第3幕
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***
通りを行き交う人々の様子は今までと相違ない。気の抜けた表情で歩く者、隣を行く知り合いと会話を弾ませる者、何かに引かれるように店に入っていく者、手に買い物袋をいっぱいに持って帰路を急ぐ者。
これが、平穏。普通、平常、穏和。
その中を歩くクリスの心境は、それとは全く異なっている。
――放心、焦燥、自嘲。
何を考えるのも億劫だった。
見慣れた仕事場の裏口から入り、楽屋へと向かう。自分にあてがわれた部屋へと入り、手慣れた手順で身支度を調えた。そして、皆がいるであろう舞台へと向かう。今日は今から稽古、そして夕方から舞台の予定だ。
「お疲れ様です」
一声掛けながら舞台袖へと顔を出す。スタッフの多くがこちらを見、いつもと変わらない笑顔で挨拶を返してくれた。
「リア」
そしていつもの通りに、その顔を明るくして駆け寄ってくる後輩。
「こんにちは、ヘカテ。練習は順調ですか?」
「はい、おかげさまで。リアの助言のおかげで、役により近付けた気がします」
「自分が体験していない役柄は大変ですけど、なりきるのは不可能ではないですから。今度の主演舞台、楽しみにしていますね」
ふわりと笑ってみせれば、ヘカテは満面の笑みで大きく頷いた。これもいつもと変わらない光景、いつも通りのやり取り。
わかっている、と心の中でクリスは思う。
――いつも通りにできていないのは、自分だけだ。
ふと、ヘカテがクリスを見つめて「よかった」と声を漏らした。
「大丈夫そうですね」
「……何か変な顔になってました?」
「いや、ええと、ほら、最近探偵社が臨時休業になってたりしてたじゃないですか。マフィアっぽい人が街の方にもいたし……リアって探偵社と仲が良いみたいだから、何か巻き込まれてないかなって心配だったんです」
杞憂でしたね、とヘカテは笑う。共喰い事件時の街の様子は知らないが、不穏な空気になっていたのだろうか。
「そうだったんですね。普段から連絡を取り合っているわけではないので、知りませんでした。探偵社のことを良く見ているんですね」
「リアが仲良くしているみたいだったからつい……じゃなくて、偶然、偶然ですよ。マフィアの方は嫌でも目に入りましたけど。でも何かを探しているみたいだったし、危ないことはされなかったので全然構わないんですけどね」
マフィアらしい人間が街にいても気にしない、というのはさすがにどうかとは思うが。
「おう、ヘカテ、リア」
道化役を主に担当しているヨリックがふらりとこちらにやってくる。そして、ヘカテの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「お前はいつも楽しそうだなあ、おい」
「冗談言わないでくださいよ、ヨリック。僕はただ、先輩からアドバイスをもらったお礼を言っていただけです!」
「アドバイス?」
「『体験していないことをどうやって表現するか』という話です」
にこりと笑いながら、クリスはヘカテの言葉を補足する。
「戦場の緊迫感、戦士の出で立ち……どれも私達には縁遠いものですが、演じないわけにはいきません。それをどう表現するかということにヘカテが悩んでいたので」
「ああ、そうか、ヘカテは今度戦時中の話の主演か。お前達は若いから十四年前に終わった戦争のことなんて覚えちゃいねえんだな」
ようやく気付いたようにヨリックが目を瞬かせる。ええ、とクリスはふと視線を外して悩むような表情を浮かべた。
「せめて、戦争に関する施設を見たり軍人さんとお話できたら、違うんでしょうけど……あいにく私はこの国に詳しくなくて。ヨリックは何か参考になりそうな場所とか、人とか、戦争に関係することはご存じありませんか?」
「さてなあ……」
ヨリックはそれ以上言わず、ただ頭を掻く。彼の答えには期待できなそうだ。他の人に聞けば何か有力な情報を手に入れられるだろうか。クリスは後輩思いの先輩のふりをしつつ、側で作業をしていたスタッフへ、さも他愛ない世間話のように同じ問いを向ける。
民間人から得る情報は未淘汰なものばかりだ。信用はできないが、調査の糸口にはなる。危険を冒して手当たり次第に政府機関の情報網に潜り込むより、こうして粗方目星を付けた方が効率が良い。
「俺が知ってんのは噂程度だからなあ」
何人目に同じ問いを向けた時だったか、照明係の男性がそう言って肩をすくめた。え、と身を乗り出したのはヘカテだ。
「何か知ってるんですか? パック」
「でも噂だぜ? 都市伝説みたいなもんだ」
「それでも十分ですよ! ちょっとでも戦争を追体験できたら、もっと演技が良いものになると思うので!」
「ヘカテは努力家だなあ」
じゃあ、と彼は咳払いをした。
「擂鉢街って知ってるか?」
クリスは首を横に振った。聞いたこともない。けれど、ヘカテは何かを思い出したかのように「あ」と声を上げた。
「擂鉢街って、あの、租界のところにある?」
ふと思い出したのは、天へとその尖塔を突き刺した高層建築物、その側で暴れ狂った赤い龍だ。確か、あの辺りのことをヨコハマ租界と呼んでいた。そこにその街はあるのだろうか。
「おうよ。そこって、妙な地形してんだろ? 何でもそこで大戦末期に大爆発が起きて、地面ごと周囲をぶっとばしたらしい。擂鉢状の街だから、擂鉢街だ」
「なるほど、それは初耳だなあ」
ヨリックが顎を撫でながら頷く。
「だかあそこら辺は治安がめっぽう悪いからな、間違っても行くなよ、ヘカテ」
「い、行きませんよ。ちょっと興味はあるけど……それで、それが戦争と何か関係あるんです?」
「ここからが根拠のない噂話だ」
パックはこっそりと手のひらを立てて、内緒話をするかのように背をかがめる。釣られてヘカテやヨリックも体を縮めた。
「……ヨコハマ租界の近くにゃあ軍事施設があって、そこに海外の捕虜が拷問を受けていたらしい」
――軍事施設。
「で、拷問の末、捕虜は死んじまったんだが、恨みの念が奴を化け物に変えてそこら一体を吹き飛ばした……そうしてできたのが擂鉢街だっていう話だ」
「まあ確かに、普通の爆発であの地形はできなそうですけど……」
「数年前に俺があの近くで荷運びをしていた時に酒の肴に聞いた話だが、どうよ、ちょいと面白いだろう?」
「うーん、そうだなあ」
ヘカテは困ったように眉を下げた。
「戦争と直接は関係なさそうですよね。爆発がその施設での何かの研究によるものなら、そういうものすら使われようとしていたっていう点で参考になるけど……ちょっとこれは参考にはならないかなあ……」
「何だとぉ!」
ヘカテの言葉に、パックは彼の肩へ勢いよく腕を回した。首を締め上げるそぶりを見せたパックへ、ヘカテは「わわ、待って待って」と逃げ出そうとする。が、荷運び経験のあるというその太い腕に敵うわけもなく、ヘカテはバタバタと暴れることしかできない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、とても良いお話でした!」
慌ててパックを褒め称えたヘカテの慌てように周囲の人々はドッと笑う。クリスもまた、その声達に混じって明るい笑い声を出した。けれどその胸中は、日の遮られた曇天の下のように暗く、冷え切っている。
――擂鉢街。
情報としては頼りにならないが、調べてみる価値はありそうだ。