第3幕
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震える指先でクリスは文字を画面に刻んでいく。
『まさか』
『楽しんでいただけたようで何よりですよ』
こちらの神経を逆撫でするような言葉が淡々と表示される。
『なぜその言葉を知っている』
『あなたが知らないことを、ぼくは知っているからです』
『わかりやすく話せ』
『ではぼくの話も聞いていただけますか?』
「クリス」
突然の呼び声にクリスはバッと振り返った。国木田と敦が驚いたようにこちらを見下ろしてきている。その視線に、素早く表情を作った。集中しているところに突然声をかけられ驚いたのだと思わせる、焦りと安堵が入り混じった笑みを浮かべる。
「どうしましたか?」
国木田は一瞬何かを言いたげにし、しかしその一言を端的に告げた。
「……花袋が生きている」
その眼差しは真っ直ぐで、眩しい。嘘の欠片もない国木田の言葉と表情にクリスは思わず顔を輝かせて腰を浮かせた。
「本当ですか」
「ああ。だが……」
国木田が眉間のシワを深めた。
「……社長が、消えた」
予期しない報告に、え、と声が漏れ出る。笑みを保つことすらできなかった。
「……ポートマフィアに攫われたんですか」
「社長自ら、出て行ったらしいんです」
絶句するクリスへ、横からケータイを手にした敦が補足する。
「モンゴメリちゃんの異能部屋から、友に会いに行くって言って……」
モンゴメリの異能部屋、か。敦は先程「安全な場所へ社長を移した」と言っていた。確かにモンゴメリの異能はものを隠し守るには最適だ。モンゴメリ本人も異能空間に隠れてしまえば、探し出すのは困難になる。ポートマフィアといえど簡単に福沢へ接触することはできないだろう。
けれど、福沢はその場を後にした。安全な場所から出て行った。
――友に、会いに。
「ポートマフィアでもボスがいなくなったみたいで、休戦状態なんですけど……今社員全員で社長を探しているみたいです」
「……なるほど」
敦の言葉に福沢の真意を知る。武装探偵社とポートマフィア、二組織による長の生死を巡った組織戦。仕組まれた通りに潰し合うしかないのなら、長同士が決着をつけるのが最も早く簡潔で被害の少ない方法。福沢が友と呼んだのは、おそらく森のことだろう。
――三刻構想。
あの猫の御仁の話を思い出す。福沢と森はただ組織の長として対立しているだけではない。この街を守るために、異なる時間を守護している同志なのだ。二人にはとうの昔から、この街のために、組織のために、身を投じる覚悟がある。
しかし被害の規模に関わらず、福沢か森のどちらかが死せばこの街は大きく揺らぐ。二人の決闘は避けなければいけない事態だろう。
「もうすぐ日が暮れる。太宰も手術が終わって目が覚めたようだ。俺達も捜索に加わりたいところなんだが、そちらの進み具合はどうだ」
国木田がクリスの手元を覗き込む仕草をする。反射的に体で小型パソコンを隠そうとするのを押しとどめ、クリスは一瞬の間に思考した。パソコンを折り畳んで画面を伏せるか、別の画面を表示させるか、どちらも不自然で違和感を与えてしまう。ならば平然と画面をさらけ出すか、しかし国木田が英文に気付かないわけがない。
ちらと画面を見遣る。そこに、クリスからの返信が返ってこなくなった理由を察してか、文章が次々と綴られていた。
『明日の早朝、お会いしませんか?』
『場所と時間はあなたならおわかりになるはず』
『その時、あなたに真実の在り処をお教えするといたしましょう』
――真実の在り処。
真実とは何だ。彼は、何を知っている。
決断はすぐに済んだ。
「データは全て消されていたようです」
言い、所狭しと並べられたモニター達を指差せば、国木田の意識は小型パソコンから逸れた。その隙に手早く接続を切ってパタンと小型パソコンを閉じる。指差した先のパソコンはエラーを示す画面のまま次の指示を待ち焦がれていた。どうやらあの色白のロシア人は、パソコンを壊すことなく自身のアジトに関するデータを消し去っていたらしい。手の込んだことをする。
「復元は不可能、手がかりはなしです。でも花袋さんの生存が確認できたようで、それだけでも収穫でした」
小型パソコンをポーチにしまいつつ立ち上がり、国木田を見上げる。どうやって花袋の無事を確認したのかはわからないが、なぜわかったかなど訊く必要はないだろう。その表情に覇気が戻っているという事実だけで、クリスには十分だった。
「国木田さん」
名を呼ぶ。
「今後わたしにそちらの情報を渡さないでください」
「……何?」
「敵はこちらの動きを見ているはず。わたしへの連絡すらも把握されている可能性があります」
ポーチに入れた小形パソコンが重い。
