第2幕
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[Act 2, Scene 7]
クリスは劇場の観客席で一人座っていた。手元には小型のパソコンが開かれている。
「……出てこないな」
画面にはプログラムコードがめいっぱい並んでいる。
とある組織のサーバー内部に侵入しているのだが、やはりというべきか鉄壁だった。欲しい情報が入っているであろう場所まで辿り着けない。何重にも罠が仕組まれていて、一つでも引っ掛かると逆探知されるようだった。こちらとて簡単に逆探知をされないプログラムを組んだパソコンを使っているが、それほど危ない橋をわざわざ渡りたくはない。
「やっぱりポートマフィアともなると外部からのアクセスは難しいか」
侵入を諦め痕跡を消しつつ接続を切る。
クリスが求めている情報は通信記録だった。ポートマフィアが誰かとやり取りをしていたのなら、その記録が残っているはずだ。やり取りした相手が奴でないならば問題はない。しかし奴であったならば、奴がクリスの存在に気付く前に手を打つ必要があった。
先日、通りすがりを装って敦から事情を聞き出した時のことを思い出す。
――身に覚えもないのに、僕に七十億もの懸賞金が懸かってて、それを目当てにポートマフィアに襲われて……。
虎の異能者である彼に賭けられた七十億。それほどの金額を提示できる相手にクリスは心当たりがある。それを確かめたかったのだが。
「……厄介だな」
そろそろ次の国へ移る準備を始めた方が良いだろうか。しかしこの街は捨てがたい。一旦身を潜めることも考えたが、避けたかった。今、クリスの――リアの名は広く知れ渡り始めている。前作の「ロミオとジュリエット」は空前の大ブームを引き起こし、先日発表された「夏の夜の夢」も客足は絶えない。この勢いを潰すわけにはいかなかった。まだ発表しなければいけない作品が残っている。それらを出来る限り多く世に出し、リアの名を使って作品と作者を広く知らせなければいけなかった。己を危機に晒してでも、周囲を危機に晒してでも叶えなければいけなかった。
それがクリスの、あの人の夢だからだ。
加えて、懸賞金を賭けた相手が彼だとすると一つの事実が浮かび上がる。それを無視して身を隠すことはできない。
――奴に手渡してはいけないものがある。
「いたいた、リア!」
考え込んでいたクリスの名を呼び、どどど、と舞台の袖から姿を現したのは太陽座の座長だ。立ち上がり、彼に歩み寄る。座長の腕にあるのは、以前クリスが渡した最新の脚本だった。
「座長」
「探したよ、こんなところにいるなんて」
「一人になりたかったものですから」
今日は劇場自体が休みとなり、舞台や観客席などに清掃業者が入る。今は控え室の方を掃除しているらしく、こちらは人気が全くなかった。
「で、読んだよこれ」
「ありがとうございます」
手渡された脚本をパラパラとめくる。ところどころ赤字で書き込まれているのが、座長の指摘箇所だ。クリスが記憶を基に書き上げ、座長が修正をするサイクルを何度も繰り返して太陽座の脚本は完成する。
これで何度目だったか。
「後で直しますね」
「話の内容はもう大丈夫。太陽座に合うテンポとか、動き方とか、見せ方とかに合わせたから、それを直してくれたらほぼ完成だ」
「わかりました、早急に直します」
クリスは本を閉じ、表紙に記したタイトルを――その下に書かれた人の名を指でなぞる。ふと遠い日を思い出した。
――クリスは、考え方の違う友が間違った道を歩んでいる時、どうする?
唐突な問いに当時のクリスは答えられなかった。「考え方の違う友」というものがいなかったからだ。そんなクリスに、彼は笑って続けていた。
――人が選ぶものは大きく二つ。友愛か信念だ。そして多くの人は己の信念を優先する。それは間違いじゃない。けれど、それが正しいかは判断する必要があるね。間違っていないからといって正しいとは限らない。
当時は彼の言った意味がわからなかったが、今なら何となくわかる。
思い耽るクリスに、座長はふと訊ねた。
「今度の出張の準備はどう?」
「問題ありません。今回は歌唱だけですし。歌手の方ではなくわたしが呼ばれたというのが不思議ですが……」
「リアの名前は有名だ、ゲストとして呼ぶことでお客様を楽しませようとしたんだと思うよ。ま、リアなら問題ないさ」
言い切り、座長はクリスを励ますように「大丈夫」と繰り返す。こそばゆくなってクリスは肩をすくめた。
「だと良いんですが」
「大丈夫さ。――それにしてもこの作品は言葉の力というのがよくわかるね。演説一つで民意が飜る。それにブルータスの葛藤はあらゆる人に身近に感じられると思うよ」
「親愛なる友人にして野心家のシーザーを敬う気持ちと危惧する気持ち……友愛と信念、どちらを選択するかという問題は多くの人が抱えていますから」
人はやはり友愛を選ぶのだろうか。自分の気持ちを押し隠して友人達の輪に加わろうとする傾向の強いこの国の人ならば尚更。しかし、とクリスはある人を思い出す。
その人は最近会った人だった。舞台の上から見えるほど堂々と号泣し、同僚達に隠れるように何度か劇場に姿を現してくれている人だ。先日蛍光灯の欠片の雨からクリスを守ってくれた人だ。理想を書き留めた手帳を常に携帯している几帳面な人だ。
実現しようのない理想を信じて抱え続けている、哀れな人だ。
彼にこの作品はどう映るだろう。葛藤の末信念を選んで友を暗殺した主人公に共感するのだろうか、反発するのだろうか。
あの人は己の理想に反する知人を前にした時、どうするのだろうか。
ふと、聞いてみたくなった。
「ああそうだ」
ふと座長が拳を自身の手のひらにポンと打ち付ける。
「清掃業者の人から、リア宛てに手紙を受け取っていたんだ」
「わたしですか?」
座長から手渡されたのは、小綺麗な黒い封筒だ。表にも裏にも差出人の名前は書かれていない。厚紙の封筒でもあったせいか、中身を透かして見ることはできなかった。明らかに不審だ、おそらく爆弾ではないと思うが。
「彼らも君のファンなんだねえ。ファンが多いのは良いことだ」
座長は一人嬉しげに頷いている。それを横目に、ポケットから取り出したナイフで封を切り、クリスは中に入っていた一枚の紙を取り出した。端をぴったりと合わせて二つ折りにされたそれをカサリと広げる。
――その短い文面を、読んだ。
「……座長」
「うん?」
「わたしそろそろ帰りますね」
手紙を封筒に戻してナイフと共にポケットに入れ、クリスは脚本を胸に抱えながらにこやかに言った。
「早くこの脚本を仕上げないと」
「ああ、ファンレターに次回作への期待が書かれていたのかい?」
「そんなところです」
違和感のない笑みなど簡単なものだ。
座長に疑われることなく、クリスは急いた心のまま劇場を後にした。