第3幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
***
〈神の目〉を使って得た情報を元に、クリスは街を歩いていた。とはいえ中心街ではない。特に特徴のない、住宅街だ。車がぎりぎりすれ違える程度の幅の道路沿いに電柱が立ち並び、数メートルごとに脇道が現れる。網目状に組まれた道路に合わせて一軒家やアパートが並んでいる、至って普通の住宅街。
その中をクリスは道に迷うことなく進んでいく。手にした紙を見ることもない。
「……まさか、ね」
ドストエフスキーの居場所を探し出した結果、とある住宅街へ向かったことがわかった。そこに一人、クリスも知っている元探偵社員のアパートがある。彼は白鯨の端末に付けられていた鼠のマークについて調べていたはずだ。
鼠。
その時点で気付くべきだったのかもしれない、とクリスは顔を歪める。花袋は鼠について――《死の家の鼠》について調べていたのだ。ドストエフスキーはその組織の頭目、花袋の捜査に気付き手を打ちに来ていてもおかしくはない。
足早に道を行き、目的のアパートに辿り着く。扉の前に佇み、部屋の中の気配を探る。
物音はない。人の声もしない。争っているような気配は一切なかった。
そっとドアノブに手をかけ、回す。鍵がかかっていないのはいつものことだ。
「花袋さん」
部屋の中へ声をかける。返事はない。足を踏み入れようとし、ふと気が付いた。
足跡がある。積もった埃の上に、足跡が。
花袋のものでも国木田のものでも敦のものでもない、見慣れない、足跡が。
「――ッ花袋さん!」
構わず部屋の中へ駆け込む。廊下を駆け、ふすまを引き上げた。
「花袋さん!」
ジジ、と画面のついたパソコンが返事をする。ただそれだけだった。
布団が敷かれている。人の姿はない。台所にもトイレにも、誰もいない。
「……遅かったか」
「こんにちはー……」
玄関から声が聞こえてくる。明るくて、しかしどこか焦った風のある、少年の声だ。
ガチャ、と扉が開く。その先にいたのは敦だった。
「……あれ、クリスさん? どうして花袋さんの部屋に……」
「敦さんこそどうしてここに。福沢さんがポートマフィアに狙われてるんじゃなかったんですか」
「社長は安全な場所に移してあります。他の皆は、ポートマフィアのボスを狙ってビルに攻撃を……」
「馬鹿な」
武装探偵社は少数精鋭とはいえ数では著しくポートマフィアに劣る。突撃すれば全員無傷では戻れない。
なるほどそういうことか、とクリスは先程から音が拾えなくなった中也の盗聴器を思い出す。音が聞こえなくなる直前、微かに乱歩の声が聞こえた気がした。乱歩が無策で中也に立ち向かうとは思えない。彼が中也に勝利するのはその頭脳においてだけ。頭脳勝負に引き入れたか。けれど、どうやって。そもそもなぜ盗聴器が機能しなくなったのだろう。
なるほどそうか、と思い至ったのは、乱歩によく会いに行っている元同僚を思い出したからだ。ポオの異能を都合良く利用された可能性がある。なるほど中也相手ならば、推理小説の中に閉じ込めておけばかなりの時間稼ぎになるだろう。可哀想であるが最適な対処法だ。
「敦さんは行かなかったんですか?」
「花袋さんに鼠のマークを調べてもらってたあの依頼で、もしかしたら敵のアジトを探し出してるかもしれないんです。なので会いに来たんですけど……」
ひょこ、と部屋を覗き込み、敦は「あれ」と声を上げる。
「いない……? 花袋さんが布団から出ることはないはずなのに……」
「……敦さん」
何と言えば良いのだろう。福沢を守るために命を賭して戦っている彼らに、数少ない希望に縋っている彼らに、花袋がドストエフスキーに目を付けられたかもしれない、などとどうして言えるだろう。
