第3幕
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[Act 3, Scene 13]
未だ日の出ていない薄闇の朝。カツリ、カツリ、と靴音を鳴らして女性が街の片隅を歩いている。黒のスキニーパンツに、黒のショートブーツ。簡素な白地のシャツの上に薄手のパーカーを羽織ったボーイッシュな姿は街中の若者と相違ない。ただ一つ、腰の後ろに回したウエストポーチにつけた幼稚なクマのマスコットが歩くたびにポンポンと跳ねていることだけが、彼女の鋭い雰囲気を緩めている。
早朝、動きのない港に彼女の靴音だけが響く。それに人の声が重なるようになった時、女性は足音を潜めるように歩みを止めた。
「あ、ああ、決闘場所と思われる洋館跡地は爆破で底が抜けていて、二人の行方は依然として不明だ」
それは電話口へ話し込む声だった。男だ、しかも相当焦っている。
「ボスと探偵社社長が消えてからじき九時間になる。……マフィアの動き? 朝を待って洋館跡地の捜索を開始するが……も、もう十分だろう! 渡せる情報は全て渡した、これ以上は何も知らない! 早くこれを解除してくれ!」
しばらく荒い呼吸音だけが聞こえてくる。電話口の向こうの人間が、何らかの指示を出しているらしかった。歩みを再開しつつ、女性はウエストポーチから手のひらより少し大きい程度のパソコンを取り出す。折り畳み式のそれを開き、片手に乗せながらキーボードを指で叩いた。
「そ、そうか!」
男が歓喜の声を上げる。曲がり角を曲がって、女性はその男の姿を見つけた。喜びに満ちた顔で、彼はネクタイについた紐を引っ張ろうとしている。
「これでようや――」
紐を引く。青色のそれがピンと張り詰めると同時に、男の首元から噴水のように血が噴き出した。
ドッ、と男は――男だったものは膝をつき、そして関節のない人形のように地面に崩れ落ちる。カタン、とその手にあったケータイがコンクリートの上へ落ちた。
その様子を、女性はじっと見つめていた。けれど歩みは止めず、男の死体へと躊躇いなく歩み寄る。死体を跨ぎ、血肉を踏み、血臭の中にしゃがみ込んでパソコンを膝の上に置き、落ちていた連絡機器を拾い上げた。その下部へとパソコンに繋いだコードを差し込みキーボードを叩く。そして、血に汚れたそれを耳に当てた。
微かな雑音の向こうから、ゆったりとした声が聞こえてくる。
『予想通りの手際の良さですね』
「それはこちらのセリフだ。下級構成員とはいえマフィアの人間を脅して情報を吐かせるとはね」
『マフィアとはいえ彼は人間でした。彼の死を止めなくても良かったのですか?』
「彼が死んだところでわたしに損はないし、むしろ利になる」
『つまり我々と同じということですか』
「いや、違う」
女性の青い目がパソコン画面を見つめる。そこに描かれた地図にただ一箇所、丸が現れ点滅した。数度に渡ってその箇所を拡大し、場所を確認する。
「君にとってわたしは損だけど、わたしにとって君は利だ」
『それはどうでしょうか』
「君の居場所は判明した。これを探偵社に伝えれば彼らの勝ちだ」
『けれどあなたはそれをしない。……少なくとも今すぐには、彼らにぼくの居場所は伝えない』
電話口の向こうで男は笑う。
『なぜならあなたは、ぼくから聞き出さなければならない話があるからです。聞き出す前に探偵社に捕捉されては困る。でしょう?』
「……話していて気分の悪い人だな。何も言っていないのに答えが返ってくる」
遠くから柵の中を見つめる動物園の観客のような気軽さで、それは声に笑みを乗せた。
『人は愚かで罪深い。それが争いを生み出し助長すると知っていてもなお、あなたはそれを選ぶしかない』
「つまらない話には興味がない」
『それは失礼。では、お待ちしていますよ、白銀の姫君』
フツ、と通話が切れる。耳元に訪れた沈黙に、笑みを含んだ声が繰り返し聞こえてくる。
白銀の。
「……白銀?」
――記憶に残り続ける、あのふわりとした白銀の髪が脳裏に蘇る。
赤と化して散った優しい笑顔が、名を呼んでくる。
「ウィリアム……?」
違う。ロシア人があの人のことを知っているわけがない。姫君、という大仰な呼び方からしてこちらをからかったことは確かだ。この身には白銀に関する特徴はないが、この多彩な演技力を評してか色の名を冠する異名が与えられることが多い。別段気にすることではないだろう。
思考を強引に止める。ケータイからコードを引き抜き、血溜まりの中に落とす。ぱちゃ、と粘度の高い音が静かに聞こえてきた。
ゆっくりと息を吐き出す。むわりと血の臭いが鼻を突く。ふと隣を見、そこにあった死体を見た。首に穴を空けたそれは、驚愕に目を見開いたまま四肢を四方に放り出して横たわっている。
――人は愚かで罪深い。それが争いを生み出し助長すると知っていてもなお、あなたはそれを選ぶしかない。
クリスが模索し、選択した道。その先にあるものは、争いなのだろうか。
「……君の死が幸福でなければ良いのだけれど」
呟き手を伸ばす。その見開かれた両目へ指を添え、ゆっくりと閉ざした。