第3幕
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ウイルス異能者プシュキンのみならず黒幕ドストエフスキーをも捕らえたことで、探偵社とポートマフィアを有する港町は再び沈黙を取り戻した。夕日が沈み夜が忍び寄るかの如き静けさは平穏の表れだ。それは福沢がこの手で守り続けなければならない静寂だった。
爆音も悲鳴も聞こえない、潮騒の満ちる街。それが、夏目が指し示し福沢と森が賛同した、ヨコハマという街だ。
ゆらり、と足元が傾ぐ心地に瞼を開ける。そこは見慣れた探偵社ではなかった。豪奢な飾りの目立つ、白を基調とした客船だ。ギルドの元団長が前土産にと譲ってきたのだが、少数精鋭の武装探偵社には手に余る豪華客船だった。備品が増えたことを忘れぬうちに特務課に伝えなければ、と船の豪勢さに似合わない思考をする。どうせなら、と社員達がこの船での快癒祝いを催してくれているのがどうにも身の丈に合わない。がしかし、他でもない社員達の思いである、無下にはできなかった。
「……たまには良いか」
波のきらめきが空との狭間まで広がっている眼下を見つめる。その片隅には高層ビルや観覧車が並び立っていた。
見慣れた街だ。
「良い景色ですね」
ふと聞こえてきた声に、福沢はそちらを見た。柔らかな黒の布地、ゆるやかに波打つスカートの裾、肩を覆うレース模様の袖。腰のリボンが彼女に華やかさを与えている。亜麻色の髪を耳元で止めた彼女は、その穏やかな碧眼に福沢を映し込んだ。
「……貴殿は」
「無事のご帰還、おめでとうございます」
彼女は胸に手を添え、膝を折って頭を下げてくる。
「この度の貴社のご活躍によりこの街に再び平穏が訪れましたこと、深く感謝いたします。福沢様及び武装探偵社の皆様に更なるご活躍と素晴らしき幸福が訪れますようお祈り申し上げます」
「おもてを上げられよ」
一瞬の躊躇いの後、彼女はそっと上体を起こして背筋を伸ばす。緑の混じる青が真っ直ぐに福沢を射竦めた。夕焼けに染まりつつある日差しの色を受けて、それは更に複雑に輝く。
深緑の木々に囲まれた、青き湖面に射し込む橙の太陽光。それがふわりと柔らかく微笑む。
「……お加減はいかがですか?」
「問題ない。貴殿にも協力いただいたと報告が来ている。ギルド戦に引き続き今回も助力いただいたこと、感謝申し上げる」
「わたしはわたしのしたいことをしただけです。それなのに、このようなお祝いの場に皆様から呼んで頂けて……感謝という一言では到底足りないほど、感謝しております」
福沢の言葉に彼女は整った笑みを返す。太宰のそれと似た、本心を上手く隠すための笑みだ。けれど彼のと同じく不快な気分がしないのは、それに隠された本心というのが福沢にとって不快なものではないからか。
かつて、探偵社の応接室で相見えた決意の眼差しを思い出す。
――わたしには叶えなければいけない願いがあります。何を虐げてでもわたしはそれを叶える。例えそれが、わたし自身であったとしても。
あれと同じ光が、今目の前にいる彼女にもある。何かを決意した者の気配が、そこにある。
彼女はまた、何かを選んだのだろうか。
それが彼女を再び孤独へと突き落とすものでなければ良いと思うのは、偽善か、それとも。
「社長」
春野がそっと声をかけてくる。
「お時間です」
「……ああ」
思考を止め、福沢は春野に従って海へ背を向けた。が、少し思案した後、改めてクリスへと向き直った。
「……福沢さん?」
「来られよ」
短く言い、けれど顔を逸らす。
「此度は私の来賓として参加されると良い。……今後貴殿に恩を返す機会があるかもわからぬ。この程度のことしかできぬこと、心苦しく思うが」
「恩、だなどと。……有難き幸せ、謹んで頂戴いたします」
きっと彼女は微笑んだのだろう、声に笑みを乗せてくる。社員の招待客という立場でも不都合はないだろうが、これは少しばかりの礼だ。
福沢は春野と共に船内のホールへと向かった。クリスは半歩後ろからついてくる。このような華やかな場など、慣れきっているのだろう。見ずとも伝わってくるその堂々たる仕草が幾分か羨ましくもあった。
船内のホールは広々としていた。天井からシャンデリアが煌めき、金に縁取られた深紅のカーペットがその場に集う人々の足元を彩っている。既に多くの社員や関係者が集まり、並べられた豪奢な料理に舌鼓を打っていた。笑い声が時折聞こえてくる。階段を降りていけば、その楽しげな顔が福沢へと向けられ、そして歓喜を上乗せした表情で頭を下げてくる。
「社長」
階段を降りた福沢へ、国木田が真っ先に駆け寄る。その後ろには谷崎、与謝野、鏡花、賢治が横並びになった。乱歩から報告は来ている。国木田、敦、太宰を除く社員達は、街を守れと言う福沢の指示を無視してポートマフィアと真っ向から戦った。それが誰かの命を守るための行動だったとしても、社長命令に背いたことに対しては処罰を与えなければいけない。それが秩序というものだ。
「いかなる処分も謹んで承ります」
社長代理として奮闘した国木田が頭を下げてくる。その姿からは彼らしい責任感が見えた。良い結果になったとはいえ正しい判断だったとは言い難い、今回の社員の行動。それを咎めないままではいられないのが社長としての立場だが。
「懲罰内容は追って沙汰する」
だが、と福沢は付け加えた。
「今回の諸君の働きには深く感謝する」
そう言われるとも思っていなかったのか、横並びになった社員達は途端に呆然と目を丸くした。社長、と誰かが福沢を呼ぶ。
またそう呼んでもらえる時が来たのだと、知る。
生きているのだと、知る。
――否。
生きているのではない、生かされたのだ。街と己を救ってみせた、この探偵社員達に。
それがどんなに誇らしいことか。
「……皆、良くやってくれた」
不安に駆られていた社員達の表情が一斉に華やぐ。ようやくこの会場に相応しい様子になった彼らを前に、福沢はそっと目を細めた。