第3幕
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***
項垂れたまま動かなくなったクリスを見、フィッツジェラルドは思考していた。
――チップ自体には別の役割がある。時が来るまで、君に持っていて欲しい。彼女から言ってくるはずだ。それまで、誰にも渡さずに隠し持っていてくれ。
あのライトブラウンの髪の軍人の言葉だ。まるでクリスがどこからか手記のことを聞き、フィッツジェラルドの元へそれについて尋ねに来ることをわかっていたかのような。しかし彼が彼女の言うもう一人の友人ベンだったのだとしたら、なぜフィッツジェラルドに手記を隠し持っていろと言ったのか。あの時点でクリスが手記を入手するのでは駄目だったのだろうか。疑問は尽きない。
そもそも彼女の語った友人二人は――特にウィリアムという男は、異常なほどに頭が良いように思われた。そもそもクリスは英国の兵器だったのだ、知識を与えて外に逃がしたというのに、今になって手記を読ませて兵器としての役割を行わせようとするのは非効率的である。
今というタイミングに、意味があるのか。しかしウィリアムは死に、英国の軍人であるベンが国を出てクリスの後を追えるとも思えない。
あらかじめ、仕込んであったというのか。数年後の未来を見据え、クリスの行動を先読みし――否。
目の前で放心している少女を見下ろす。
操っていたのか。彼女が故郷を離れてから数年、彼らの思うように選択し、移動し、辿り着き、戻ってくるように。
脚本に定められた通りに物語を進める、舞台の上の人形のように。
「……クリス」
名を呼ぶも、反応はない。ため息をつき、フィッツジェラルドは続けた。
「チップは保管してある。オルコット君に手続きをさせよう。三日後、取りに来い」
「……三日」
何かを気にするように呟いたクリスへ、フィッツジェラルドは頷く。
「安心しろ。厳重に保管してある。君でも盗み出せない場所にな。三日の間、誰にも奪わせるようなことはせん」
「……うん」
わかった、と彼女は呟く。その小さな声に、かつての彼女の声を思い出す。
――神様はどうして、わたしを殺さないの?
答えのない問いを呟いた少女に、当時は何も言わなかった。けれどもし、今一度彼女がそれを口にしたのなら、フィッツジェラルドは一つの予想を彼女に伝えていたかもしれない。
殺さないのではなく、殺せないのだと。
彼女にはまだ、役割が残っているからだと。
世界を震撼させるという、彼女が最も恐れる終焉があるからだと。
それを言ったところで、今の彼女の状態を見るに救いにも何にもならないのだろうが。
「……フィー」
ふと、呆然と宙を見つめていたクリスがフィッツジェラルドを呼ぶ。顔を上げた彼女の目に宿るのは、光の差さない沼のような青。
「……手記の解錠について、ベンは何か言っていた?」
「いや」
「じゃあどうすれば解錠できるのかはわからないの?」
「そうだな」
どうやらクリスは思考をチップの封印解除へと向けたらしい。自分に施された実験の詳細が書かれた手記、それを書いたのが友人だったならば、それを見ずに廃棄するという選択はできないのだろう。
おそらくそこに、彼らの狙いが書かれている。ドストエフスキーが手記について知っていたというのなら、その内容について知っている可能性も否定できない。彼女にとって手記の解錠はドストエフスキーの手の内を知る手がかりになる。仮にそこに世界を破滅させる内容が書かれていたとして、あらかじめ知っておけば対処ができるかもしれない。
最も、とフィッツジェラルドは元部下を見遣る。手記と、クリス。”両方をこの世界から排除すれば”世界の危機は回避できる。彼女はそのことに思い至っているのかどうか。
おそらく否だろう、と思考する。死ぬな、と彼女は友人に言われ、彼女はその言葉の呪縛に従って他者を虐げ生き延びてきた。今更その洗脳を解いて自ら命を絶つ選択ができるほど、彼女は強くはないし、呪縛も弱くはない。
それもまた、おそらくは彼女の友人が仕掛けた、彼女に絡まる操り糸の一つだ。
初めての友人、その信頼を利用した洗脳。思えば、友人を自らの手で殺めたことによる罪悪感と絶望感も彼女の行動を制限している。思い返せばいくらでも、その白銀の糸を見つけ出せそうだった。
――彼女は、幾多の糸で絡め取られている。
「……暗号やからくりを解くのに一番手っ取り早いのは、それを作った場所に直接行くことだ」
クリスはひねった蛇口のように止めどなく思考を口にする。その声に感情はない。何かを読み上げるような単調さで、彼女は呟いていた。
「型がわかれば解読できる。仕組みがわかれば紐解ける。作り手を捕まえれば拷問して吐かせられる」
「だがあの施設はもう存在しない。ベンと言ったか、あの軍人の居場所を探し出せばまだ手がかりはあるだろうが」
ふる、とクリスは首を横に振った。
「……死んだよ」
「何だと?」
「澁澤さんに……いや、ドストに利用されて死んだ」
それは、ドストエフスキーに手がかりを消されたということだろうか。手記のことをクリスに伝え、その解錠を強いてきたというのに、その方法の一つを潰すとは。まるでクリスの選択先を絞るかのような行動。
なるほど、とあの紫眼を思い出す。
手がかりを探す彼女のこの思考も、ドストエフスキーの罠か。
おそらく彼女が最終的に行き着くのは、奴が用意した手段なのだろう。
だが、それに乗じる以外に手記の解錠をする方法はない。甘んじて、罠にかかるしかないか。
「他に考えられる方法は、似たようなことをしている人か場所を探し出して調査をするくらいだ」
フィッツジェラルドの思考とは真逆に、クリスは思考を練っていく。地の底へと穴を掘るように。その先に埋まっているはずの答えを掘り出すために、自らの身を穴の奥へと沈めながら。
そしていつか、彼女は自身が地中の泥に囚われ動けなくなっていることに気付くのだろうか。
「……異能技術の開発は国の管理下、国の研究施設でしかできない」
先程彼女自身が言った言葉をもう一度繰り返し、クリスは不意に立ち上がった。何も言わずに部屋を出て行こうとするその背へ名を呼ぶ。
「クリス」
足を止めた彼女は、振り返らなかった。
「……この国の戦時中の状況を調べる。あの戦争は異能が勝利を決めた、参加国が異能研究をしていないとは考えられない。この国もどこかで異能研究機関を抱えていたはず。異能を組み合わせる技術や、任意の異能を任意のタイミングで発現させる技術を研究する場所が――あの国のあの場所と同じことをしていた場所があるかもしれない」
「”似たようなことをしている人か場所を探し出して調査をする”、か。なるほどな」
「三日後、また来る」
扉を開け、彼女は何かから逃げるように足早に部屋を出て行く。それを見送り、フィッツジェラルドはテーブルに置いていたカップを手に取った。時間の経ったそれは既に温度を失っている。体温ほどにぬるくなった珈琲を口に含めば、それは明瞭な不快感と共に喉を伝い下りていった。