「クリスさんも花袋さんに会いに来たんですか?」
「……ええ、まあ」
「そうなんですね。花袋さん、どこ行ったんだろう……」
困ったように部屋を見回す敦から目を逸らす。ドストエフスキーが花袋と接触したというのはクリスの推測でしかない。偶然外出している可能性がないわけでもないのだ。ならばクリスの推測を敦に話したところで希望を潰す以上の何にもならない。
目を逸らした先でパソコンが動いている。部屋の主がいなくなった部屋で、変わりなく、動き続けている。
暗い部屋の中で光を発し続けるモニターをじっと見つめた。
ギシ、と廊下の方から足音が聞こえてくる。ハッと振り返った先にいたのは、花袋ではなく。
「……国木田さん?」
気の抜けた様子で背を丸めた国木田が、部屋に入ってくる。手が届くほどの距離になって初めて、国木田の目がクリスを捉えた。
「……どうして、ここに」
「花袋さんに会いに来たんです。用があって。そんなことより」
嘘を流れるように言い、クリスは国木田の顔を覗き込む。
「……何か、あったんですか」
国木田は黙り込むだけだ。敦を見遣れば、彼もまた目を逸らす。ただならない何かがあったことは確かだった。
「花袋は」
国木田がぼそりと言う。慌てて敦が答えた。
「それが、いないんです。部屋のどこにも……」
敦の声を聞き流しているかのように国木田は部屋へと足を踏み入れる。そして迷わず機器の置かれた壁へと歩み寄った。
ギシ、と強く畳を踏み付け、腰を落とす。無駄のない動きで拳を壁に叩きつけた。
――ドゴォッ!
壁に穴が空く。パラパラと壁材が欠片となって畳に舞い落ちた。ポカンと目を丸くする敦と共にクリスもまた息を呑む。
「……日本の壁って柔らかいんですね」
「壁が柔らかいわけじゃないと思います、クリスさん」
呆然とする二人をさて置き、国木田は壁の中から何かを引っ張り出す。
カメラだ。
「花袋は有事のため自室の映像を記録している」
抑揚のない声で言い、国木田はカメラの内蔵メモリをパソコンにセットする。その背中はぴんと伸びてはいるものの、いつも見るものよりもどことなく小さく、儚い。
「……国木田さん」
静かに名を呼ぶ。国木田が窺うようにこちらを見上げてくる。何かを言おうとして、口を噤んだ。
そのメモリに記録された映像が、国木田にとってどんなに衝撃的なものかは簡単に予想がつく。けれど、彼の手を止める言葉が続けられない。
黙り込んだクリスに気遣う素振りを見せてから、国木田はパソコンへと向き直った。動画ファイルを再生する。
布団に寝そべったままパソコンを操作する花袋の様子が画面に映し出された。見慣れた光景だ。
『ここを……こうして……』
花袋が瞬きすら忘れたままパソコンを見つめて手を動かす。その手がピタリと止まった。
『出た……』
画面の中で花袋が声を漏らす。
『これじゃ。ここが奴等のアジトじゃ』
花袋は興奮した様子でさらに手を動かしていく。ふと、画面の端に映っていた襖が動いた。
ス、と静かに開けられたそれの奥から一組の足が入ってくる。細い体の男が一人、躊躇わずに花袋を見下ろし、そしてその手に持った拳銃を布団へと向けて。
撃った。
画面の中の銃声が部屋へと響く。
「……まさか」
掠れた呻き声を上げ、国木田が布団を掴む。バサリと大きく捲られた布団の下から赤が現れた。
血だ。
むわりと立ち上った鉄の匂いに敦が息を呑む。
「……そんな」
銃弾が撃ち込まれる画像、血に染まった布団、姿のない花袋。これらは事実を隠すことなく告げてくる。
花袋が消された。
国木田が畳の上へと膝をつく。その姿から、クリスは顔を逸らした。
