第2幕
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***
「す、すみません」
おず、と片手を上げた店員に、事態の進め方を相談していた犯人二人は視線を動かした。獣を思わせる充血したその目に怯えつつ、店員は「あの」と続ける。
「お手洗いに、行きたくて……」
「ちッ、そのくらい勝手に行け」
犯人達の下調べでは、このコンビニのトイレは窓がない。トイレくらいいちいち許可を取ってくるなというのが、苛立ちの消えない彼らの気持ちだった。
店員がそそくさと姿を消した直後、再び作戦会議に没頭し始めた二人だが、その意識はまたも人質に奪われることとなる。
「どうして……!」
人質の女がぼろぼろと泣き出したのだ。
「どうしてこうなったの? 私達が何をしたっていうの? ねえ独歩さん、私達は何かしたというの? これが神様の心なの? どうやっても私達はこうして引き裂かれるの?」
先程まで細々と会話していたはずの女がとめどなく涙を流している。客の男がそれを見て戸惑っていた。知り合いだったのか。
「お、おい、どうしていきなり、全く話がわからんのだが、あの」
男はというとかなり動転していて何を話しているかさっぱり聞き取れない。こちらの油断を作る作戦ではなさそうだ。全く、どいつもこいつも、女というのは訳がわからない。
「折角親の目を盗んでこの街まで来たのに、これじゃあ親にここにいることがばれちゃう……また引き離されるんだわ、こんなに好き合っているのに! やっと結婚式が挙げられそうなのに、どうして神様は私達に試練ばかり与えるの?」
そういえば近くに教会がある。そこに用があったカップルか。しかし感情的に泣き続ける女に対して男は戸惑ってばかりだ。
「けっ、こ……そう、だったか? 俺達は、どこからかこの街に逃れてきて……それで……ここへ……?」
「忘れたの? もしかして、忘れたというの? あの日々を、理解してもらえない苦しみを、それでも一緒にい続けた喜びを? 駆け落ちしようって言ったのは嘘? 私の家のお金が欲しかっただけ? 答えてよ、ねえ独歩さん答えてよ!」
女が男にすがりつく。今度は突然の修羅場か。しかし、女と男は別々に店内に入ってきたように記憶している。二人が知り合いだったことすら気付かなかった。あれは見間違いだったのだろうか。
泣き叫ぶ女を見ているうちに、記憶がだんだんと曖昧になってくる。
いや、と警察の包囲をどうにかするが一番の問題である犯人達は思う。どちらが先に見せに入ってきたかどうかなどそんなことはどうでも良い、さすがにそろそろ黙らせないと外に騒ぎが漏れる。突入などをされたら厄介だ。
「静かにしろ」
銃口をそちらに向け、低く言い放つ。少しは怯えて黙るかと思ったが、女はあまつさえキッとこちらあを睨んできた。
「部外者は黙っていてちょうだい! 今大事な話をしているの、邪魔しないで」
「お、おいクリス!」
なんだ、この女は。
戸惑い始めたのは犯人だけではない、彼女の婚約者だという男もまた、混乱を強くしていた。おい、と女を止めるように腕を掴んで引き止める。しかしそれを強引に振り払い、女は男へと縋りつくように掴みかかった。
「ねえ嘘だったの? 愛してると言ってくれたのは、一緒に行こうと言ってくれたのは、全て嘘だったの? 嘘ならどうして優しい言葉をかけてくれたの? どうして抱きしめてくれたの? 教えてよ、教えてよ独歩さん、教えてよ……!」
「嘘ではない!」
男が叫ぶ。女の涙に戸惑っていたとは思えないほど、彼はしっかりと女を見据えて言い放った。
「不安になるな、落ち着け! 俺を信じろクリス! 俺は嘘はつかん!」
恥ずかしいセリフをよくもまあこんなところで言えるものだ。
