第3幕
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[Act 3, Scene 16]
久し振りに、外の空気を吸った気がする。
眼鏡越しにぼんやりと見上げた空は青かった。白い雲がゆっくりと一方向に動いていく。コンクリートで塗り固められた低い天井を見続けていたせいか、世界が酷く広い気がした。
「ほら、行くぞ! 国木田」
バシッ、と背を叩かれる。突然のことに勢い余って数歩前に出、国木田は無遠慮な同行人を見遣った。
「君が案内してくれないと、僕が探偵社に帰れないじゃないか」
「……乱歩さん」
「それとも市警の留置所が気に入ったなんて言わないだろうね? まあ戻りたいっていうなら構わないけど、君の無罪を証明したんだ、まずは僕に感謝して僕を探偵社に送り届けるのが筋ってものだろう? あー疲れた!」
唇を尖らせながら乱歩はぶつぶつとそう言った。不満げなのは、どうやら甘い物が食べたいかららしい。先程から「疲れた」を連呼している。それもそうだろう、と国木田は乱歩の背後、自分が先程までいた場所を見上げた。
ヨコハマ市警第二十七警備所、そこに併設された留置所。警官が二人並んだ入り口から、国木田は今し方出てきた。容疑者として留置されていたのだ。容疑は殺人。殺害対象は――ドストエフスキーを追う中で見殺しにした、子供一人。
無論、国木田が殺したわけではない。けれど「国木田が手を下したわけではない」という証拠がなぜかさっぱり出てこなかった。ドストエフスキーの策略だ。乱歩はそれを、異能で消された証拠を復活させることで無罪に変えた。そのおかげでまた日の下に出ることができたというわけだ。
しかし素直に喜ぶことはできなかった。あの子供は、国木田が間違った犯人を追ったがために死んだ。間接的に殺したという罪悪感は胸にずっと残っている。無罪という評価が本当に自分に相応しいのかという葛藤もは、この先何があっても消えないだろう。
けれど、と前を向く。そして、駄々を捏ねる乱歩を伴って、帰社の道のりを歩き始めた。
いつまでも立ち止まってはいられない。消えた命が戻ることはない。何度も目の前に突きつけられてきた真実だ。救えなかった国木田にできることは、今後出会う人々を必ず救う、そのために努力を重ねる、それだけだ。
「……乱歩さん」
道もわからないままに先を行く彼を呼べば、名探偵はくるりとこちらを向いて首を傾げた。
「何?」
「……ありがとうございました」
「別に。君のためじゃないし」
ふ、と。
「――僕がしたかったからしただけだ」
その目に何かが映る。珍しい表情だ、と国木田は思った。いつも天真爛漫で配慮がない、子供のような乱歩とは全く違う顔つき。目には映らない、記憶の奥底にいる誰かへと睨むように見入る視線。絶対的な敵対心。
その目の先にいるのは、誰だ。
けれどそんな緊迫感のある表情は一瞬で消えた。全く、といつものように周囲の迷惑を顧みない様子で両手を大きく上空へ突き出す。
「第一、国木田がいないと誰も駄菓子を買ってこないから備蓄が足りなくなる。留置されるのなら事前に買っておくのがお前の役目だろう?」
乱歩はプンプンと拳を突き上げながら怒っている。別に駄菓子を買う役目が当てられているわけでもないし、そういう役割があるわけでもないのだが。
「それは……申し訳ありません」
「ねるねるねるねるとキャベツ次郎、忘れないでよ」
「はい、わかりました」
手帳を取り出しきっちりと書き留める。帰社次第、買い出しに行かなければいけなそうだ。ついでに自宅の食材も買っておこう、と思い至る。ぱら、と手帳のページをめくれば、家に置いてあるあらゆる食材や日用品の一覧が現れる。それを見るに、野菜の類がそろそろ足りなくなるようだ。
ふと、ページを繰りながらあることに気がつく。
――最近、彼女と出かけていない。
間近で共に出かけたのは軍警の爆弾盗難事件の時か。最後に会ったのが先日の福沢の快癒祝いだったからか、手帳の予定欄を見るまで気付かなかった。
それにしても、とページを遡っていく。定期的に彼女と会っていることが記されていた。いつからこれほど会うようになったのだろうか。初めは、そう。
彼女が、それを望んだからだ。
おそらく、探偵社の情報を得るために国木田と接触を試みたのだろう。それがいつの間にか定期的に行われる暗黙の了解のようなものになって、今に至る。今でも彼女は国木田から情報を得ているのだろうか。彼女にとって自分は、ただの情報源のままなのだろうか。
――少しだけ、夢を見させてください
いや、と眉を寄せる。おそらく違う。彼女は、クリスは、きっと。
これは妄想ではなかった。確信だ。あらゆる可能性を考慮し、状況を俯瞰し、客観的に整理した結果、辿り着いた答え。だからこそ目を背けるわけにはいけなかった。彼女をこれ以上、一人にさせておくわけにはいかなかった。
なぜなら、彼女は。
「国木田」
突きつけられたのは、思考を読み、抉るかのような鋭い声。ハッと顔を上げてそちらを見れば、乱歩が背を向けたまま立ち止まっていた。片足を引いて振り返ってくる。薄く開かれた目が国木田を刺す。
「……手放すなよ」
「え?」
「彼女を決して、向こうにやるな」
まるで――まるで目の前にいない、国木田ではない誰かを睨むように、乱歩は低く告げる。
「引き留めろ。血まみれにさせてでも、絶望させてでも、息の根を止めてでも」
ぞく、と背筋を氷が這う。
「それができるのはお前だけだ、国木田。なぜかわかるか? そう仕組んだからだ。僕も太宰も、彼女を引き留める糸としてお前を配置した」
糸。
何のことだ。
立ちすくむ国木田を一瞥し、不意に乱歩は「あーあ」と大きな明るい声を上げた。うーん、と両手を上に伸ばして伸びをする。
「今日はいろいろあって疲れた。寝る」
あっけらかんと言い、乱歩は近くのビルへと入っていく。よくよく見ればそれは、探偵社が入っているビルだった。いつの間にか辿り着いていたのだ。
そして。
乱歩が入っていった入り口、そこに佇んでいた一人の少女の姿に、国木田は目を見開いた。
風に広がる亜麻色の髪、こちらに気付く青の眼差し。
「国木田さん」
彼女は国木田を呼んで、微笑む。形の良い、思わずこちらも微笑んでしまうような、笑み。
けれど。
「……クリス」
なぜだろうか。
少女が国木田を見つめている。その両目の青は、どこまでも深く、広く、不変な一色。
まるでショーケースに入れられた宝石のような、光に透かしても見る角度を変えても色味が均一の、青。
――美しい違和感。
息を詰める。眉を潜めて睥睨した国木田に、クリスはにっこりと笑いかけてきた。