第3幕
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***
夕焼けが夜に侵食されていく様子を、太宰は病室の窓から見ていた。ガラスにうっすらと自分の姿が映り込んでいる。包帯に巻かれたいつも通りの自分が、壊れゆく街を見下ろすかのような平静さで遠くを見つめていた。
手術は終わり、後は安静にして傷の治りを待つだけだ。しかしそれすらも太宰には長い時間のように感じられている。
先程谷崎から状況を聞いた。そして今、手元にデータチップという猫からの贈り物を受け取っている。その贈り物の中のデータを元に敵のアジトを叩く作戦を、太宰は静かに脳内で組み立てていた。敵はあの魔人、ただ攻め込むだけではその尾を逃がしてしまう。少しのミスも許されない。できれば自分も、できる限り動きたかったのだけれど。
「……こればかりは困ったものだね」
腹の傷に手を置く。この身に異能を無効化する力がなければ、与謝野の治療ですぐさま動けるようになっていたはず。世界に多く潜在する異能者の中でも稀な存在、全ての異能を無効化する人間、それが自分だ。ため息を一つつく。
怪我は慣れきっていた。この肉を裂く痛みも痛みとして認識する程度で、だからといって錯乱したりだとか喚いたりだとかをする気にはならない。死が生の一部ならば、痛みもまた生の一部。逃れようとしたところで逃れられるわけもない。生は自分に付きまとい、緩く首を絞めあげてくる。
けれど、と太宰は微笑んだ。
「私は痛いのが嫌いなのだよ。これ以上痛い思いはしたくないねえ」
す、と横目を向ける。そこにあった切っ先に指を乗せ、とんとんと軽く叩いた。
「別に殺しにきたわけでもないのだろう?」
「……察しが良すぎる相手は退屈ですね」
言い、クリスはナイフを下げる。物音も気配もなく病室に入ってきた彼女は、呆れた顔で太宰を見下ろしていた。
「さすが探偵、ということでしょうか」
「まあね。……で、お見舞いは有難いのだけれど、あいにく食事は制限されていてね。花なら大歓迎、看護師さんに花瓶を持ってきてもらおう。何ね、誰も見舞いに来てくれなくて寂しかったのだよ」
「安心してください、わたしも見舞いに来たわけじゃありませんから」
「あ、そう」
じゃあ、と太宰はそばに立つ亜麻色の髪の少女へ口端を上げる。
「何の用かな?」
「……わかっているくせに」
「君の口から聞きたい」
「なぜ」
「それを国木田君が求めているからさ」
同僚の名を出せば、思った通りクリスは黙り込んだ。外よりも明るくなりつつある部屋の照明が彼女を上から照らす。物憂げな青が影に隠れる。
国木田の名を出したところで、彼女がその頑なに隠している本心をさらけ出すわけがない。そんなことはわかっていた。けれど少しは心揺らいだはずだ。
彼女にとってあの堅物の同僚は、ただの知り合いではなくなっている。
ぽん、とベッドの隅を叩いた。躊躇いの後、クリスはそこに腰を下ろす。
「……怖いかい?」
ベッドの上で握り込まれた拳を見、穏やかに問う。びく、とその手の震えが増した。
「……わからない」
ぎゅ、とそれを強く握り、クリスは俯く。髪に表情が隠れる。
「……怖いとしても、やらなければいけないものだから。やらなければ、わたしか誰かが死ぬ。なら、怖いかどうかは関係ない」
「君は優しい子だね」
「……優しい?」
ふふ、とクリスは小さく笑った。
「まさか。優しさというのは、自分を犠牲にして誰かを助けようとすることです。探偵社の皆のような人のことを優しいって言うんですよ。わたしのは怖い思いをしたくないという我欲、良くて偽善です」
「そういうところがだよ」
「――これが仮に優しさだと言うのなら」
太宰の声を掻き消すように口早に言い、クリスは静かに息を吐き出した。
「……自分のことしか考えられない優しさなんて、要らない」
それは諦めでもあり、嫌悪でもあった。太宰はそっと苦笑する。国木田はどうも厄介なことを押し付けてきたようだ。普段は逆なのだが、今回ばかりはこの立場に甘んじるとするか。
きっと、今の彼女に言葉を与えられるのは太宰だけだろうから。クリスの声なき声を聞き取れるのは太宰だけだろうから。
それをわかった上で、国木田は彼女をここへ向かわせた。言葉なき信頼、ならばそれに応えるのが仲間への誠意というものだろう。
「クリスちゃんはそう言うけれど」
太宰はゆっくりと言い聞かせるように言う。
「前にも言った通り、君は孤独を選び生き続けることで誰かを救っている。それで十分なのだよ。そう思い詰める必要はないんだ」
「……最近、少し思うんです」
自分の膝を見つめる少女の横顔は暗い。
