第3幕
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***
擂鉢街、という名で呼ばれていたその街は、雑多な場所だった。所狭しと並べられた住宅は子供の工作のような作りで、強風や火事であっという間に壊れてしまいそうだ。その陳腐な小屋のような家々が、半球状に抉れた地面に沿って並んでいる。中心に近付くにつれて段々と屋根が低くなっているので、街の隅に立つだけで全貌を見渡せた。
「……凄い」
圧巻だった。高層ビルの最上階から足元の街を見下ろすのと似た高揚感がある。伸縮性の望遠鏡を手に持ったままゆっくりと街全体を見回し、クリスは黒の外套を風にひらめかせる。
「……これが、擂鉢街」
ふと顔を上げれば、頭をもたげた尖塔が目に入る。骸砦と呼ばれていた高層建築物だ。崩壊の危険があるため周辺の立ち入りは禁じられているが、実際のところそれを守っている人は少ないだろう。鉄筋、ガラス――高度な建築技術を使わざるを得ない高層建築物となれば、使用されている材料は一級品だ。それが目の前にあるのに利用しない貧民はいない。
青い空を背景に暗い影を街に落とすそれを、見つめる。
白い霧に街が包まれたあの日。あの場所に、三人の男が集っていた。太宰、澁澤、そして。
「……ドストエフスキー」
口にしたその名は風によって霧散した。しばし尖塔を見つめ、しかしクリスは頭を軽く振る。
「やっぱり言いづらいからドストで良いや」
顔の大半を隠す深いフードを被る。それから、ふと思い出してポーチのポケットにピンクのそれを押し込んだ。再び街を眺め、その中心部へ向かう下り坂を歩き始める。
この街の構造は簡単だ。螺旋状に中心部へと続く下り坂と、直線状に中心部へと続く階段。直角に交わったいくつものそれらに沿って家々が立ち並ぶ。幾何学的で実用的な構造。この抉れた地面の面積全てを有効活用するために考えられた、人々の知恵。
地下を抉るこの街に住む人々は、地上の人々と一線を画している。一言で言うならば彼らは貧民だ。国に認められず、世界から弾かれた者達。戸籍に名のない者、税金を払えない者、何かに失敗し全てを失った放浪の者。
骨張った体で無気力にうずくまる人々の姿に、かつての自分が、そして今の自分が重なる。
――来い。雇ってやる。
全てを失い、神に切望し、呆然と毎日を生きていたあの場所でフィッツジェラルドに会わなければ、今もクリスはここと同じような場所でうずくまっていたのかもしれない。
彼らとクリスは本質的には同じなのだ。違うのは、手を差し伸べてきた相手がいたかどうか、その手に応えたかどうか。
それを人は「運が良い」と表現するけれど、果たして自分は運が良かったのだろうか。
ふるると頭を振る。過去のことはどうでも良い、今考えるべきは今現在のことだ。手記のことだ。今日一日で手記の解除方法を調べ尽くさなければいけない。
目尻を擦るように袖で強く拭う。この三日間、手記のことばかりを考えていてろくに眠れなかった。――否、わざと手記で頭をいっぱいにしていたという方が正しい。
手記のことだけを考えていたかった。
その後に用意された、最後の約束について思いを馳せるたび――手記のことなどどうでもよくなりそうだった。
「……惑うな」
自分へと言い聞かせる。
惑うな、惑うな。手記を解明し、ドストエフスキーよりも優位に立て。ウィリアムの真意を知り、自らがすべきことを見定めろ。
優先順位を見誤るな。
甘い優しさに酔うな。
”わたし”という責任を背負い続けろ。
――生まれてきてしまったという責任を。
「おい」
ふと、何かを呼ぶ声が聞こえてきた。誰かを脅すことに慣れている、狂気と笑みを含んだ短い声だ。抗うことなく、クリスは立ち止まる。その周囲を家の影から現れた人影が囲む。薄汚れた男達だ。この国の人間ではない風貌、彼らの手には銃器。海外がら流れ込み、この静寂の街に逃げ込んできた犯罪組織か。
「お前、ポートマフィアの人間だな?」
「……は?」
思わず気の抜けた声を出したクリスの様子に何を思うことなく、彼らのボスらしき男は得意げな笑みを浮かべた。
