第3幕
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***
「潮時ですね」
言い、ドストエフスキーは席から立ち上がった。耳に着けていたイヤホンを外す。何かを聞いていたらしい。仲間との通信だろうか、しかし一度も指示らしき言葉を発してはいなかった。
「クリスさん」
ドストエフスキーが目の前に立ち塞がる。否応なく顔を上げれば、笑みをたたえた眼差しが視界へ食い込んできた。
癖のない黒髪に、病弱さを思わせる白い肌、無機質な宝石を思わせる紫の眼差し。かつて彼と知らずに言葉を交わした時と同じ不気味な男が、そこにいる。
「ぼくは、異能のない世界を創り出すためにこの街へ来ました」
紫眼が微笑んでいる。薄く、柔らかに、何かを企むように。
「もし良ければ、一緒に来ませんか?」
「……何を、言って」
「ネズミと呼ばれる者同士、望みが同じ者同士、手を組むというのも悪くはないと思いますよ。――一度は思ったことがあるでしょう? 異能さえなければ、と」
どくり、と血液が体内を下る。
「あなたの運命は同情に値します。命を弄ばれ、親友をその手で殺し、あらゆる組織から追われ、夢を叶えることもままならない。そして今、あなたは信じてきた亡き親友に利用されようとしている……お気付きでしょうが、それら全てはあなたが強力な異能者であったからこそ起きた悲劇なのですよ」
「……悲劇」
「クリスさん」
立ち尽くすクリスへ手を差し伸べ、男は微笑みを深める。
「共に世界を創りませんか? 異能のない、利用されることもない、あなたが普通でいられる世界を」
呼吸が、止まる。
――普通でいられる世界。
それは何よりも魅惑的な言葉だった。何に追われることもなく、何に怯えることもなく、何を諦めることもない世界。
望み、焦がれ、何度も手を伸ばしては触れることすら叶わなかった世界。
それを、この男は創るのだという。
「……どう、やって」
「それはあなたのお返事次第です」
クリスの望みを叶えてくれるかもしれない男が、目の前で微笑んでいる。手を差し出し、クリスを導こうとしている。
光の満ちる、理想郷へ。
「さあ」
ドストエフスキーが手をそっと伸ばしてくる。その白い手を、見つめる。
その手を取れば、自分は。
幸せに、なれる。
誰に追われることなく、誰に裏切られることなく、誰を殺すことなく、まだ見ぬ未来が自分にとって輝かしいものだと信じ切ったまま、生きていける。
――クラリと視界が歪んだ気がした。
そっと手を持ち上げる。細かに震えたその手を、ドストエフスキーは掬い上げるように手のひらに乗せ、軽く握った。軽く引かれる。促すようなその動きに、呆然と顔を上げる。
再度、目が合う。微笑みがそこにある。触れた手から、冷たい体温が皮膚に染み込んでくる。
瞬間。
感覚が一気に押し寄せてきた。血だまりに手を浸した時の、ナイフを握り締めた時の、宙へ手を伸ばした時の、死体と化した知り合いに触れた時の、地面を掴むように爪を立てた時の、頰を落ちていく雫を拭った時の。
そして。
――必ず帰って来い。
汚れきったこの手を、何度も掴み包んでくれた、あのぬくもりを。
この男のものとは明らかに違う、あたたかさを。
「――ッ!」
――パシン!
