第3幕
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[Act 3, Scene 18]
ヨコハマ租界周辺は、擂鉢状の地形以外平坦だった。海風を遮る山はなく、雨を遮る木々も少なく、日を遮る岩陰もない。身を隠す場所は人工的に作り上げた家屋のみ。どこまでも人工的で、どこまでも無情な地。
凹地に風が吹き込む。それは外套をはためかせ、服の隙間から忍び寄り、クリスに寒さという痛みを与えようと躍起になっている。
「おい」
呼ばれ、顔を上げる。すると直線的に何かが飛んできた。手のひらを広げてそれを受け止める。パシ、と小気味良い音が擂鉢の中へ微かに響いていった。
「やる」
「蜜柑……」
「詳細はわかった」
階段の一つに腰掛けながら、中也は手にしていた蜜柑の皮をむき始めた。明るい橙色へ指を差し込み、剥ぐ。皮と実の間を埋めていた白色の繊維がペリペリと音を立ててぶち切れていく。
「手記、ってやつを何とかしたいってことはな。だが残念な話、少なくともあの施設では人工異能を既存の生物を組み合わせる研究しかしてねえはずだ。それ以外のことをしていたとしても資料がねえ、詳しいところは知る由もない」
「そう……ところで」
クリスは蜜柑を中也へ差し出した。きょとんと中也はクリスを見上げ、「食わねえのか」と不思議そうに尋ねてくる。首を一度横に振り、クリスは言った。
「どうやって食べるの? これ」
「……は?」
「教えて」
「はあ?」
「店で見たことはあるけど、食べたことない。どうやって剥いたの? ナイフを使わなくても良いんだ? オレンジとは違うみたいだけど」
「手前……」
呆れを前面に押し出すように、中也は眉間にしわを寄せて半眼を向けて来た。そういった表情を向けられる覚悟はしてある。痛い視線を無視して、ぐい、と蜜柑を差し出せば、中也は大きく肩を落として大きく息を吐き出した。
「……どこのお嬢だよ」
「その顔に投げつけてあげようか?」
「やめろもったいねえ。……わぁったよ、こっち食え」
言い、中也は先程剥いたばかりの蜜柑を差し出してきた。素直にそれを受け取り、剥いていない方の蜜柑を渡す。すぐさま皮を剥き、中也は房状の実を一つを口に放り込んだ。
「で? その手記ってやつに込められてる異能を解除したいっつーのは理解したけど、そのための異能が何なのかわかんねえんじゃ詰んでるじゃねえか」
「……あ、これ美味しいね。なるほど、こうやって食べるんだ」
「人の話聞けや」
「わからないから、ヒントを探しにここに来たんだよ」
蜜柑を味わいつつ、クリスはそばの小屋へと背を預けた。房の一つを摘み上げ、皮に詰まった夕日色を見つめる。
「その異能がわかれば万事解決だ。手記が読める。その後のことは今考えるべきじゃない……今わかっていることは、手記には何らかの異能が込められていて、それのせいで手記はただのチップと化しているということ。手記を読むためには別の異能が必要なこと。その異能については全くわかっていないこと」
「太宰の野郎は駄目なのか」
「異能を無効化したところで、込められている異能が消えるだけだ。チップはただの我楽多になる。重要なのは込められている異能を”正常に作動させて”解除することだ」
「へえ」
興味なさげに中也は最後の一房を咀嚼した。
「んで? その手記には何が書かれてる」
「言った通りだよ。わたしがいた研究所の研究記録だ」
「んなこたぁ理解してる。けどそれだけなら、手前がそこまで焦る理由には足りねえ」
蜜柑の房を口に放り込もうとしたクリスの手が、止まった。けれどそれを誤魔化すように、蜜柑を唇に乗せ、口内に引きずり込む。一度噛めば即座に房は破れて潰れ、べたつく果汁が皮の外へとあふれ出た。
「……焦る? わたしが?」
「焦ってんだろ。手前とは何度か顔を合わせてる。いつも手前はむかつく顔で俺を挑発してんだろ。だが今日はそれがなかった。直接的に何かを訊いてきたのは、今回が初めてだ。焦ってんじゃなきゃ何だ。頭打って素直な良い子にでもなったってのかよ」
「言い返したい点が多すぎて何から言えば良いか迷うけれど」
ふと口を噤む。舌がべたついていた。口内に張り付いて、言葉が発しづらくなっている気がする。
「……友達なんだ」
「友達?」
「友達だったんだ。そう信じてた」