「俺達の縄張りのど真ん中を堂々と歩く馬鹿野郎なんて、そのくらいしかいねえからなあ」
「……あ、そういうこと」
「ここらのちっせえ組織は懐柔した。探偵社への襲撃は失敗、ギルドの遺産は手に入らずじまいだったが……だがポートマフィアを落とせば俺達《ザアパルク》はこの街の誰よりも強く崇高な存在になれる」
聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。
「……探偵社への、襲撃」
ギルドの遺産。
思い出すのは喫茶うずまきだ。探偵社の入っているビルの一階にある、小さな喫茶店。以前、そこが襲撃され店長が指を怪我したという知らせが届いた。詳細は知らないが、確かその時の襲撃犯の名が――《ザアパルク》。
激昂した探偵社の面々に散々痛め付けられた後、どこかに逃げていったという話だったが。まさかこんなところにいて、しかもまだこの街を諦めていなかったとは。
「……ふふッ」
笑みがこぼれる。突然のことに、男達にざわめきが広がった。
「あははッ」
「な、何笑ってやがる、こいつ……!」
「いやあごめんごめん、ついね」
笑い声を隠していた手を口元から離し、クリスはふわりと両手を広げた。
「ええと、それで何の用?」
「俺達の人質になれ」
ボスが包帯の痛々しい腕でクリスを指差してくる。
「さっきのポートマフィアの野郎に仲間の大半がやられた」
「油断しすぎじゃない?」
「うるせえ、不意をつかれただけだ。手札を揃えて襲えば人数で勝てる。相手は一人、俺達はここら一帯を支配した犯罪者組織だ」
「勇猛だねえ」
「俺を知っているか? ポートマフィアのお嬢ちゃん」
「いや全く」
「一々口挟んで来るんじゃねえ。――俺はな、サムネイルって呼ばれているんだぜ?」
ふと、ボスはポケットから何かを取り出してきた。銀色の工具。手のひらより一回り大きいほどの、ペンチに似た、平たく大きな板を曲げ剥がすことができる道具。使い込まれたプライヤだ。他の皆が持っている銃器よりも手軽で小さく、危険性は低い。が、それは人を殺める場合だ。
眉を潜め、それを睨む。
皮膚を掴み捩りもぎ取ることのできるあの工具は、銃器よりもよほど拷問に向いている。
「……悪趣味だね」
「人の娯楽に口を出しちゃあいけねえぜ、お嬢ちゃん」
「それもそうか」
「無駄な抵抗は止しな、銃器が見えてるだろう、全身穴だらけになるからよ」
「わかった」
あっさりと言い、クリスはぞんざいに右手を差し出した。へ、とボスが間抜けな声を出す。緊張感を失ったその顔へ、クリスは「ほら」と脱力した手を揺らした。
「やりなよ」
男達は互いの顔を見遣る。そして何かを決したのか、ボスがじわりとクリスへ歩み寄ってきた。おそらくはクリスの素直さに拍子抜けし、同時に訝しんでいる。
「……随分と素直じゃねえか」
「無駄なやり取りは嫌いなんだ。……そうだ、折角会ったんだ、君達に良いことを教えてあげる」
ボスの手がクリスへと近付いて来る。右手の親指を掴もうとするその手の動きを、見つめる。
「――今日のわたしは非常に機嫌が良くない」
親指を掴まれる直前、クリスはバッとその手首を掴んだ。あらかじめ緩く曲げておいた肘を瞬時に伸ばしたのだ。無防備にこちらへ差し出されていた太い腕を引っ掴んで引き寄せ、同時に右足で関節部分に膝蹴りを食らわせる。肘の内側を狙った蹴りによってがくりと腕が曲がり、ボスの体が前のめりになった。右足が着地すると同時に腰を捻って左足を地面と水平になる位置まで振り上げ、体ごと鋭く回転。足の甲でボスの首を蹴り飛ばす。首筋を砕く感触が足を伝った。
「ぐは……!」
ボスが呻く。周囲の男達がようやく目の前の状況を把握する。
彼らが一斉に銃器を構えようとする気配。
それらの銃口がこちらを定める前、クリスはボスの腕を掴み上げながらその背後に回り込んだ。相手の肩関節が悲鳴を上げる。気にせず、空いた左手で腰から銃を掴み出す。安全装置は彼らと話している最中に外してあった。
銃口をボスの足元へ。すぐさま引き金を引く。
――ダァン!
