第3幕
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***
そこは、警備会社の代表に相応しい部屋だった。角の尖った家具、モノトーンで飾り気のないテーブルやソファ。
「この部屋は俺とオルコット君しか立ち入らない」
奥の給湯室からカップを持ち出しながら、フィッツジェラルドは自慢げに言った。
「盗聴器も監視カメラもない、密談には持ってこいの場所だ」
「……驚いたな」
意気揚々と給湯室で何やら始めたフィッツジェラルドをまじまじと見、クリスは呆然と声を上げた。
「君自らもてなしてくれるなんて。誰かに毒でも盛られたの? それともこれから毒が盛られるの?」
「君はとことん失敬だな。……オルコット君が部屋にこもっている間、誰も何も淹れてくれないからな。お隣さんに教えてもらった」
「お隣さん……?」
誰だそれは。
「たまには自分で淹れるというのも悪くない。豆の種類はもちろん、豆の挽き具合や熱湯の淹れ方にもコツがあってだな」
「興味ないからパス。それに、君が淹れたものなんて恐ろしくて飲めないよ」
「可愛げのない奴だな君は」
「それはどうも。――早いところ本題に入りたいんだけど」
結局自分の分だけを準備し、フィッツジェラルドはクリスの向かいへ腰掛けた。悠然と足を組み、淹れたばかりの珈琲を口にする。
「本題か。ちょっとした思い出話……だと聞いているが?」
「君と仲良く語り合う思い出話なんて全くないよ。――聞いたよ。あの日、太宰さんと組んでドストを捕まえたんだって?」
「ああ」
フィッツジェラルドは、ズ、と珈琲の味を楽しむ。が、その優雅な時間は一瞬で終わった。眉をひそめて「何?」と顔を上げる。
「今、何と言った?」
「君と仲良く語り合う思い出話なんて全くない」
「あえてその言葉を繰り返さなくとも良い。――ドストだと?」
「だって長いんだもの、ドストエフスキー」
ひょいと肩をすくめてみせる。
「ドスト。呼びやすいじゃないか。でしょう? フィー」
わざとらしくそう呼べば、元上司はかなり不満そうに片眉を上げた。
「……君はとことん失敬だな」
「呼び方について今更言い合うつもりはないよ。さて、本題だ。知っていると思うけど、あの日」
ふと言い澱み、しかしクリスは真っ直ぐにフィッツジェラルドを見返した。
「……あの日、わたしはドストと会った」
「ああ」
「彼に勧誘もされた。断ったけど」
「利口な判断だ」
「けど、一つ気になることがある」
ねえ、とクリスは言い、そして深く呼吸を一度挟んだ。唇を舐め、そして改めて顔を上げる。
「――手記を、覚えてる?」
その一言に、フィッツジェラルドは動じなかった。睨みつけるようにクリスを見据えたまま、微動だにしない。けれど。
「……覚えてるんだね」
その瞳孔は、僅かに開いていた。
「〈本〉に関する情報と引き換えに渡したチップ、あれが必要になった。今すぐ、できる限り早く、手に入れたい。持ち主が今どこにいるのか、検討はつく?」
「……手記のことを、奴から聞いたのか」
「そうだけど?」
「なぜ奴が手記のことを君に告げた」
その問いに、クリスは目を細める。
「……妙な言い方をするんだね。”なぜ奴は手記のことを知っていたのか”じゃないのか」
フィッツジェラルドは何も言わない。鋭さを秘めた沈黙が部屋に満ちる。少しでも身じろぎすれば棘が体に刺さってくるかのような錯覚。
「あの手記について何か知ってるの?」
「……なかなか興味深いことだ」
「質問の答えになってない」
「そう急かすな」
カップをテーブルに置き、フィッツジェラルドはドサリと背もたれに寄りかかった。組んだ手を腹部に添え、堂々たる威厳を放つかのように踏ん反り返る。
「――あの手記は〈本〉についての情報提供の対価として求められたものだ。形状は数センチ四方のチップ、だがあのままではただの金属片だ、”手記”と呼ばれるに足る機能はない。何らかの異能が込められていることまでは解明してある。もう一つの異能と組み合わせることで本来の機能が発動する”鍵付き”の手記だということまではな。そこまでは話してあっただろう」
「そうだね」