中也は何も言わない。果実を失った蜜柑の皮を手で弄びながら、クリスはあの面影を思い出していた。
「……友達だと思っていた相手が、わたしを兵器として作り上げた。そしてわたしを外に逃がした……その真意が知りたい。あの人達のやったことは不可解だ、兵器として使うならわたしを逃がす必要がない。兵器ではなく人間として逃がしてくれたのなら、手記は必要ない。妙なんだ」
白銀の髪を思い出す。落ち着く茶色の眼差しが、優しく緩んでクリスを呼ぶ。
あの優しさの意味を知りたい。
彼の、本当の思いを知りたい。
それを知った後のことは、考えたくないけれど。
「……友達、ね」
「言っておくけど、彼がわたしに友達になろうって言ってきたんだ。わたしが一方的に勘違いしていたわけじゃない」
「あ、そう」
そりゃ悪かったな、と謝罪の意志が全くこもっていない声で言い、中也は階段から立ち上がった。
「その手記ってやつを見せてもらえるか?」
「嫌だ」
「盗らねえよ」
「信用できない。……君に手記のことを話したのは、君なら森さんにもこのことを話さないと踏んだからだ。話しても仕方がないし、話したらポートマフィアも手記やわたしを巡る問題に巻き込まれかねない。毒の霧の中でも仲間をおいて逃げなかった中原さんが、そんな危険を冒すとは思えない」
「褒めてんのか馬鹿にしてんのか、どっちだよ」
「表面上は褒めてる。――見たって何にもならないよ。ただのチップだ」
「チップ、ね」
カツン、と靴音が階段を降りる。所狭しと並ぶ家屋の影で、青が光る。
「一つ訊いて良いか」
「何?」
「どうして手記のことを”チップ”って言ってる?」
それは単純な問いだった。けれど、クリスが一度も思い至らなかった問いだった。クリスだけではなく、フィッツジェラルドを初めとするギルドメンバーの誰もが、それを疑問に思わず、口にしなかった。
「……え?」
「手記ってのは、つまり日記だろうが。日記ってのは本の形をしてるもんだろ」
このくらいの、と中也は拍手をする前のように両手のひらを向かい合わせて大きさを示す。
「文庫本か、それより大きいくらいか……なのに何で手前はさっきからチップって言ってやがる」
「……実際、手記はチップの形状なんだよ。市販されている記録媒体みたいな見た目で」
「ならなぜ”手記”と呼ぶ? 単に『チップ』か、『記録媒体』か、『メモリ』か……わざわざ手記なんて呼び方する必要ねえだろ」
当然のことを尋ねているといわんばかりの中也の真顔を、呆然と見入る。
なぜチップのことを手記と呼んでいるのか。手記と呼ばれている、と聞いていたからだ。誰が言っていたか。フィッツジェラルドだ。そして。
――ギルドにチップの入手を依頼してきた、英国の軍人がそう言っていたからだ。
「……そうか」
徐々に霧が晴れていく感覚。息苦しさが消え、光が差し、周囲が明るく照らされ視界が良好になる錯覚。
「そういうことだったんだ」
蜜柑の皮が手から滑り落ちる。壁から背を離し、クリスは中也へと駆け寄った。目の前に立って顔を近付け、少しばかり困惑した様子の中也の顔を見つめる。
「お、おい」
「そうだよ、手記なんだ、あれは。どうして今まで気付かなかったんだろう」
「……はあ」
「ありがとう中原さん」
一歩下がって、クリスは腰のポーチからチップの入った袋を取りだした。慎重に口を開け、中のものを手のひらに乗せる。先程「嫌だ」とはっきり断ってきたクリスが目の前で堂々とそれを取り出したことに戸惑いつつ、中也は彼女の手元を覗き込んだ。
「手前、一体何を」
「わかったんだ」
「は?」
「鍵の異能、錠を開けるために必要だった異能が」
手のひらに乗せたチップに、ふわりと光が灯る。蛍に似た、小さな粒。闇を照らすほど明るくはないが、確かにそこにある光。
「これは……?」
「再定義の異能」
簡潔に答え、クリスはチップが雪に埋もれるように光の粒子に包まれていく様を見つめる。
「チップを手記の形に再定義する」
「再定義、って、手前の異能はそういうやつじゃ……」
優しい光がチップを覆い隠す。やがてそれは溶け込むようにチップへと吸い込まれ、そして――突如強い光がクリスの手の中で爆ぜる。
「――ッ!」
「うおッ!」
視界が白く変色する。眩しさに何も見えなくなる。それは見る間にクリス達を覆い、周囲を覆い、そして。
――擂鉢街の一角で、強烈な光がほとばしった。