一発の銃声に銃器を構えきれなかった男達が凍り付く。誰もが、地面を抉った穴が白い湯気を上げている様子に見入る。
周囲を牽制するように、それはクリスと男達の中間地点に立ち昇っていた。
「わたしは別に拷問を趣味にしていない」
わざと外した銃口を、今度はしっかりとボスの太股へ押しつける。
「義務だ。反応が悪くても気にしないし、間違って殺してしまったとしても構わないと思っている」
「ま、待て」
「誰が口を開いて良いと言った?」
ぐ、と銃口を強く押しつければ、ささくれだった沈黙が波打ちながらも広がった。
「とはいえ君達に尋ねることはない。君達がここに来たのはつい最近だ、過去のことを知っているとは思えない。さて、どうしようか。――何か意見は?」
発言を促すように声を張り上げるも、返答はない。
「ならわたしの意見を言おう。――わたしに下れ」
「何……?」
「情報を集めて欲しい。何、子供でもできるお使いだ。難しいことじゃない。ちょうど良いと思うよ? 探偵社に負け、ギルドに勝てなかった程度の君達がポートマフィアを落とせるわけもないし、わたしを道具として扱えるわけもないんだから」
「このアマ……!」
ボスが歯ぎしりしながら呟く。クリスは引き金を引いた。
――銃声。
重々しい木霊と同時にボスが地面へ崩れ落ちる。血が太股からあふれ、広がっていく。
「ぐ、あああッ……!」
「ボス!」
誰かが叫ぶ。その声を出した方へ、クリスは銃口を向け引き金を引いた。一発は彼の銃器をはじき飛ばし、もう一発はその喉元へ飛び込む。鮮血が飛沫く。
ドサ、とそれは地面へ仰向けに倒れた。
「もう君達に発言は求めていない、勝手に喋るな」
彼らと初めて言葉を交わした時から変わりない声音でクリスは言った。
「それに言ったはずだ、無駄なやり取りは嫌いだって。イエスかノーかだけを口にして」
足元で痛みに呻く男へ、再度銃口を向ける。
「まあ良い、おかげでやっと確信が持てたよ、”ボス”」
けれど今度の狙いは、頭部だ。
「君は自分達のことを組織だと言ったね。組織というものの構造は至ってシンプルだ。頂点に長がいる、ただそれだけ。誰が頂点かを見極められれば攻略したも同然だ。頂点の人間がいなくなれば組織は組織ではなくなる」
「ま、待て」
「探偵社に負けた君達のミスは、組織の長ではなく組織の構成員でもない、部外者を狙ったこと。必ず報復される。返り討ちを狙ったのかもしれないけれど、ボスが直々に手を下す君達と長が表に出ない探偵社とでは圧倒的に君達が不利だ。彼らはそこらの組織とは違う。何たってここは魔都ヨコハマだからね」
フードの下でにこりとクリスは笑った。
「君達、ヨコハマを知らないにもほどがある。事前に調べておかなくちゃ」
こちらを見上げてくる目に恐怖が宿る。恐怖に揺れ見開かれる目に、自分の姿が映り込む。
酷く心地良い快感が、脳髄を走った。
これだ。何度も見てきた光景。死を恐れる人を容赦なく死へ落とす自分の姿。鏡を眺めている気分だ。見慣れた姿に、酷く安心する。底のない永遠の落下に身を委ねるような、無に等しい快楽、諦念に似た安堵。
わたしは結局、そういう人間だ。
引き金に指をかける。それへと力を込める。男の恐怖が増大する。
――瞬間、爆風が衝撃と共に空から激突してきた。