第3幕
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包丁を持ったクリスに躊躇いなく国木田が突っ込んできた時、ああ、やはり、と思った。その手はきっとわたしを捕まえに来る。捕らえ、閉じ込め、甘い言葉で手足を封じてくる。それを振り切るためにこの地を去ろうとした。
ここに留まらなければいけないことは知っている。監視から逃げるということがどういうことかも知っている。けれど、自分一人のみならず手記までもが一箇所に留まっている状況は非常に危険だった。
手記は、クリスは、言わば”不可視の爆弾”だ。手記があれば量産できるし、クリス一人でも大陸一つを荒れ地にするくらいのことは容易い。そこにいるだけで驚異的な脅迫になる。手記を持ったクリスがこの街にいるというだけで世界の情勢は大きく変化するのだ。
クリス一人ならば、逃げ続け拒み続ければ良かった。けれど手記はそうもいかない。クリスと違って堅固な意志があるわけではないし、奪われたり盗まれたりする可能性もある。クリスとて人間だ、完璧に隠しきれる保障はない。けれどその中身を読まねばドストエフスキーに優位を取ることができないため、解錠せずに廃棄する選択はできない。
手記を誰よりも先に手に入れ、ドストエフスキーと同等かそれ以上の情報を得、そして以前よりも厳しい逃亡生活を送る。そのために必要な行動の一つが、この街を離れることだった。
来るべき別れだったのだ。何度も繰り返してきた、逃亡のための別れ。必要なら関わった人間全てを殺すし、必要なら街ごと燃やし尽くして証拠を消す。この包丁が血に汚れたとしても、それは特別なことではなくて、今まで通りの日常の一部に過ぎない。
だから躊躇わなかった。躊躇わないはずだった。
「……ッ、んで」
息が震える。
「なんで」
背中に回された腕は状況に気付いているだろうに、緩む気配は全くない。静かな呼吸音が耳元を擦過する。
「なんで」
包丁を逆手に持った腕が震える。標的を固定するつもりで国木田の背中を押さえた手に汗がにじむ。
抱き締めてきた国木田の背に、クリスは包丁を突き立てようとしていた。切っ先は既に国木田の服を貫き皮膚へ触れている。けれど、それ以上押し込むことができなかった。押し込めさえすれば、刃先は間違いなく肺を破き心臓に到達する。そういう位置に包丁を当てている。
なのに。
「なんで」
これは誰に向けたわけでもない疑問だ。
「どうして」
「……いつかこういう日が来ると思っていた」
囁き声は直接耳朶に届く。
「強引にでも、この街を離れようとする日が。その時、きっと俺はあなたに殺されるのだろうと……思っていた。あなたにとって俺は情報を与えすぎた危険人物だろうからな」
その通りだ。その通りだから、殺さなくてはいけなかった。
なのにどうして、包丁を手にしたこの腕は動いてくれない。
「あなたはいつも俺を信用してくれない。それもそうだろう、俺はあなたを監視する立場だからな。仕方のないことだ。そう自分に言い聞かせていた。だが……」
違ったんだな、と安堵を混ぜたため息が耳元を過ぎていく。
「騙してすまなかった」
優しい声が聞こえてくる。
「……信じてくれて、ありがとう」
――叫び出してしまいたかった。
息を詰める。震える唇を必死に引き締め、奥歯を噛みしめる。全身に力を込めて、吐き出す息が震えるのを堪えた。声が漏れ出ないよう、肺の奥深くへ吸気を押し込める。
強く目を瞑る。額を国木田の肩に押しつける。
カラン、と包丁が床に落ちた。それを手放した手で、国木田の服を掴む。
胸の奥で暴れる感情を力尽くで押しつぶす。呼吸を止め、叫びを殺し、全身に力を込めて目の前の人に縋り付く。
それでも、これは喉をつんざこうとしている。
いっそそのまま叫び出してしまいたかった。
「……あなたのことだ、いつでも出国できるよう、準備してあっただろう。今日にでも出て行けたはずだ」
背中を撫でる手があたたかい。
「だが、予定は三日後……その間に、何かするのか」
答えられない。手記のことも、ウィリアムのことも、言えない。
「言えない、か……わかった。ならこれ以上何も言わん。だが、一つだけ頼んでも良いか」
希う声は低く心地良い。
「三日後、話をさせてくれ」
「……ッ」
「言いたいことがある。その後なら殺すでも何でもすれば良い。だから」
髪に触れていた手が後頭部を撫で、そのまま抱き寄せてくる。
「――その時は、何も我慢するな」
答えることはできなかった。強く、強く、その胸に顔を埋める。服を掴んでいた手を、その大きな背中に回し、強く抱き締めた。
ただひたすらに、しがみついていた。