重い空気が三人へのしかかる。呼吸がままならなくなるような、鬱屈とした畳の匂いが血の匂いと共に部屋をたゆたっている。
「……敦」
生気のない声がかろうじて聞こえてくる。
「与謝野先生に、連絡を。……手がかりが途絶えた」
「国木田さん……」
「急げ。連絡の遅れは作戦に響く」
静かな指示に、敦は黙って顔を俯かせて立ち上がり、ケータイを手に部屋を出ていく。ふすまの向こうから玄関が開け閉めされる音が聞こえてくるのを、クリスは聞いていた。
国木田がよろりと立ち上がる。来訪者が去った後の部屋を映した映像と、床に広げられた血まみれの布団を見下ろし、佇む。
「……クリス」
静かな部屋に静かな声が響く。
「……なぜここに来た」
それは先程答えたばかりの問いだった。繰り返された質問の意図がわからないまま、クリスは同じ答えを返す。
「花袋さんに会いに来たんです。用があったので」
「違う」
暗い部屋の中で国木田がこちらを見る。モニターからの青白い光が国木田を背後から照らす。
「なぜここに来た」
「……だから、花袋さんに」
「ならなぜ俺を止めようとした」
大きく一歩を踏み出して国木田が迫ってくる。後ずさる前に、両肩を掴まれた。治りきっていない傷口に強く指が食い込んでくる。
「いッぁ……!」
「先程隠しカメラの映像を確認しようとした俺をあなたは止めようとした。知っていたのか、花袋が消されたことを。なぜだ、なぜあなたがそれを知っている」
問い詰めるように国木田が迫ってくる。肩を掴んでくる手首を掴んで抵抗するも、効果がない。そのまま壁へと背を叩きつけられた。痛みが倍増する。悲鳴が漏れる。それでも、国木田はなおも強く肩を掴んでクリスへと迫る。
「今まで何をしていた。関わるなと言ったはずだ、なのになぜここに来た。答えろ」
「待、ッ……手を、離して……!」
「答えろクリス。なぜだ」
「く、にきだ、さん、待っ、て」
「答えろ!」
「ッい……!」
痛みが全身を麻痺させる。悲鳴が喉を突き破る。いつもなら気付いてくれるはずの国木田は、何かに急いているかのようにクリスを掴み問い詰めてくる。
「何をしていた、どうしてここにいた、なぜわかった! 答えろ、答えろクリス!」
「う、あ……」
「なぜここにいる! 関わるなと言ったのになぜだ! ルールを変えようとした先で少女が死んだ、調査を依頼していた花袋が消された、今度は何だ、何がある!」
「くにきだ、さん」
「これ以上関わるな! 今度誰かが目の前で死んだら、俺は」
苦しむクリスを前に、国木田は何も映さない目を大きく揺らす。
「俺は……!」
怒鳴り声に悲痛が混じる。その声は見えない刃となって太くクリスの胸を貫いた。痛みとは違う衝撃に目を見開き、息を止める。
目の前に見慣れた人がいる。いつもクリスを案じ、気を遣い、手を差し出してくれる人だ。けれどその眼差しは何も捉えないまま、ただひたすらに答えのない問いを吐き出し、その手でクリスを痛め付けてくる。
これは、誰だ。知らない。この人はいつも強くて気高くて、暗く痛ましい絶望とは無縁のはずだ。
――違う。
そうか、と気が付く。
そうか、わたしは。
わたしは勘違いをしていたんだ。
痛みに歯をくいしばる。肩を掴む手を解こうと爪を立てる。けれど鍛えられた男性の腕を振り解けるわけもなかった。抵抗を表せば表すほど、拘束を強めるかのように国木田は力を入れてくる。
頭が朦朧としてくる。痛みだけが脳を支配する。
けれど痛覚に乱された思考の片隅で、考える。
「くにきだ、さん、きいて」
訴えようと悲鳴以外の声を出す。
「くにきださん」
腕の強さは変わらない。喚くように問い続ける国木田の叫びも途絶えない。
声が、届いてくれない。