「手記の入手を依頼してきたのは英国の軍人だ。それと引き換えに〈本〉についての情報を受け取る手筈だった。が、実際、奴は手記を受け取らなかった」
「……受け取らなかった? 依頼してきたのに?」
奇妙な話にクリスは眉をひそめる。手記を渡せと言ってきたのに、それを受け取らなかったとはどういうことだ。考えられることは、相手の事情が変わったか、もしくは。
「――元々手記を手に入れること以外に目的があった?」
「その通りだ、クリス」
パチン、とフィッツジェラルドは指を鳴らした。
「奴の狙いは、手記を手に入れ”させる”こと――そのために、奴は君に手記を奪取させた」
「わたしに?」
「争奪作戦に君を入れるというのが、向こうから出された条件の一つだ」
ぞ、と背に悪寒が這いずる。心臓が地の底に落ちるかのような、怖気。
「……わたしを、知っていた? 英国の、軍人が……?」
「いや」
フィッツジェラルドは落ち着いた様子で呟く。
「おそらく奴は軍人ではない。技術者だ」
「技術者……」
「奴は自分が手記を作ったと言っていた。友に言われて、当時存在しなかった技術を用いてチップ状の手記を作ったと」
手記を作った。
友に、言われて。
手記はウィリアムによって作られたものだ。つまりクリスに手記を手に入れさせたのは。
――ウィリアムの、友人。
グワリと天地が逆転する錯覚。目眩。重力方向がわからなくなるほどの強い吐き気。
よろめくようにクリスは立ち上がった。
「……フィー」
「どうした。顔色が悪いぞ」
フィッツジェラルドが不思議そうに片眉を上げる。それに軽口を返すこともできないまま、唾を呑む。それでも、喉が乾いて仕方がない。
呼吸が浅くなる。動揺に視界が霞む。心拍と同時に頭がズキズキと痛む。脳に詰め込まれた泥水が口から湧き出てくる悪寒と汚臭に、手で口を塞ぐ。
「……チップに使われている技術は、軍人の技術者が作った新技術」
「そうだ」
「……異能技術の開発は国の管理下、国の研究施設でしかできない」
「ああ」
「……チップを作るように軍人に言ったのは、彼の――友人」
「それがどうした」
「フィー」
声が震える。知ってはならないことを、知ろうとしている。
――僕が君を守ってあげる。
――逃げろ! 逃げて、生き続けろ!
優しい記憶が、曖昧で遠くて、霞んでいる。
「……君が会った軍人は、ライトブラウンの髪と目の男だった?」
違うと言って欲しかった。何を言っているのかと鼻で笑って欲しかった。
なのに。
「……ああ」
フィッツジェラルドは頷いた。
「そうだ」
是と、答えた。
その言葉が示すことは、ただ一つ。
「……は、ははッ」
引きつった笑いがこみ上げてくる。膝から力が抜け、ソファへと座り込んだ。
世界を壊す技術について記した手記を作るようウィリアムはベンに指示した。ウィリアムはその手記の存在を外部に広め、ベンもまたクリスに手記の存在を伝えた。
「……ウィリアムもベンも、わたしを利用しようとしているんだ」
世界を破壊するために。クリスを兵器として使うために。
あの記憶は、あたたかな日差しは、優しい笑顔は、声は、全て偽物だったのだ。
「クリス」
「わたしの、あの場所の、ことが書かれているんだ。あれには……異能実験の、ことが、国の機密情報が、本当のことが……それがあれば、また、あの場所と、同じことが、実験ができる……戦争が、起こせる……ウィリアムは、ベンは、それが目的で……」
瞬きの仕方がわからない。呼吸の仕方がわからない。混乱と絶望が思考を奪い、感覚を奪う。
「……わたしに、世界を壊させるつもりなんだ」
死んだ人間との過去に縋って、それだけを頼りに今まで生きてきた。言われた通りに生き延び、そのためにたくさんの人を殺めた。けれど、それら全てが策謀で。
「……馬鹿だ」
彼らにとってわたしは友達なんかじゃなかった。操り人形だ。細い白銀の糸が脳の奥まで入り込んでいて外れない。その糸の存在に気付かないまま、わたしは彼の思う通りに舞台の上で踊り、笑い、泣き、そしてこの世界を戦火で覆い尽くす。
馬鹿げた話だ。そんなことに今更気付くなんて。
「……馬鹿、だったなあ」
呟きはくぐもったまま宙に掻き消える。