第3幕
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「……ッ」
掲げた腕の下で薄く目を開ける。暗いところから明るい日の下へと出た時のように、ゆっくりと目を開き、光に慣らしていく。けれどその慎重さを笑うように、周囲は薄暗かった。擂鉢街の、家々の狭間。階段の踊り場は家屋で日が遮られ薄暗くなっている。
あれほどの光が発生したというのに、周囲の光景は何も変わっていなかった。段々と中心地に向かって下がっていく屋根。灰色のコンクリートが映える灰色の街。
「……一体、何が」
「おい」
隣で目を擦っていた中也がふと声を上げる。見れば、何かを見つめていた。地面、クリスの足元だ。その視線を何気なく追った先で、クリスは大きく目を見開く。
「……本」
薄汚れた革製のカバーがついた本が落ちていた。表紙に文字はない。国木田の手帳ほどの大きさで、彼のそれよりもページ数が少ないのか薄い。しゃがみ込み、そっと手を伸ばした。指先で軽く叩き、何も反応がないことを確認し、拾い上げる。
誰かが使ったのだろうことがわかるノートだった。革は擦れ、ところどころ白くなっている。手触りは良く、柔らかい。中に使われている紙は少々古く、茶ばんでいる上、小口は不揃いだ。
「古そうだな」
隣にしゃがみ込みつつ中也もそれへ見入った。
「あの研究所の物は全部質素だったから経年劣化が激しいんだ、きっと」
「中は」
言われ、クリスは表紙を捲って一ページ目を開いた。黒いインクで綴られた英文が几帳面に並んでいる。
「大丈夫、読め、る……」
言いかけ、クリスは呆然とそれを見つめた。文字を目で追う。次から次へとページをめくり、そこに書かれた単語を読み、意味を理解し、呑み込む。けれど呑み込みきれずに吐き出しそうになる。何かがせり上がってくる。汚水が、泥が、胸の奥から延々と湧き出してくる。
バサリと手記が地面に落ちる。両手で口元を押さえ込んだ。何かがぬるりと体内から這い出ようとしている。
気持ち悪い。目眩がする。平衡感覚が不完全で立ち上がれない。
「おい?」
「……う、そ」
「あ?」
「嘘、だ」
目が、手記から離せない。そこに書かれた文字が、言葉が、文章が、大きく牙を剥いて脳髄を噛み砕いては咀嚼していく錯覚。
そこに書かれていたのは、日記だった。とある男がとある場所でとある友人と共に過ごすようになってからの日々が記されていた。見知った光景、見知ったやり取り、その間に挟み込まれた見知らぬ会話。
穏やかな昼間の太陽、緑の映える中庭、ベンチに座る白銀の髪の男、優しい声と手。
――クリス。
同じ声が、手が、告げる。
『彼女はこの世界のどこにもいない。元々存在すらしないはずの、異分子なんだ』
異分子。
存在すらしないはずの――破壊者。
「……わたし、は」
何かを呟こうとする。けれど何を呟けば良いのかもわからないまま、目の前の英字を見つめ続ける。
「……この世界に、物語に……付け加えられた、部外者」
本来この舞台にいるはずのない、邪魔な存在。実現し得ない夢物語を叶えるために加えられた、偽りの主人公――夢の主。
『彼女の発生による世界の歪みを正す』
『救うんだ、僕達で、世界と彼女を。間違った結末から』
全てが壊れていく。思い出も、願いも、意志も、何もかもが。
「……全部、夢、なの……?」
呆然としゃがみこんでいた。ぐるりと視界が渦巻いている。ぐわりと頭が傾ぐ錯覚、こみ上げてくる泥水のような吐き気。思考は「嘘だ」の一言を延々と吐き続けている。
「夢物語の……間違った主人公を消すために、ウィリアムは……わたしに……殺された……?」
わかっていた。本当は、すぐに理解できた。認めたくないだけだ。逃げたいだけだ。この紙束を今すぐにでも捨てて、何事もなかったかのように毎日に戻りたい。
――友人を不慮の事故で失った人間として生きていた頃に、戻りたい。
「……立てよ」
中也が低く囁いてくる。できない、と無言で返した。できるはずもない。もう、立つ意味すらもないのだから。
わたしは、生まれてはいけなかった。
けれど彼は何かに警戒するように、強引にクリスの腕を掴んで立ち上がらせようとした。
「立て、クリス。何か妙だ」
警告じみた声に息を呑む。汚泥を数度にわけて飲み込み、頭の中に漂う英文を振り切って目の前のことに集中する。中也と二人、呼吸音すら立てずにピタリと体を硬直させた。
――靴底が砂を踏みにじる音。手にした銃器を構え直す音。静かに次の行動を待つ呼吸音。それらがあちこちから聞こえてくる。
「……これ、は」
思考が落ち着く。生存本能が体内から混乱を取り除く。
いくつもの何かが、こちらを窺っている。
「さっきのふざけた野郎共じゃねえな」
「さっきの?」
「ざあぱ……何とかって奴らだ。訳わかんねえこと言って襲ってきたから返り討ちにした」
「ああ、奴らが言っていた”ポートマフィア構成員”って君のことだったんだね……憐れだ」
「んなこたあどうでも良い。何だこいつらは」
中也の声は固い。
「かなり訓練されてるぞ。ポートマフィアでもこれほどの統率はできねえ」
誰もいないかのような静けさ。けれど確かに、彼らはいた。
数えるのも億劫なほどの数の気配。クリスと中也を囲むように、彼らは位置している。退路を塞ぐように、階段上に三人、クリス達のいる踊り場の左右に四人ずつ。計十一人だが、おそらく彼らを援護する形で数人が遠方に控えている。
「……ここらの組織は粗方把握しているが、これほど統率された組織は知らねえ。まるで軍隊じゃねえか」
「あながち間違いじゃないかもしれない」
「あァ?」
「中原さん」
手記をポーチにしまいながら、クリスはそっと呼んだ。
「逃げて」