第3幕
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咄嗟にできたことは防御壁を生成することだけだった。
上空から落ちてきた何かは、まるで狙うかのようにクリスへと突っ込んできた。防御壁ごとクリスを吹き飛ばす。飛行機の類ではない。衝撃のわりに、それは小さかった。
例えるなら、人一人分の大きさの。
「【テンペスト】……!」
塵を含まない風が生じる。異能が作り出したそれはクリスを中心に勢いよく渦巻いた。襲い来る爆風を食らってさらに膨らみ、風はクッションのようにクリスをふわりと包む。浮いた体を宙で翻し、クリスは足を地面につけて襲ってきたものを見定めようと目を凝らす。
クリスは失念していた。ここは擂鉢街だ。地面はどこまでも平坦に続いているわけではない。
つま先が宙を蹴る。がくりと視界が下がる。
「……ッ?」
地面があるはずの場所に、地面がなかった。階段だ。
「しまッ……」
背が重力方向へと向かっていく。街の中心へと向かう階段が、その両脇に並ぶ外壁が、視界いっぱいに広がる。大丈夫だ、とクリスは冷静に判断する。風を操れば衝撃を和らげることができる。受け身を取れば怪我もしない。
けれど。
ぞ、と予感が全身を粟立たせる。それは確実に、一呼吸の間も置かずに、突っ込んできた。
宙を泳ぐクリスへ、粉塵を裂いて飛び込んでくる人影。手が伸ばされる。避けられない。
目の乾きを神経が訴え瞼が瞬きをしようとする、その短い時間でクリスは思考する。異能で牙を剥き攻撃するか、伸ばされる手を弾き防御するか。けれど脳の判断と神経への信号伝達は瞬間的とはいえ時間がかかる。相手は速い。壁か鎌鼬か、どちらかしかできない。
どうする。
迷っている暇すらもなかった。
煙幕から現れた手がクリスの襟元を引っ掴む。それを逆に掴み、クリスは蹴りによって相手を引きはがそうとした――けれど、できなかった。
襲撃者の手がクリスに触れた瞬間、全身がクリスの意志から離れる。重い。指先すら動かない。全身の筋肉全てが疲労したかのような違和感。グッと落下速度が増す。
重力方向に、引きずられる。
「――き、みはッ……!」
驚愕に瞠目するクリスの視界で、彼は楽しげに口端をつり上げた。
「よお、ネズミ野郎」
その声を聞き終える前に地面に叩き付けられた。
轟音、骨が軋む音。筋肉が、臓器が、脳が、衝撃で歪む錯覚。痛みが背中から足先までを走り感覚を麻痺させる。
「ッあ……!」
瓦礫が跳ねる。コンクリート片が宙へと踊る。人の足で崩せないほどに硬いはずのそれは、クリスの衝突を受けて呆気なく抉れた。背中にコンクリートが刺さる。地面へと体がめり込む。
息ができない。
「久し振りだなあ、おい」
ぐ、と肩口を踏まれ地面へと押し込まれる。歪んだ視界に映る黒。特徴的な赤毛、それを飾る帽子、肉食獣を思わせる笑み、そして青の双眸。
中原中也。
「元気そうじゃねェか。こんなところで会えるとはな。運が良いぜ」
わたしにとっては最悪だ。そう言い返したくても肺が痛みに耐えきれず動きを鈍くしている。全身が重くて中也をどかすことは愚か、今の状態から指を動かすことすらできない。
「あん時はよくも俺達を追い詰めてくれたな。姐さんにも手ェ出しやがって」
「……ど、して、ここ、に」
「それはこっちのセリフだ。何の用でここに来た。何企んでやがる。手前には縁のねえ場所だろうが」
縁。
縁、か。
「……縁なら、ある」
ここは地表と一線を画する場所。日々の生活に苦しみ、暴力に慣れ、他者の不幸によって這い上がる地獄。
今のクリスと何が違うというのか。
