第3幕
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***
ずっと、隠し通すつもりだった。
落ち着き始めた呼吸を繰り返しながら、クリスは自分を包み込むぬくもりに身を委ねていた。記憶の奥底にある、血臭を帯びたあたたかさとは違う。違うと言い切れるのは初めてだ。誰に触れられても、あの記憶は蘇る。まるで誰にも頼るなと言わんばかりに、あの壮絶な記憶はクリスを妨げ他者の優しさを弾いた。今までは誰に対してもそうだった。
なのに。
ぬくもりへと押しつけた耳は、通常よりも早い鼓動に聞き入っている。この人だけは違った。国木田の体温だけは、あの人ではなく国木田のものだと判断できた。ドストエフスキーに言われたことで思考が混乱している今でも、この体温の主を認識できている。
――あの時からだ、と記憶を遡る。ギルドとの戦いの最中、狂乱するクリスに異能で切り裂かれながらも、決してクリスを離そうとはしなかった、あの時。初めてぬくもりの記憶による混乱から抜け出せた、あの時だ。
唯一触れても良い相手を得て、気が緩んでいたのは否めない。それが少しずつ恋慕という形を取り始めていたことにもとうに気付いていた。けれど、隠し通すつもりだった。伝えたところで何にもならないからだ。自分はいつかこの街を離れる。それどころか、世界を破滅に追いやるかもしれない。そんな相手に好いていると言われたところで、離れがたく、殺しがたくなるだけだ。
相手が自分に同じ思いを抱いているのなら、なおさら。
だから言わなかった。国木田相手なら隠し通せる自信があった。
なのに。
ぐ、と国木田の服を掴む。未だ震える胸で浅く息をして何かを押し隠すように目を瞑り、寄り添ってくれるぬくもりに額を押し付ける。
「夢を見させて」なんて言うべきではなかった。国木田がそれの意味に気付き、そして応えてくれることなど想像に難くない。実際、そうしてくれた。そんなわかり切った展開に息苦しさが増大して、押し隠していた混乱と恐怖が押さえきれなくなって、挙げ句国木田に隠し事があることを知らせてしまった。
それを知って国木田が黙っているわけがない。体調に影響するほどの隠し事を彼が見逃すわけがないのだ。きっと問い詰められる。そうでなくとも、この緩みきった覚悟のままでは全てを話してしまうだろう。
それだけは避けなければいけなかった。なのに、わたしは。
この優しさが、あたたかさが、眼差しが、存在が、どうしようもなく。
「……落ち着いたか」
そっと髪を撫でてくる手に、小さく頷く。
「……ごめんなさい」
呟いたのは、手間をかけさせたことに対する謝罪に見せかけた、本心。
思いと秘密を隠しきれなかったことへの、言葉。
「……あなたはどうして、いつも謝る」
「いつも?」
「いつもだ」
何かを思い出したかのように、国木田はクリスを抱き寄せる。ただそれだけの行為に、何かが胸の奥から痛みを伴って込み上げてくる。
「……熱にうなされていたときも、そうだった」
それはいつのことだろうか。記憶にない。熱、というならば、軍警から盗み出した檸檬爆弾に関してポートマフィアと取引した後、一日意識を失っていた時だろうか。あの時のことはほとんど覚えていない。次の日の朝に目覚めた時、与謝野に「覚えてないのかい、残念だねえ」と言われたくらいだ。
「……まさか」
サアッと血の気が引く。
「その時、わたし、何か、しましたか……?」
「……覚えていないのか」
「ご、ごめんなさい……」
とりあえず謝っておく。意識のないまま、誰かと間違って殴ったりしていなければ良いのだが。焦るクリスに対し、国木田は何かを思うように押し黙った後、「そうか」と呟いた。
「なら、良い」
「良いって何がですか?」
「……俺は何もしてないからな」
それはつまり、何かをしたのか。与謝野の反応を思い出す限りよほどのことにはなっていないようだが、一体何をしたのだろう。気になる。が、国木田本人が教えてくれるはずもない。後で与謝野に相談してみようか。
「……何か妙なことを考えていないか?」
「いえ、何も。全然」
隠すようにへらりと言えば、国木田は不満そうながらも「そうか」と黙った。反応の切れが悪い。顔色を見ようにも、今の体勢ではまた先程の繰り返しになる。予期せず触れ合った吐息を思い出し、クリスは俯いた。顔に再び熱が集まる。押さえられない。
声も仕草も表情も、まるで制御できない。まるで自分が自分でないような焦り。
こんなこと、一度だって体験したことはない。
――このままでは、隠し続けなければいけないこの苦しさをも打ち明けてしまいそうだ。
息を詰める。嗚咽に似た悲鳴が体から漏れ出そうになるのを必死に抑え込む。
「……あの、すみません、ずっと座り込んでいて。どきますね」
「あ、ああ」
国木田がようやく腕の力を抜く。物陰から飛び出すネズミのようにそこから素早く抜け出し、海に駆け寄る素振りで手すりへと駆け寄った。握り絞める鉄の冷たさが痛いほどに肌を刺す。眼下に揺らめく海の青は夜という闇を吸ってどこまでも深く、底が見えない。
息を吸う。吐く。数度繰り返す。塩水のような切ない痛みを吐き出し、海の香りを含んだ澄んだ空気を吸い込む。
もう大丈夫だ。いつも通りになれる。
いつも通りの自分を演じられる。
真実など何も知らなかった頃のわたしを、演じられる。
この人の前でも。
「……クリス」
「はい?」
なるべく明るい声で返事をし、クリスは気負いのない様子で国木田を振り返った。が、対して国木田の声は低く、静かだ。
「……言わなければならないことがある」
――何のことかはすぐにわかった。だからこそ、言わせるわけにはいかなかった。
その一言はどんな言葉よりも嬉しくて、どんな言葉よりも悲しくて、頑なに閉ざさなければならないクリスの心の門の鍵を容易く開けてしまう、魔法の鍵だ。
「言わないでください」
はっきりと言い切ったクリスに、国木田は口を閉ざす。それへと、楽しい話をしている時のように明るく笑いかけた。
「……答えたくないんです」
クリスは誰の思いも受け入れることはできない。隣にい続けることも、同じ未来を見ることもできないからだ。そこにクリス自身の思いは関係ない。
だから、言って欲しくなかった。言われたとしても、拒むしかない。拒んでしまえば全てがなかったことになる。
せめて、それだけは避けたかった。
あと少し。
あと少しだけで良い。
この夢を、終わらせないで。
「見てください、国木田さん。一番星ですよ」
もはや夜と呼ぶべき空へと指を指す。明かりが灯り始めた街よりも早く空に一点を描き加えているそれは、クリスの思いに答えるように一際明るく煌めいた。