ドストエフスキーは以前からクリスのことを知っていた。その存在も、過去も、全て。先程〈神の目〉を使った際、フィッツジェラルドは彼にクリスの話をしたことはないと言っていた。ならば、他の筋から情報が漏れたということだ。
クリスを知る者は限られる。そのほとんどは死に絶えた。ギルド以外で残っているのは、ただ一つ。
――英国。
その可能性を考えるのなら、黙って身を潜めているわけにもいかなかった。奴が何をどこまで知っているのか確かめなければならない。そしてそれを、ドストエフスキーはわかっている。
「他の人への連絡もしない方が良いでしょう。その辺りは乱歩さんや太宰さんも把握していると思いますが」
「何をする気だ」
何も言っていないのに、国木田は厳しい顔でクリスを見つめてくる。あっけらかんと笑い、背後に両手を回しながら「やだなあ」と明るい声を出した。
「何もしませんよ。これ以上何もできませんし。でも、きっと敵はわたしや他の部外者をも視界に入れているはずです、用心に越したことはない」
「クリス」
「福沢さんをお願いします」
国木田を遮り、にこりと笑いかける。これで、国木田は呆れ顔で納得してくれるはずだった。けれど彼はその表情を変えないまま、後ろ手に回していたクリスの腕へ触れ、そのまま軽く引いてきた。促されるように背中に隠していた手を差し出す。
国木田の手のひらで、クリスの指は細かに震えていた。
その震えが恐怖によるものだと、国木田は知っている。
「何があった」
「……何でも、ないです」
「クリス」
「花袋さんが生きているとわかって気が抜けてしまったんですかね」
「……どうしても言えないのか」
黙り込むクリスに、国木田はため息をついた後手を離した。クリスもまた、息を吐き出す。震えを押さえ込むように両手を重ねて強く握り込んだ。
目を閉じる。
「……本当は、すごく怖いんです」
あの国がすぐそばにいる。あの国が、もしかしたらとっくの昔にこの身を見つけ出してしまっている。
ドストエフスキーが英国と手を組みクリスを誘い出している可能性はある。けれど奴は、奴の手下であろう道化師は言っていた。
――『あなたには全ての罪を消し全てを救済することができる力がある』。
奴はクリスに対して何かを企んでいる。クリスを安直に罠に誘い英国に引き渡すとは思えない。その意図を知る必要がある。
「本当は逃げたい。でも、逃げたところで相手に先手を取られるだけ。なら、少しでも彼らより多くの情報を集めて、少しでも優位に立たなきゃ。だから行かなきゃいけないんです」
笑って「何でもない」と言えたのなら、それで納得してもらえたのなら、どんなに良かったか。けれど国木田はクリスの嘘を見破ってしまうし、クリスもまた国木田へ嘘をつくのが下手になってしまっている。
それに安堵している自分が、確かにいた。誤魔化しても本心を見通してくれる人がいるという安心感が芽生え始めていることに、気付いていた。
その安らぎに自分は甘えようとしている。それが正しいことなのかは、判断がつかなかった。
「どこに、行くんですか?」
敦が心配そうに尋ねてくる。クリスはできる限り明るく笑いかけた。
「顔見知りの人のところに。聞きたくない話をしに行くので、気が進まないんです」
「……大丈夫ですか?」
「はい」
はっきりと言い切る。それは敦を安心させるためのものでもあり、自分の決意を固めるためのものでもあった。迷ってはいけない。迷いは隙になる。
姿見えぬ敵に、隙は与えられない。
「……全く」
国木田がため息をつく。そして胸元から手帳を取り出した。何かを書き、ページを破り取って渡してくる。
「……これは?」
「あなたは一人で抱え込み過ぎだ。頼れと言っているのにまるで聞く気がない」
「……すみません」
「奴なら」
少し何かを思う素振りを見せながら、国木田は一度言葉を切る。その僅かな沈黙は、躊躇いに似た確信だった。
「――奴なら多くを言わなくともわかる。行く前に顔を出してやれ」
静かな声に返す言葉が思いつかない。人を救うことを何よりも大切にするこの人にとって、頼ってもらえないということがどれほど傷付くことか、わかっている。酷いことをしているとわかっている。今までもこうして誤魔化して騙して黙り込んで、その結果巻き込んでしまっていることも、わかっている。
それでも彼は、責めてこないのだ。クリスが「言わない」ではなく「言えない」のだと察して、その上でこうして手を差し伸べてくる。それがクリスをどれほど救っていることか。
紙片を受け取り、頭を下げる。その手にポンと手が置かれた。
「……必ず帰って来い」
優しい声が降ってくる。震える唇を噛み締めた。
「……はい」
そうでないと、この胸に詰め込んだ叫びが返事より先に溢れてしまいそうだった。