第3幕
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***
良くやってくれた、と福沢は言った。けれど、最善の結果にはならなかった。
目に痛いほどの夕日の光が水平線へ呑まれ消えていく様を、国木田は見つめていた。日が沈めば夜が来る。時間が経てば朝が来る。規則正しく日々を区切る太陽の下で、世界は止まることなく時間を過ごす。
誰が死のうが苦しもうが、関係なしに。
いつもそうだ。
「……プシュキンを追う中で、ドストエフスキーの策に嵌り子供を一人見殺しにした」
呟き声は自分のものとは思えないほどに弱く、小さい。
「社長は死なず、街も守れた。だが……一人、確実に一人、死んでいる」
歩み寄ってきた人影を見ることなく、国木田は既に暗くなった空を見上げる。そっと靴音を押さえながら、彼女は静かに国木田の横に立った。
「一人だけで済んだ……あなたはそう考えないんですね」
「一人だろうと十数人だろうと、相手が子供だろうと大人だろうと、全てが一つの命だ」
「そのように考えていては、いつか国木田さんが壊れてしまいます」
「俺などどうでも良い。……死なずとも良かったはずの命が目の前で失われたのだ。それを気に留めなければ、いずれ本当に守るべきものがわからなくなってしまう」
――理想や正しさを貫いて傷付くのは、周囲の弱い人間なんだ。
かつて太宰に言われた言葉を思い出す。
「……あの時、ルールをねじ曲げ全てを救おうなどと思わなければ……あるいはポートマフィアと戦い首領の首を狙うと早くから決断していれば、もしくは花袋と連絡を取ることを最優先していれば……少なくともあの子は死なずに済んだのだろう」
わかっている、これは意味のない後悔だ。ああすれば良かった、こうすれば良かった、そんなことを考えても誰かが生き返るわけではない。わかっている。
けれど、今はまだ、考えていたい。
あの小さな命を悼んでいたい。
「……つまらない話をしてすまない」
こんな話を聞くために、彼女はここへ来たわけではない。福沢の快癒を祝い、社員達と一時を共に過ごすために来たはずだ。終わった話を散々されても困るだけだろう。
「聞き流してくれ」
「……なら、わたしの話も聞き流してもらえますか」
「……ああ」
海から吹き込んでた風が一瞬止む。完全な静寂が船上に広がる。
「……何かに縋らないと、怖かったんです」
小さく頼りない声が、聞こえてくる。
「大切な人をこの手で殺して、今まで過ごしてきた場所から逃げ出して、周りは知らないものばかりで、異能は暴走してばかりで、気が狂いそうだった。絶望から逃げるようにあたたかい思い出に縋って、それを再現するために舞台に憧れて、そのたびにたくさんの人を殺して……そんな、無駄なことをして」
彼女は微かに笑ったようだった。
「信じていたんです。信じるしかなかったんです。なのに、今更、わたしの中のあの人は嘘だったのかもしれなくて、わたしはあの人にとって……道具でしかなかったのかもしれなくて。でもそれそのものが嘘でこうして混乱させるのが奴の策略なのかもしれないと思う自分もいて……その思考に根拠もなく縋りつこうとする自分もいて。何が何だか、数日経った今も整理できていなくて」
わからないのだと彼女は夕焼けに煌めく海へ囁いた。
「……もう何を信じれば良いのか、わからないんです。何をすれば良いのかもわからない。あんなに必死になっていたのも馬鹿らしくて……死んだ人は卑怯ですね。何をしたって何も言ってくれなくて、今していることが正しいのかも教えてくれなくて、今更、本当のことを伝えてきて」
ぞわりと全身を覆ったのは、懐古を含んだ悪寒だった。
――申し訳ありません、国木田様。
あの声が、聞こえてくる。銃声が木霊し、白い和服が鮮血に染まり、黒髪が血溜まりに広がる、あの光景がチカチカと現れては消えていく。
――もう、疲れました。
「もう、疲れました」
あの女性と同じ言葉を、少女は言った。