弾き飛ばすように手を払い除ける。体温が奪われかけたかのように冷えた手をもう片方の手で握り込み、胸に抱えた。
「……行けない」
目を伏せ、唸るように呟く。
「行けない」
「ぼくと共に来れば、その苦しみもなくなりますよ?」
手を振り払われたドストエフスキーはというと、焦りも困りもせず、きょとんと首を傾げる。
「わかってる。けど、君とは行けない」
「なぜです?」
「……帰ると約束した」
あの真っ直ぐな眼差しに。
「だから行けない」
「……振られてしまいましたか。なかなか手強いですね。まあ良い、今日のところは手を引きましょう。あなたは結局のところ、目の前の幸福を捨て去ることができないのですから」
ドストエフスキーは形の良い笑みを不気味なそれへと変える。ゾッと悪寒が全身の肌を舐めた。
「その気になったのなら、いつでもお待ちしていますよ。――楽しい茶会でした。またいずれ」
ふわりと服の裾を広げつつ、背を向け店の外へ向かっていく。その無防備に晒された背中を見、しかしクリスはそれ以上動けなかった。相手はドストエフスキー、クリスに過去を見せつけ探偵社を陥れ国木田に苦痛を強い、澁澤にベンを殺害させた男。憎いはずの男。
なのに。
「……何で」
ナイフを握る代わりに服の裾を掴む。
「何で」
強く目を瞑り、項垂れる。歯を食いしばり震える唇を引き結ぶ。
「……殺せないなんて」
クリスが普通でいられる世界を創ると言ってくれた。ただの甘言だ。けれどそれが、ただ一言だというのに、暗い汚れを一身に溜め込んだこの心に光のように差し込んで消えてくれない。
ウィリアムという今まで一心に信じ続けてきた光が消え失せた今、あの男が救いに思えてならない。
わかっている、あの男はこうして揺さぶりをかけてクリスの殺意を削いだのだ。これが策略であることなどわかっている。わかっていながらも、抗えない。
「……ウィリアム」
何度も呼んできた友人の名。けれどその名は、クリスに驚異的な力を与え戦争の火種を世界にばら撒こうとした人物の名だった。
なら、なぜ。
「どうして」
あんなに優しくしてくれたのか。
あんなに楽しげにしていたのか。
あれは全て――縋り付いてきたこの記憶は全て、紛い物だったのか。
クリスを手懐け、思い通りに動かすための。
「……は、ははッ」
乾いた笑いが込み上げてくる。胸が引き攣るように呼気を絞り出す。
「……馬鹿みたい」
フードを深く被るように掴み、顔を隠す。
「……全部、幻だったんだ」
あの声も、言葉も、笑顔も。
「なのに、全然気付かないまま……必死になって、罪悪感を誤魔化そうとして、舞台に立って……」
それら全てが、無駄だった。
あの人はそんなことを全く望んでいなくて。
全て、自分が都合良く解釈していた勘違いだ。
「……わたしは、馬鹿だ」
――ブーッ、ブーッ。
突然鳴り始めたバイブ音に呆然と聞き入る。ポーチの中で通信端末が着信を告げていた。のろのろとそれを取り出し、ゆっくりと耳に当てる。
「……はい」
『クリス!』
その一言を聞いただけで泣きそうになる。
『無事か! 今どこにいる!』
「……国木田、さん」
『どうした!』
「国木田さん」
名を呼ぶ。何度も呼ぶ。狭い喉をたくさんの言葉が通ろうとして、呼吸を妨げる。
「国木田さん……」
『……何があった』
相手を心配する声が、自分に向けられている。それが信じられなくて、けれど真実で、何を言えば良いのかわからない。
店の入り口に武装した警官が駆け寄り何かを包囲する。話し声が聞こえてくる。それら全てを無視して、電話を耳に押し付ける。
「国木田さん」
『ああ、俺だ。どうした、何かされたのか。怪我は。どこか痛むのか』
「……怪我はしてなくて、ただ」
『ドストエフスキーに会ったのか。どこにいる』
「場所は、その」
『連れていかれたのか、何をされた』
「いや、だから……ふふッ」
次々と問いが投げかけられる。何かに答えようとすると、新たに問いが追加された。結局何も言えず、言い淀んでいると更に問いかけられてしまう。そんなやり取りの繰り返しに、いつしか笑みを浮かべていた。
「……国木田さん」
名を呼ぶ。今まで何度も呼び、何度も縋ってきたその名を口にする。
今はもう、この名だけが、この人だけが、確かなものだ。
「……大丈夫です」
『……無事、なんだな』
「はい」
静かな声が聞こえてくる。それが、心の焦りと動揺を鎮めてくれた。心地良い。ずっと聞いていたいと願ってしまうほどに優しく、甘く、手足にどろりと絡み付いてくる。このぬくもりに溺れてしまえれば、どんなに幸せなことだろうか。何も考えず何も見ず、その優しさに浸かって毎日を過ごすというのは。
それはきっと、何よりも望んだ世界に違いない。
けれど。
二言三言話し、通話を切る。堕落へと誘い込もうとする心地良さを断ち切るように、ツー、ツー、と淡白な電子音を静かに聞く。
目を閉じ、息を吐く。
手記。ウィリアムがその存在をドストエフスキーの知人へと伝えた記録媒体。戦争の火種そのものであり、クリスが秘める機密と同等のもの。
「……それが、本当なら」
亡き友が世界の破壊を望んでいるというのなら。
「……わたしは、どうしたら良い?」
自分が兵器として作り上げられていることは知っている。きっとこの異能を使って世界を破壊することなど造作もない。この世界は元よりクリスを疎み、クリスを苦しめてきた。今更未練もないし、むしろこの手で壊して良いのなら喜んでそれをする。以前のクリスなら、ウィリアムの願いだと判明したのなら尚更、迷いなくそれをしただろう。
けれど。
なのに。
――あの白い手を、掴み返せなかった。
唇を噛み締め、端末を握り込む。
「……あなたに出会わなければ、良かったのかな」
震える声は機械の向こうに届かない。