偵社と仲が良いみたいだから、何か巻き込まれてないかなって心配だったんです。
「よくよく考えてみたら、探偵社の休業とマフィアの動きが関係しているなんて、普通は思いつかないですよね。あなたが何かしたかと思って探りを入れたんですけど……あれは墓穴だったかなって、後でひやりとしてました」
「なぜ、関係していると?」
「これでも特務課の人間ですから、開業許可証を持っている組織の動きは把握しています。とはいえ、僕のこれは極秘任務です。参事官補佐も僕の存在は知らない」
「参事官補佐……坂口さんか」
「なので参事官補佐に尋ねても何もわかりませんよ」
まるで推理小説の犯人のように、ヘカテは独白を続けていく。骸砦の外壁に激突した衝撃で、ヘカテの体はほとんど動かないようだった。受け身も取れないまま、爆風に押され高層建築物の外壁に激突したのだ、いくら鍛えてあるとはいえ打ち所が悪ければ関節が外れ内臓も損傷しているはず。動けば激痛が走り、声を出そうとすれば血が喉元にのぼせ上がるだろう。
なのに彼は話すのを止めない。
まるで、今を逃したら永遠に話ができないとでも言うように。
「……わかっていたのか」
ホルスターから拳銃を引き抜く。
「今日、わたしに知られることを」
「三日前にリアが劇団を辞めると聞きました。座長に、リアのことに関することは何でも教えてくれって普段から口酸っぱくいってましたから。……最終手段に出ざるを得なかったんです。海外に行かれてしまっては、手記というものについて詳細が掴めなくなる――局長補佐のご判断は、あなたの捕獲もしくは殺害、そして手記の奪取でした」
「局長補佐というのは」
「それについては教えられません。言おうとした瞬間、言い切る前に僕の首が飛ぶ。比喩じゃないですよ、あの人はそういう人だから」
彼は笑みを絶やさない。
手記。ヘカテはその名ばかりを口にしている。クリス自身のことについては知らないのか。手記という未知の小道具を恐れて、クリスを殺害すらしようとしたのか。
――人は愚かで罪深い。それが争いを生み出し助長すると知っていてもなお、あなたはそれを選ぶしかない。
あの紫眼を思う。
彼が、わざと、こうしたのだ。国の狙いを手記に限定させることでクリスの命をも狙わせ、クリスの危機感を煽った。手記の解錠を試みずに海外へ行こうとしたとしても、国は手記入手のために動いてくる。捕らえられることはおろか死ぬことすら許されないクリスは、命が狙われている状況下で手記を意識せずにはいられない。ドストエフスキーに言われた"手記に書かれている真実"とやらを無視するわけにはいかなくなる。
遠回しに、確実に、クリスを意図通りに動かそうとしている、毒手。
「……これも、誘導か」
逃れられる気がしない。
「クリス・マーロウ」
教えたことのない名を呼び、ヘカテは目を閉じた。
「どうぞ。あなたに音響銃を防がれた時から、覚悟はできています。あなたを裏切った罪滅ぼしにあなたに全てを言いたかった、ただそれだけですから」
罪滅ぼし。
クリスへの裏切り、ただそれだけで。
これがそれほどの罪ならば、自分が背負ってきた罪は何だと言うのだろう。
例えば、今この右手に握り締めた拳銃は。
重い物を持ち上げるように、クリスはそれを持ち上げていく。銃口が前を向き、照準器に人間が入り込む。
無気力な人間一人が、クリスの前に命を投げ出していた。高層建築物の外壁に寄りかかり、周囲に落ちている瓦礫を赤く汚している。微笑みすら浮かべたその顔を、照準器越しに見た。
息を吐く。銃が細かに揺れる。
――殺さなければいけなかった。
彼は知ってしまった。否、知っていた。そしてクリスはそれを知った。敵を見つけ出したのなら、すぐさま排除しなければならない。それが、クリスだ。自分が自分であるが故の、必ず訪れる結末だ。
息を吸い、吐く。それでも揺れて定まらない銃口に、深呼吸を繰り返す。手が震える。凝視した先の微笑みに、目が奪われる。
リア、と何度も呼ばれた。
凄い、と何度も褒められ、嬉しいのだと何度もその輝く笑顔で言われた。
所属した劇団の人間に裏切られたのはこれが初めてではない。何度もある。異能力者だと知られた直後、状況のわかっていない無垢な同僚の首をはねたこともある。
珍しいことではない。何度もやってきたことだ。
なのに。
――逆手に持った包丁が、宙で止まっている。
「……ッ」
――あなたは俺を撃たない。
あの声を、眼差しを、強い意志を、思い出す。
そうだ、その通りだ。クリスは国木田を撃てない。刺せない。殺せない。それは真実だ。そうなってしまった、手遅れの事実だ。けれどヘカテは違う。撃てる。殺せる。微塵に裂いてしまうことだってできる。
あの日のあの人のように、殺せる。
『わたしは、いつか、”普通”になれますか』
いつしか向けた問いに、あの人は迷わず是と返してくれた。その答えが真実だと思っていたかった。いつか自分にも、八百屋に買い物をしに行って、台所に立って、二人揃ってコンロの火加減に目を凝らすような、そんな普通の日々がやってくると信じていたかった。
わかっていた。そんな未来などあり得ないことを。口に出したところで海辺の足跡のようにすぐさま掻き消される虚しい願いであることを。
歯を食いしばる。目を強く閉じる。震える手に力を込める。振り切るように目の前のものを凝視し、両手で銃を固定、狙いを改めて合わせる。
「……ごめんなさい」
いつか、あなたの隣で普通に生きてみたかった。