「強さって何だろうって。……フィーは強者とは他者を虐げる者のことだと言っていた。なら探偵社は弱者ということになる」
「けれど君はそう思わない」
「あなた方が弱者ならばフィーは敗れなかった。……探偵社の強さはきっと、他者を殺め圧し支配することではなく、自分を投げ打って他者を救うことです。人が優しさと呼ぶこと、そして」
フィッツジェラルドの元で力というものを知った少女は、それをぽつりと続ける。
「……わたしには、できないこと」
「不満かい?」
「わからないんです」
ぐ、と拳が握り込まれる。
「……あなた方がどうしてそれをできるのか、わからない。フィーが教えてくれた強さとは違いすぎて、真似してみたところで真似しきれなくて。……太宰さん」
呼び、クリスはこちらへと顔を向けてきた。光を受け入れない青が、暗く太宰を見つめる。
「……あなたはどうやって、探偵社員になったんですか」
どうやって、か。
それは所属の話でも、探偵社の一員になる経緯の話でもないだろう。ポートマフィアの幹部として悪の限りを尽くしたというのに、なぜ優しさという強さを知り、それを扱えるようになったのか。
正反対の強さを、どうやって手に入れたのか。
――どちらも同じなら、佳い人間になれ。
「何、難しいことではないよ」
太宰が微笑んだのは、あの言葉を、それを言った友人を思い出したからだ。
「私にとっては人を殺めることも人を救うことも大差ない。周囲の動きを予見し、しかるべき手順を踏み、予定されていた未来に辿り着くだけだ。けれど一つだけ、違う点がある」
「……違う点」
「誰かの願いを叶えているかどうかだ。……そうだろう?」
問えばクリスは呆然と瞠目した。
「……願い」
「君は救われていると自覚している。そんな君だからこそ、人を救うということがどんなことか、わかっているはずだ。君が今まで真似をしてもしきれなかったのは、それに気付いていなかったからだろう」
願い、と彼女は再び呟いた。見開かれた青に光が差し込み緑を乗せる。煌めく湖面に深緑が映り込む、湖畔の輝き。
「……それが、救うということ……?」
「それがわかれば、君のこれからの選択が人を殺めるものなのか救うものなのか、判断できるようになるさ。……クリスちゃん」
太宰はクリスへと微笑む。まるで初めて朝日を見た少女が目の前の光景を瞬きせず見つめ続けるように、驚愕と動揺と希求を宿した眼差しを光に透かして、彼女は太宰の言葉を待つ。
彼女が知りたがっていることを、太宰は予測している。それは、今まで彼女が知らなかったもの。望むことができず、望んだことのないもの。恐れ、拒み、しかし欲してきたもの。
――”これから”についてだ。
「安心したまえよ」
穏やかな声で太宰は言う。
「国木田君は勿論、私達は君が何を知ろうが何をしようが、君をクリス・マーロウとして迎え入れる。それが武装探偵社だ。知っていると思うけど」
青が緑を孕んで揺らめく。言葉を失った唇がわななく。
「……ッ」
声を乗せ損ねた息が引きつる。
顔を逸らし、クリスは俯いた。亜麻色が揺れる。ベッドの上の拳が細かに震える。
「……時々あなたが怖くなりますよ、太宰さん。何も言ってないのに答えが返って来る」
震えた声が途切れ途切れに言葉を発する。
「……何者なんですか、あなたは」
ふふ、と太宰は軽く笑ってみせた。肩を竦めて明るい声で答える。
「何、私はただの自殺愛好家だよ。ただ今心中してくれる女性を募集中。もしよかったら、どう?」
「お断りします」
「ちぇ」
唇を尖らせた太宰へ、クリスは微かに肩を揺らす。笑ったようだった。
「……つくづく、あなたを敵には回したくありませんね」
「奇遇だね、私もだ」
目を閉じて笑みを返す。
そう、クリスを敵には回したくない。彼女には魔人ドストエフスキーの手が伸びてきている。おそらくクリスを誘い出し、何らかの手で手元に引き寄せようとしている最中だ。太宰の知らない何らかの情報を使って、あの男はクリスを操ろうとしている。彼女にはそれへ抗ってもらわなければならない。
――世界のあるべき姿を求めただけのことですよ。
――私はその本を使って、罪の、異能者のない世界を創ります。
魔人の言葉からは未だ詳細がわからない。けれど、彼女の存在と異能が奴にとって好都合であることは確か。
介入者。
世界に反抗し世界を破壊する、異質の者。天候操作の異能【テンペスト】と再定義の異能【マクベス】の所持者。本来想定されていなかった存在。付け加えられたイレギュラー。
太宰が講じてきた策が失敗すれば、彼女は魔人の駒と化す。けれど成功すれば。
彼女を、その体に絡まった幾本もの操り糸から助け出すことができる。
その白銀の糸から。