しかし面倒だな、と犯人達は目配せした。これ以上軽々しく行動されては困る。店員も戻ってこない。これは一発、示しをつけるのが最適か。
撃鉄を起こす。銃の内部で銃弾が発射準備を整える手応え。そしてその銃口を、女へと改めて向ける。
「黙れ、撃つぞ」
うるさい人間を黙らせるにはこれが一番楽だ。
「危ない!」
状況を察して男が女に手を伸ばす。しかしもう遅い。この引き金には既に指がかかっているのだから。
――そう、もう遅いのだ。
***
「国木田さん!」
叫び声とは違う明瞭な声が発せられ、国木田の耳朶を叩いた。ハッと我に返る。目の前ではクリスが自身に向けられていた銃口を蹴りで跳ね上げていた。
発砲よりも早い動き。目に追えたものではない。普通の少女ができる動きだっただろうか。彼女は何者なのか――この少女は自分の婚約者で――否、自分にはまだ婚約者はいないはずだ。
彼女は、誰だ。
混乱する頭で、しかし国木田は的確に行動する。
「【独歩吟客】!」
どうにかして相手の気を逸らすから準備していてくれ。そう言われ、何もわからぬままあらかじめ用意していた手帳の切れ端から自動拳銃が生成された。それを構え、撃つ。銃弾は犯人の手元へ着弾し、思わぬ衝撃に銃が取り落とされる。
「ぐあッ……!」
この銃声を合図に、店員がトイレの換気口から煙玉の煙を上げる手筈になっている。もちろんその煙玉は国木田の手帳の産物だ。狼煙は市警への合図――『突入可能』。ここまでは予定通り、クリスの提案通りだ。
国木田の元に下がってきたクリスと入れ違うように犯人らに駆け寄る。痛みに動きを止めた相手を投げ飛ばすのは簡単だ。難なく二人を床に叩き付ける。現場を支配していた緊張感が消え、安堵という名の穏やかな空気がじわりと戻り始める。
終わった。
「ありがとうございます国木田さん」
床に突っ伏した犯人らを見下ろす国木田の背にクリスが話しかけてくる。振り返れば、彼女はいつも通りの笑みを浮かべていた。そこに涙は微塵も見当たらない。こちらを熱っぽく見上げてきた眼差しもそこにはなかった。
「素敵な演技でしたよ」
「……演技、か」
あれは演技だったのか。そうだ、と国木田は自分に言い聞かせる。クリスは自分の婚約者などではない。駆け落ちもしていない。そういう演技をして、犯人を油断させ、こちらの思うように動いてもらっただけだ。
額に手を当てる。今日はとことん予定通りに事が進まない。記憶の混濁というべきか、未だに彼女を婚約者だと思っている自分がいる。これは何だ。人の記憶や心までも支配する、超常的な力。これはまるで。
まるで。
思考に耽る国木田に犯人の呻き声が届く。ハッと見下ろした先にいたのは小型拳銃を手にした男だった。もう一つ隠し持っていたのだ。確認しそびれた自分に衝撃に似た焦りが襲ってくる。
「まずい……!」
「く、そがあああッ!」
背後にいる彼女を庇おうと両手を広げる。が、冷静さの欠いた状態で乱射された銃弾は的外れな方向へと飛んでいった。弾は商品棚を抉り、天井に穴を開け、そして。
「あ……」
驚愕するクリスの上に、蛍光灯の欠片をばら撒く。
おびただしい数の足音が店内に入ってくる。犯人を拘束する音、蛍光灯の欠片を踏む音。数々の音の中、クリスの耳に一番大きく響いているのは鼓動だった。正常より幾許か早い、しかし生者しか持ち得ない確かな音。
「……ッ」
蛍光灯が撃ち抜かれ、欠片が降ってきたことは覚えている。まずいと思って頭を庇いながらしゃがみこんだことも覚えている。
しかし今の状態は。
「く、にきだ、さん……?」
自分のものより太く逞しい腕がクリスを包んでいる。この状況を理解するのに時間はかからなかった。
国木田が身じろぎする。パラ、と蛍光灯の欠片が床に落ちる。
この人は今、何をした。何をしている。なぜ、蛍光灯の直下にいたクリスよりも多く、その体に鋭利な欠片を浴びている。
