第3幕
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彼女はいつもと変わりなかった。探偵社員の皆と会話し、頼まれていたチケットを渡し、笑い合う。仕事が早めに終わった後、彼女はよくこうして探偵社に遊びに来ていた。太宰をつるんで国木田に悪戯を仕掛けた時もある。いつの間にか社内が上演会場になった時もある。
彼女はいつも笑っていた。楽しげに、嬉しげに。その裏にある思いなど全く読み取れないほどに、明るく、朗らかに。
今日も。
「このお店はいつ来ても賑やかですね」
夕方で人の多い八百屋を物珍しげに見回し、クリスは目を瞬かせた。
「こんなにたくさんの人がいるのに、品物が全然なくならないなんて不思議」
「品物の仕入れ数を調整してあるからな」
「へえ、店に入るだけ仕入れているわけじゃないんですね」
そう呟いてから何かに気付いたように彼女は国木田を勢いよく見上げた。
「べ、別に、知らなかったわけじゃないですから!」
「知らなかったのか」
「う。……よ、世の中にはいろんな仕事があるんですね」
適当なことを言って誤魔化しながら、彼女は店内を見遣るそぶりで国木田から視線を逸らす。その後頭部を見てため息をついてから、国木田は野菜売り場の商品へと手を伸ばした。横からクリスが覗き込んでくる。
「ば、れい、しょ……?」
「じゃがいものことだ」
「あ、ポテトか」
「柔らかくなっていないもの、腐っていないものを選ぶ。他の野菜にも言えることだが、実際に持って重さが軽すぎないかを確かめるのも重要だ」
「土がついているんですね」
「これが普通だ。洗えば落ちる、問題はない」
「へえ……」
何を買うにしても、クリスは物珍しそうに国木田の手元を見つめていた。本当に家事の類をしたことがないのだろう。これほどまで物を知らないのなら、いっそ家事手伝いを雇った方が良いのではと思えてくる。自分のやり方と違っていて苛立つ、などといった問題が全くなさそうだ。
「買い物って楽しいですね」
国木田の思考など全くお構いなしに、クリスは楽しげに笑う。
「たくさんある中から選ぶのとか、武器を選んでいる時みたいな気分になってわくわくします」
「武器選びと同一に考えるな」
「あと、魚とか野菜の元々の形を知ることができて驚きの連続です。賢治さんが『たまねぎの表面は白くない』って言っていたのが本当で、びっくりしました」
何から突っ込めば良いのかわからない。そうか、と適当な相づちを打ちながら会計を済ませうと、クリスが買い物袋の一つを国木田から奪って自ら手に取った。
「わたし、こっち持ちますね」
「おい」
「ふふ、何だか買い物をした人になれた気分」
少しばかり重いだろう、野菜の入った袋を持って彼女はタタタと先へ行く。今日の買い物の量は決して多くない。一人でも問題なく持てる。おい、と呼び止めようとした矢先、彼女のポーチの上を跳ねる桃色の装飾物に気が付いた。
クマの防犯ブザー。
国木田が彼女にあげた物だ。
――幼稚なものをあげたんだねェ。
船上で与謝野に話しかけられた時のことを思い出す。なぜ知っているのかと問えば、何でもクリスがそれを社員達に見せて回っているらしかった。恥ずかしさで体が硬直した。与謝野の差し出す酒を全く断れなかったほどだ。
――どうせあげるなら指輪にでもしておけば良かったのに。ま、何にせよ嬉しかったんだろうよ。自分が、周囲に助けを求めても良い存在だってことを教えてくれる物だったんだから。
指輪はともかく、と国木田は少女を見つめながら思う。そうだと良い。買い物袋を手に帰路を行く女性、今のクリスはただそれだけだ。追われることもなく、孤独をあえて選ぶ必要もないはずの、一人の人間。彼女はそうであるべきだった。
「あ、国木田さん、聞いて下さい」
くるりとクリスが身を翻す。傾き始めた夕日の光を受けて、ふわりと広がった髪が金色を反射した。
「今日すごいことを知ったんです」
「ほう」
「カレーって自分で作れるんですって!」
「……ほう?」
「えっと、カレールウ? っていう調味料を使えば簡単なんだそうです。あの茶色って何でできているんだろうってずっと不思議だったんですけど、既製品があるなら無理に茶色で染色しなくても良くなりますね!」
自分がどれほど滑稽なことを言っているのかわかっていないのであろう満面の笑みで、彼女は楽しげにスキップした。彼女の身長よりも長く伸びた影もまた、同様に踊る。つま先で跳ね、着地する、軽やかな動き。
――青が国木田を探るように細められる。
「……そうだな」
「あ、もしかして知ってたんです?」
「ああ、物心ついた頃からな」
「……そんな馬鹿な」
むう、とクリスは不満げに唇を尖らせて眉を潜めた。が、何かおかしな光景でも見たかのように、クスリと肩をすくめて笑う。そのまま国木田を見遣りつつ、背中を向けて道の先へと跳ねるように踊り出した。
ころころと表情を変える少女を、夕日の色に眩むその笑顔を、見つめる。
それでもなお色味の変わらない青を、見つめる。
国木田の家の前に着いた時、ようやくクリスは手にしていた買い物袋を国木田へと差し出した。
「明日から忙しいので顔を出せないかもしれないです。またいつか時間が空いたら、探偵社にお邪魔しますね」
それじゃ、と彼女は身を翻して去ろうとする。特筆することのない、普段通りの彼女の動作だ。
けれど、国木田はその背を呼び止めた。
「クリス」
振り返った彼女は次の言葉を待つように国木田を見つめている。その青へ、言う。
「今晩はカレーだ」
「……そうでしたか」
「来い」
突然何を言い出すのだろうと言わんばかりのクリスを横目に、見せつけるように部屋の鍵を開けて戸を開く。
「カレーの作り方を教えてやる」
「……え?」
「一時間もあればできる。ついでに食べていくと良い。野菜を切るくらいならできるな?」
尋ねるも答えはなかった。そちらを見れば、彼女は目を丸くしたまま突っ立っている。目が合った。青だ。驚愕に見開かれた、水面のような青。
物言いたげに緑を差し込んだ、湖畔の色。
「……そうですね」
その色が微笑む。光を孕んで、優しく弧を描く。
「人体よりは簡単そうですし」
「そういうことを住宅街の真ん中で言うな」
全く、と呟いた後、国木田は自分の部屋へと足を踏み入れる。後ろから続いてくる足音に耳を澄ませる。靴底を擦る音、靴を脱ぐ音、靴下をはいた足が木製の床へ乗る音、そして――パタン、と扉が閉じられる音と共に、部屋が一段と暗くなる。