「親しみすら、あるくらいだ」
「……親しみ、だと?」
中也の声は低く、疑心が含まれている。
「何ふざけたこと言ってやがる。ドストエフスキーの手駒が」
「……何だって?」
「手前、奴と会ってたらしいじゃねえか。こっちはその噂でもちきりだ。ボスは手前への暗殺命令を取り消したが、ポートマフィア内でそれに納得している奴は一人だって存在しねえ。探偵社の人間でもギルドの人間でもない、ドストエフスキーと関わりのある異能者がただの無害な市民だなんて誰も信じねえからな。大方、梶井の爆弾の件も共喰いの策略の仕込みだったんだろうが」
反論の言葉を失ったクリスへ、中也はさらに強く靴底を押しつけてくる。
「手前のボスはお縄だ、なのにこんなところで何してやがる。今度は何を企んでやがる」
あの青白い策士の微笑みが脳裏で浮かび上がってくる。自らの居場所が掌握される危険を冒してまでクリスを呼び出したのはそのためだったのか。正体を極力隠してきたクリスを、《死の家の鼠》の一員だと思わせるための。
――その気になったのなら、いつでもお待ちしていますよ。
逃げ道を塞ぎ、外堀を埋め、自らの元へ自然と引き寄せようとする策謀。
「違う、わたしは」
「言い訳を聞くほど俺は優しくねえよ」
全身の重さが増す。ぐ、と背中にコンクリート片が強く食い込んでくる。痛みが思考を鈍くする。悲鳴が喉から漏れ出る。意識が遠のきかける。
このままでは、何もできない。
ウィリアムのことも、手記のことも、何もわからないまま。
――言いたいことがある。
あの、約束も。
「……良、い」
声を絞り出す。晴れ渡った晴天を背後にこちらを見下ろしている冷酷な青の眼差しを、ただそれだけを、睨むように見つめる。
「信じなくて、良いッ……」
「何……?」
「ッだから、答え、て」
訴えてわかってくれるとも思っていない。この状態から彼を排する方法もないし、それを実行する労力も惜しい。圧倒的劣勢、目的すら果たせるか怪しい状況。
けれど、やらなくてはいけないことがある。
何をしてでも、知らなくてはいけないことが。
ならば、排しなければ良い。利用すれば良い。
彼はポートマフィア幹部――立派な情報源だ。
「七年前ッ、どこに、いた?」
「あァ?」
突然の問いに、中也はクリスを踏みつけていた足を微かに浮かせた。呼吸が幾分か楽になる。体を動かすことはまだできないが、十分だ。
「……七年前も、ヨコハマに、いた?」
「それが何だ」
「当時起きた黒炎騒ぎ、知ってる?」
中也の動きの一切が硬直した。
「……何言ってやがる」
声が低い。クリスはこちらを見下ろしている青を見据えた。
「七年前、黒炎を伴う爆発が各地で頻発する事態があった。ある日を境に不意に発生しなくなったらしいけど、当時は大騒ぎだったみたいだ。神の怒りだとかいう噂まで立っている」
「……神」
「”アラハバキ”」
その名称に、中也は息を呑む。クリスは変わらない声音で続けた。
「大戦末期にこの地に大爆発を起こし地を抉り取った存在の名前だ」
「……手前」
「わたしが知りたいのは七年前の爆発の方じゃない。大戦末期の方だ。擂鉢街が擂鉢状になる前、ここには軍事施設があった。そこで神の御技とも語り継がれるほどの大爆発が起きた。直径二キロ、半球状に地面を抉る爆発だ、鉄と化学で地表を破壊する兵器にそんな芸当はできない。神なんてものはどこにも実在しない。なら、おそらくは異能が関係している。爆風に消し飛んだ軍事施設で何が行われていたのかを知りたい」
「なぜだ」
「君には関係ない」
「言えよ」