バッと隣を見る。微かに風が吹き始める中、亜麻色の髪をそよがせながら、彼女は海を見つめていた。国木田の視線に気付いてか、こちらを見上げてくる。
湖面を覆う朝霧。木の葉から今にも落ちんばかりの一雫を思わせる、青。
それを見ることができたのは一瞬だけだった。彼女はすぐさま俯き、明るい声で笑う。
「本当に疲れているみたい、こんなことを言って。すみません、聞き流して下さい」
「クリス」
「向こう行きますね。お邪魔してすみませんでした」
何かを言いたげにしつつもそれを振り切るように、クリスはくるりと身を翻す。その背へ手を伸ばしていた。
引き留めなければと思った。そうしなければ、また。
――あの人のように、届かない場所へ行ってしまう気がしたからだ。
肩を掴み、引き留める。ただそれだけをしたはずだった。
けれど。
「――ッ……!」
小さな呻き声。体を支えていた糸が切れたかのように、クリスは突然膝から崩れ落ちた。思わず両手を差し出し、その体を抱き留める。そっと下ろすように床に座らせた。
「大丈夫か」
「……何でも、ないんです。疲れが溜まって、いたのかも」
腕の中でクリスは俯いたまま肩を上下させる。目眩か、失神か。胸を押さえ込んでいるのは呼吸が苦しいからだろうか。そこまで考え、国木田は違和感に気が付く。
彼女が押さえているのは胸ではない。右の肩――先程国木田が掴んだ辺りだ。
まさか、と唾を呑む。
「……怪我を、していたのか」
「……誰にも、言わないでください」
痛みに耐えるように息を詰め、クリスは言う。
「説明、したくないので」
「どういうことだ」
「……言いたく、ないです」
「クリス」
「……言いたくない」
「クリス」
問い詰めるように再度名を呼べば、彼女は少しの間沈黙した後、そっと肩から力を抜いた。
「……ちょっとあれやそれやして」
「全く説明になっておらんぞ」
「……こう、どーんと」
「訳がわからん」
「……と、とにかく大丈夫ですから」
「それは怪我が治ってから言う言葉だ」
「う……じゃ、じゃあ、そのッ」
彼女はなおも何かを言おうとする。勢いよく顔を上げ、そして。
目が、合った。
抱きかかえた腕の中で、彼女はこちらを見上げていた。見開かれた青の目、そこに大きく映る自分。言葉を乗せずに漏れた吐息が唇を擦過する。
触れられそう、などというものではない。
これは、そう、言うならば。
「……く、にきだ、さん」
――唇が触れ合いそうなほどの、距離。
頭が真っ白になった。腕の中のぬくもりを、今更肌で感じ取る。心臓が跳ね上がる。顔に熱が集まる。
これはまずい。非常に、まずい。いくら仕方がなかったとはいえ、これはまずい。理由は簡単――自制が効かなくなるからだ。そうなれば、いくらクリスとはいえ抵抗できないだろう。彼女に恐怖を与えるようなことは避けたかった。彼女が恐怖に怯える様子を見てきたからこそ、彼女の恐怖の一つにはなりたくなかった。
急いで腕を解こうと思った。そのまま立ち上がり、後ずさるなりして距離を置けばひとまずは良いだろう。霞がかった頭を必死に動かし、考える。とにかくこのままの体勢はまずいのだと自分に言い聞かせた。
けれど。
混乱する頭を必死になだめ、第一段階として腕を解こうとした矢先、肩口を押さえていたはずのクリスの手がそっと国木田の胸元を掴んできた。まるで離れるなと言わんばかりのその仕草に、血流が脳へと駆け上り視界が歪む。
「……ッ」
見上げてくる眼差しが今にも泣き出しそうなほどに潤んでいる。
見間違いだと思った。見間違いに違いなかった。幻覚を見ているのだ。そんな言葉が頭を駆け巡る。けれどその言葉とは真逆に、クリスは国木田へわななく唇で言葉を紡ぐ。
「……お願い」
胸にかかるその声はささやかで、甘い。
「少しだけ、夢を……夢を、見させてください」
「……それは」
どういう意味だ。
問う間もなく、クリスは国木田の胸元へ顔を押しつけた。心臓が高鳴る、この音すら、きっと彼女には聞こえている。