「……大丈夫か」
その言葉は何を意味している。
「言っただろう、人質たる俺達は怪我をしてはいけないと。一般人だと言い張るわりに、自ら危険の前に飛び出していく……困った人だ」
降ってくる呆れた声音は、どこか優しい。
――知らない。
これは、誰だ。国木田ではない。国木田は、クリスにこういったことをしてこない。彼にとってクリスはただの知り合いなのだ、何度か関わりがあっただけの、ただの他人だ。だからこんな、自らを盾にクリスを守るような浅はかなことをしてくるわけがない。それほどの価値が、クリスにあるわけがないのだ。
知り合い以下の相手を身を挺して守るなど、そんな不利益なことを私欲と犯罪に満ちたこの街で誰がするものか。
何度も自分に言い聞かせる。そうして何度も、動悸を静めようとする。
――クリス。
記憶の欠片が耳に蘇る。その穏やかな声が、優しい声が、国木田のそれと重なりそうになる。白銀の髪、土色の目。
――クリス。
手が、伸ばされている。頭を撫でてくれる手だ。クリスのものよりも大きくて、その手つきは優しくて、泣きたくなるくらい懐かしくて。
けれど。
そのぬくもりは数を増し、クリスを掴み、逃がすまいと固定する。この肌に伝わる他人の体温が記憶の中の腕達の体温と重なり、クリスを縛める。呼吸が奪われ喉が締まり、全身が硬直する。
雨と鉄の匂いが充満している。
赤色が、視界にちらついた。
――悪寒が背を走る。
「は、なせッ!」
耐え切れなかった。
己を捕らえる腕を振り払う。逃げるように両腕を掴み、全身を抱く。それでも、全身は震え呼吸は乱れたままだ。
風が耳元で唸っている。
早く、と。
早く命じろ、と。
逃避を、破壊を、無への回帰を。
死を。
グッと息を詰めて目を強く閉じる。聞こえてくる風音を無視し、呼吸に専念する。早くこの幻覚を消さなければ。早くしなければ、勘付かれてしまう。国木田に――探偵社に、気付かれてしまう。それは避けなければいけなかった。相手が誰であろうと、弱みを見せてはいけない。過去を見せてはいけない。何も、晒してはいけない。
何も、知られてはいけない。
長く深く息を吐き出した後、そっと目を開ける。窺うように見上げた先で、国木田が気圧されたようにこちらを凝視していた。それへと弱く微笑む。
「……すみません、ちょっと、混乱してしまって」
嘘をつく。
「大丈夫でしたか?」
「……ああ。あなたの方が大丈夫ではないように見えるが」
「いえ。少し……混乱しただけですから」
嘘が、上手く言えない。
それでも笑みを向ければ、国木田は「そうか」とだけ言った。深く聞いてくるようなことはしてこない。心地良い他人行儀。それがクリスにはちょうど良かった。
縋り付くように両腕を掴む手から力が抜けない。けれど少しでも気を緩めれば、震えが全身を飲み込んでしまう。どうしたら良いのだろう。わからない。
沈黙がクリスと国木田の間に落ちた。
「お二人ともご無事ですか」
その沈黙に気付かないまま市警の一人が声をかけてくる。外部から壊された空気にクリスは安堵の息をついた。
「はい」
答える時にはもう、全身の震えは消えている。人の良い笑みを浮かべながら警官と一言二言話した。視界の隅ではトイレからフクダさんが戻ってきている。こちらを見て明るい笑顔を浮かべた彼に笑みを返し、クリスは先程から黙ったままの国木田へと同じ笑顔を向けた。
「国木田さん」
名前を呼ぶ。
「外でお話しませんか?」
「……わかった」
なぜ、とも言わず国木田は頷いた。物わかりの良い人だ。とてもとても、都合が良い。こちらの意図通りに動く駒、探偵社の社員、真面目でからかい甲斐のある愚直な人。ただそれだけだ。
クリスにとって国木田は、ただそれだけの相手であるべきなのだ。
だから――彼のこちらを慮るような表情に、わたしはほくそ笑むべきなのだ。