ぐ、とさらに強く重力が増す。ギシ、と背中が地面にめり込み痛みを増幅させる。息を詰め、クリスは中也を睨み上げた。
「……言わない」
「言え」
「君が先に言えば、答える。――知ってるんでしょう?」
目の前の青が何かを思い出したかのように煌めく。瞬間、突然全身が軽くなった。重りの全てを一度にはがされたような感覚。肺が急激に膨らみ、ひゅ、と吸気が喉を鳴らす。
「……ッあ、かは……ッ」
苦しみに胸を押さえて背を丸める。数度深く慎重に呼吸を繰り返す。
クリスの上から足を外した中也は、数秒そのまま立ちすくんだ後、ふと身を翻した。カツカツとそばに詰まれた木箱へ歩み寄り、軽く蹴って強度を確かめてから座る。太股に片足のくるぶしを乗せ、短く息を吐いた。
「あの施設でやってたのは異能の研究だ」
前置きもなく話し始めた中也の目は、クリスを隙なく睨み付けている。
「人工異能の研究をな」
「人工、異能……?」
「で、手前は?」
それ以上何も言うことはないとばかりに中也はクリスへ「言えよ」と眉を潜める。
「俺はもう言った」
「……それだけ?」
「何をしていたか知りたいってしか聞いてねえからな」
確かに間違ってはいない。なるほど、とクリスは呼吸を整えつつ呟いた。
「それもそうか」
「で? 手前はなぜそれを知りたがる」
自らの足に肘をつき、中也はクリスを睥睨する。答えずに去ることはできないだろうし、嘘を言っても質問を繰り返してくるだろう。
――まさか、手前もなのか。
あの言葉を思い出す。精神操作の異能により荒れ果てたヨコハマの街の中、黒煙が立ち上り悲鳴の途絶えないその場所で、クリスの襟首を掴んで放たれた言葉。
「……そうか」
「あ?」
「君もなんだね」
クリスは瓦礫に手を付いて立ち上がった。パラパラと細かいコンクリート片が服から落ちていく。中途半端に頭を覆うフードを外し、痛む背筋をどうにか伸ばし、こちらを見つめてくる青を真っ直ぐに見返す。
「軍事施設の情報は最重要機密だ。偶然で手に入れることはできない。けど君はそれを知っていた。君の性格を考えれば、さっきのは嘘じゃない。つまり君は、それについて調べたことがある――理由はきっと、今のわたしと同じだ」
そうだ。
彼も、そうなのだ。
触れたものの重力を操る異能。敵が何であれ、どんなものであれ、一度触れただけで動きを封じ叩きのめすことができる。
この街だけではなく世界のあらゆる場所に異能の所持者はいる。人体を強靱にする異能、感覚を共有する異能、異能生命体を操る異能、精神に作用する異能、人を治癒する異能。けれどそのどれもが、無制限には使いこなせない。金額という制限、木という制限、距離という制限。傷つけるという条件、瀕死という条件。何かしらの条件がある。けれど彼は違う。一度触れるというだけでそれの動きを完全に支配できる。
桁違いだ。
――この身に宿る異能と同じほどに、破壊的で無制限。
「……君もわたしも、知りたかったんだ」
中也も同じ事に気付いたらしい、両目を見開き口を半開きにする。
「まさか、手前……本当に」
風が吹く。中也のコートがそれを孕んで膨らむ。砂塵が足元を流れていく。顔へとかかる髪を耳元で押さえつつ、クリスは彼へと微笑んだ。
「……わたしが生まれ育った実験施設と同じ研究をしている場所を、探しに来た」
抉られた地に風が吹き込む。隙間風が指笛のように甲高い悲鳴を響かせる。無音ではない静寂の中、二つの青は互いの過去と真意を知る。
交わす眼差しに驚愕と動揺と、凪いだ水面のような静けさが乗る。
「わたし達は同じだ。どこから来たのか、どうして生まれたのか……何を望まれているのか。それを、ただ、知りたかったんだ」