第3幕
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「――ッ」
無性にその事実が腹立たしく思えてきた。こんなに近くで叫んでいるのに、こんなに近くで名前を呼んでいるのに、聞いてくれない、こちらを見てくれない。いつもは曇りなく真っ直ぐに見つめてきてくれる眼差しは錯乱し揺れ動き、何も映していない。
わたしを、映していない。
「このッ……!」
左手を国木田から離し、ガッと顎の下から頰を挟むように掴んだ。むぐ、と奇妙な声を漏らした国木田の顔を強く引き、自分に近付ける。
「わたしを見ろ!」
国木田の顔が、目が、眼前で驚愕を宿す。
やっと目が合った。
「見失うな!」
怒鳴る。
「あなたの前にいるのは誰だ、あなたが今その目に映しているのは誰だ!」
叫ぶ。
その傷付き揺れる眼差しに。
望みを失った男に。
「かつてあなたはわたしに標になれと言った。わたしを救うことで自分の理想の正しさを確かめたいのだと。あれは嘘だと思っていました。あなたはわたしに頼らなくても十分強いから、あれはわたしのための嘘なのだと思っていました」
けれど、違った。
勘違いをしていたのだ。
この人は、強い。だからこそ、壊れやすい。触れただけで壊れるような脆さはないが、すぐに壊れないからこそ少しずつヒビを溜め込み、やがて少しの衝撃をきっかけに一瞬で欠片の山と化す。
「けれど今一度、約束しましょう」
その壊れやすさを知った今、その嘘に縋り甘えることはできない。
「――わたしがあなたの理想になる」
「……クリス」
「あなたの理想はまだ生きてるんです、国木田さん」
肩を掴んでいた手が緩み、離れる。クリスもまた、国木田の顎から手を離し、滑らせるように頰へと触れた。
「わたしを見て。あなたの理想は、あなたの理想に救われている人間は、ここに、あなたの目の前にいる」
だから。
どうか。
わたしから、目を逸らさないで。
国木田の手がクリスの手を覆う。重ねた手のひらに熱がこもる。大きく見開かれていた目は落ち着きを取り戻し、そっと伏せられた。
「……すまない」
「大丈夫ですか」
「ああ」
ありがとう、と呟くように国木田が言う。ようやく冷静に話ができそうだった。安堵し、するりと国木田の頰から手を引っ込めようとする。が、なぜか国木田はその手首を掴んできた。背中を壁につけたまま、クリスは目を瞬いて目の前の男を見つめる。
「……国木田さん?」
「クリス」
吐息が頰を掠める。逃げようとするも、右手で頰を包むように当てられた。視線が逸らせなくなる。目の前に、眼鏡越しの眼差しが射抜いてくる。
いつも通りの真っ直ぐな意志が、直接触れられるほどの距離で見つめてきている。
「……な、んですか」
胸の浮き立つ心地よい鼓動が、自分の体の中から聞こえてくる。
「嘘だと思っていたのか」
「え?」
「あの時の俺の話を、今までずっと嘘だと思っていたのか」
不機嫌そうに眉をしかめて国木田が問う。嫌な予感に、クリスは曖昧な笑みを浮かべた。
国木田が聞きたがっているのは無論、俺の標になれというあの話である。あれはクリスに国木田を頼らせるための嘘だと思っていた。が、この反応、もしかすると。
「……まさか」
「そのまさかだ」
しばし二人で見つめ合う。沈黙が互いの思考を記憶の中へと誘った。
「……わたしに頼らせるための嘘なんじゃ」
「てっきり、俺の不純な気持ちのせいで頼ってこないのだと……」
「不純……?」
話が微妙に噛み合っていない。
――俺に頼れ、クリス。俺はあなたを救うことで、俺の理想が正しいのだと知ることができる。
あの言葉が、嘘ではなかったとしたら。
あの言葉が、クリスのために作られた言い訳ではなかったのだとしたら。
「……まさかあの時、わたしを救いたいと本気で言って……?」
「それ以外に何がある! そもそもあれを信じていなかったというのはどういうことだ! ならあなたは、俺の気持ちに気付いているのではないということか……!」
「気持ち……って、どんな?」
「それは」
バッと国木田の頰が一気に紅潮する。初めて見る、国木田の表情だった。緊張、混乱、高揚、興奮、戸惑い、様々なものがない交ぜになった、感情。
これは、何だ。
見たことのない感情がそこにある。触れたことのない感情が、そこにある。
「……国木田、さん……?」
手首を掴んでくる手が熱い。頰に触れてくる手が熱い。
こちらを見つめてくる眼差しが、熱い。
同じ熱が、クリスの体の奥にも、胸の奥にもある。これは何だ。鼓動と共に体内を一気に駆け巡るこれは、何だ。
知っている。
けれど、これは。
「連絡してきました」
バタン、と玄関の戸を閉めて敦が部屋に入ってくる。
「与謝野先生の方もマフィアビルへの突撃を取り止めて撤退したみたい、です……」
はた、と目が合った。敦の目が大きく見開かれていく。その過程を見、クリスは「あ」と声を漏らした。
敦の目に今映っているのは、クリスの手首を掴んで壁に押しつけ頰に手を添えた国木田だ。顔も近い。しかも互いに、顔が赤い。
「す……す……」
敦がわなわなと唇をわななかせる。
「すみませんでした失礼します!」
「待て敦誤解だ!」
部屋を飛び出していこうとする敦を素早く国木田が駆け寄り捕まえる。首元を掴まれた敦はシャカシャカと手足を動かして国木田から逃げようとする。
「すすすすすみませんでした何も見てないです僕は何も見てません!」
「だから誤解だ!」
ぎゃんぎゃんと二人は大声で騒いでいる。古アパートでそんなに大きな声を出していたら他の住人に迷惑なのではないだろうか。壁にずるりと寄りかかりながら二人の様子を見、自分の頰に手を当てた。
触れられていた手のひらの熱さが、まだ残っている。
自分の中に湧き上がる感情と同じ温度の、熱が。
「……気持ち」
国木田の言葉を思い出す。
彼が言っていたその単語が意味するもの、それは。
「……嘘だ」
呆然と立ち竦む。
嘘に違いなかった。でなければ、どうすれば良いかもわからなかった。