否、聞こえているどころではない。聡い彼女が察しないわけがない。国木田の心境に、気付かないわけがない。
夢、と彼女は言った。夢を見させてくれ、と。夢とは何だ。誰かに縋ることか。孤独に耐えきれなくなった彼女の、人肌を求めた結果か。違う、と即座に誰かが言い返す。それならば国木田である理由がない。与謝野でも、ナオミでも、探偵社員ならば誰であっても良かったはずだ。ぬくもり欲しさに男性に縋り付く危険性を、世界を渡り歩いてきたクリスが知らないわけがない。
では、彼女の言った「夢」とは、何だ。
まさか、そういうことなのか。
そうであって欲しいという我欲と、そうであるはずがないという混乱が国木田を襲う。
――けれど、もし仮に、そうなのだとしたら。
だとしたら、自分は。
そっと、腕に力を込める。幾度となく触れてきた髪に手を伸ばし、抱き込んだ。顔を埋めるように頬を寄せれば、女性特有の甘い香りが吸気に混じってきて。
腕の中で、クリスは肩を震わせる。呼吸が乱れ、大きく肩が上下する。けれどそれは、国木田が恐れたような、恐怖から逃げ出そうとするようなものではなかった。安堵すると共に、気が付く。
その震えは、何かを我慢し、堪え、押し込めてきたものがあふれ出したかのようで。
ふと、思い出す。
――本当は、すごく怖いんです。
そうだ。彼女は何かを恐れたまま、ドストエフスキーに会いに行っている。その詳細は聞き出せていないが、あの魔人が世間話程度をするはずがなかった。何か重要なことを、もしくは彼女の心を揺さぶるようなことを言ったはずだ。そしてクリスならばきっと、笑顔の裏にそれを隠し通そうと必死になっていたはず。
気付くのが遅かった。こうして偶然に頼らなければ彼女の本心にすら気付けなかった。それがどうにも悔しくて、情けない。
国木田だけなのだ。彼女と共に過ごす時間が長く、彼女の異変にいち早く気付くことができるのは。なのに、彼女の体温に、仕草に、うつつを抜かして。
後悔が国木田の思考を支配する。瞬間、グッと服を掴まれた。ハッと我に返る。
「……ッは……ぁ……ッ」
肩を震わせながらクリスが身を縮めていた。呼吸が短く、頻度が多い。過呼吸か。
「……ぅあ、ッ……」
「落ち着け」
背中を撫でる。縋り付いてくる体を、優しく抱き留める。やはり、何かを一人で抱えていたのか。
「手で口元を覆って、ゆっくり、息を吐け。焦らなくて良い。大丈夫だ」
与謝野を呼ぶべきだろうか。周囲を見回しても、人の影はない。彼女を一人にして救援を呼びに行くようなことは考えられない。まずは落ち着かせてから、国木田が運ぶべきか。
「……って」
苦しげな呼吸の中で、クリスが何かを言いかける。
「ま、って」
「喋るな。今は息を整えることに専念しろ」
「い、わない、で」
続かない息で途切れ途切れに彼女は訴えた。
「だれ、に、も、いわ、ない、で」
――それは。
「……事情を、話したくないからか」
肩の怪我のこと、ドストエフスキーとのこと。現状に至った過程を説明すれば必然的に話さなければいけなくなるだろうそれを、彼女はどうしても言いたくないらしい。これほどまでに追い詰められておきながら、ある程度は事情を知る探偵社員にすら言えないとは。
「……困った人だな」
どこまで親しくなったとしても、クリスは秘密を抱え込み、誰の助けも得ようとしない。これほど思いが近付いているというのに、国木田はやはり彼女を救えない。
「安心しろ」
そう言うしかなかった。
「誰にも言わん。問い詰めるようなこともせん。まずは、呼吸をゆっくりと繰り返せ」
こう言う以外に、何ができるというのか。
国木田の言葉を聞いたからか、クリスはそれ以上無理に話そうとはしなかった。国木田もまた、何も言わなかった。しばらくして、クリスの肩の強ばりが解けていき、呼吸に落ち着きが見られ、国木田に縋り付く力が弱まっていく。
その過程を見守りながらも、国木田は彼女を抱く力を緩めることができなかった。